YURIKOのブログ

訪れて下さって有り難うございます(*^_^*)闘病中につきゆっくり無理なくを心掛けます。ご訪問コメント疎かでごめんなさいね

突然ですがへんな記事です^^; ケータイ投稿記事

イメージ 1

イメージ 2




皆様いつも有り難うございます

(*^_^*)



突然ですが

^^;



Ι+Ι=V

|+|=――

Ι+Ι=⊥

Ι+Ι=<

Ι+Ι=Г

Ι+Ι=ΙΙ

Ι+Ι=いちたすいちは

Ι+Ι=いぬ

Ι+Ι=おともだち

Ι+Ι=ふえました。

Ι+Ι=two

Ι+Ι=ワンワン

Ι+Ι=いちいちきくなのいちいち

Ι+Ι=+

Ι+Ι=⊥


Ι+Ι=いちたすいちいこーる



図形は回転させればいくらでも増えますが、

携帯にはなかなか見つからないですね^^;)


私が頭が疲れたので

空想して書きましたが

子供がこのように答えたら

先生はバツつけるかな〜〜


Ι+Ι=Λ

Ι+Ι=Х

Ι+Ι=Ι+Ι

そりゃそうですけれど^^


小さい子供が

「アルファベットでもいいですか?」

と聞きたくても

アルファベットという言葉を知らなければ、


「角度は何度でしょうか?」と聞きたくても

角度なんて言葉を知らなければ、


ぺけつけられて、
ああ、そういうものかと


多勢に合わせるのでしょうね


Ι+Ι=じゅうじか

Ι+Ι=きょうかいがっこう


本当に教会学校が推奨されていたら

先生も信徒だったら

先生、喜ぶかも
^^*


殆んど連想ゲームみたいですね



人間は

このように多彩


神様が同じ人間を造らないで

全部違う人間に造られたのですよね。


人とひたすら同じであろうと頑張り過ぎると

疲れたり

頭がおかしくなります自分ですが

誰が何言っても

性急に

そのひと言を

相手の全てみたいに感じるから

過剰反応したりしていたかもしれません。

殆んどが
独り相撲に終わっていたりで

ああ恥ずかしい

はは(*´艸`)



つまりはせっかち…………

私ごときに



分かるわけないっしょ。

(。・ω・。)



(^^)vと先生にアピールして見せてたら

なるほどあの子は
Ι+Ι=V
と考えているのね、

と分かってくれる先生なんて




神様かもね

*^^*)







おしまい
^^

これだけ…

はい、今日はおしまい。

^^;


他にやるべき事ができましたので

すみません




感謝致します


(;^ ^)v


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先日の礼拝から、また脱線します。^^;(2) ケータイ投稿記事




続きです^^*)



……例えばある朝、

私は重荷を抱えて礼拝をおささげしに走ってはいますが、
心に平安は無く、
怖い顔のままで礼拝に相応しくない自分を感じていました。
駅はもうすぐ。。。


『ダメだ、おっかない顔が内側から治しようもない、
神様、助けてください。!!(><)
誰か助けてくれますように!!』

と祈りながら走っていました。


彼方から和服姿の女性が私に微笑みながら歩んで来ます。

走る足を一応ゆっくりに変えてみる………、



『あの〜^^』


『はい?・・;』

(ここでいきなり普段の練習効果の作り笑い出ます^^;)


『○○会館はどちらかしら?^^』

『はい!^^○○会館ならば、あちら、ゆりちゃんという居酒屋の看板を此方へ曲がって
少し歩くと此方へ直ぐに見えますよ!^^』


(頭の中は『右、左くらい言いなさいよ〜もう(*´艸`)』となっている)


『^^〃あら、分かりました。本当に有り難うございます、助かりましたわ〜!^^〃』

『いえいえいえいえ、そんな〜^^〃どうぞお気をつけて〜^^〃』


にこやかに微笑みながら去るご婦人。


『^^〃あら?神様治りました。
あの方が助けてくださいましたのね^^*きっと…』


『あれ?何でお礼言われたんでしょうかね、お礼言ったらおかしいから言わなかったけど、
お礼言うの此方ですよね^^;)あれ?』



あれ?^^;



……だから

自分のしたこと

相手のしたこと

相手も私もしてもらったと思っていることで

そんなに高等な思考や感情が働いたとは思えません。

駆け引きらしきものがどこにもない。

あれは現象だったが、
 
こうしてあとで考えると、
 
ひとつの事象であったことに気が付きます。


神の支配下に起きた事象だったに違いない。

と思うのです。



私は、してあげたいつもりはなく

ただ誰かに助けて欲しかっただけ。


相手もしてあげたくて道聞くわけがなく、

ただ助けてほしかっただけ。


結果的に愛らしきものはあまりなかったかもしれない。


確かなのは、

相手が喜んでいて

私も喜んでいて

おそらく神も喜んでいらした、ということ。

力んだところでこうはならない。


愛らしきもの、つまり思いやりや親切の順番なんて

どちらが先だか分からない。


分かることは

人を憎むと平安はなく
人を憎む自分などに愛らしきものすら向けるすべが無い。


逆に相手を好意的に思える自分には平安はあり、
愛らしきものも素直に自分に向けることが出来る。



だから多分多くの場面では

人に愛らしきものを向けるならば

自分にも愛らしきものを向けられる。


自分が好きになれない状態だったり

自分という認識が病的な程乏しいならば

別に自分をまず愛さねば、
 
なんて難しい事を頑張らなくてもいいように感じる。


もし、『自分を愛せないならば人を愛せない』

と気になるならば、

『人を愛することは自分を愛すること』と言い換えても

多分『自分を愛することは人を愛すること』と言い換えても

大丈夫だと思う。

『神様が愛して下さる自分を愛していて、神様が愛して下さる人を愛している』、

そして

『神様が造って下さったから私は自分を愛していて、神様が造って下さったから私は人を愛している』

となって行く。

人とは限らない、神の造って下さった全てに

そのように愛することを

たどたどしくても覚えていくことが可能になって行く気がします。


神の支配下にある事柄、事象であることを認識した上でならば

愛を完全に所有されておられる神が

そのように憐れんで

人と人を

また造られた全てを

繋いで

くるくる循環させて

無理なく愛することを可能にしてくださるように感じます。


ただやはり

神のように完璧に愛することは出来ません。

愛の所有者は神お一人だからだと思います。


だからといって、いたずらに開き直り過ぎると

神が悲しまるような最悪の事態を招く危険も感じます。


愛することの出来ない状態でも

最悪の事態を何とか

それぞれの与えられた、個性や発想を持って

回避しておきたいと願います。


先程のような良い場面に出くわすばかりでないから、

嫌な場面に出くわした時に

先程の発想の発展を適用したい。


他者が何か言う、行う。

何だか腹が立つ、傷つけられたと感じてしまい

その人の居ないところで愚痴ってばかりで

神様に悪いとは思うが止められないで、困っている、
 
そんな時は

いったん、自分の感情を外してみる。

相手が言っていること行うこと

………………

現象が事象に見えるまで待ってみる。


つまり本当に自分に害を及ぼしているか

本当にそんなに自分に関わりがあるか

もう一つの人物が見るように見てみる。



……ただの事象に見えてくる場合が結構ある。



ここで肝心なのは、

神の支配下に起きた事象であるという認識だけは

外さないことだと思う。
 
 
現象を事象に変わるまで見極める際に、
 
神の言葉を出来るだけ思い出して行わなければ
 
上手く客観視も出来はしないと思うから。



相手の言行は事象

自分の感情も事象

そのように淘汰する手立てで

嫌な場面をクリアできることも多いような気がする。


相手の言行が違って感じられたならば

自分の態度も心の内側から変わる。


理屈ではどうにもならない事が多いから

本当は傷つけたり傷つく方が多い自分だけれど

待つことは大事だなあと

最近つくづく思う。



せっかちはダメだ………。

神のまなざしを見ないで

動く口、行い。


全て神の支配下にある私たち、

全て神の支配下に起きた事象だと

思えるまで

いつも待たなければならないように感じる………。


神のようには愛せないのだから。



偉そうかも……


そんなに上手くいかない………^^;





長々とすみませんでした


自分でも疲れた………^^;



それでは皆様


おやすみなさい!


(*^_^*)



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先日の礼拝から、また脱線します。^^;(1) ケータイ投稿記事




皆様、いつも有り難うございます
(*^_^*)



先日の日曜日の礼拝では

聖書箇所、
ルカによる福音書7:1〜10

「権威の下にある者」と題し、

伝道師様を通してメッセージを頂きました。

当時のユダヤ人はローマ帝国の支配下にあり
箇所に出てくるカファルナウムという町はローマ帝国の守備隊の駐任地でもあるガリラヤ湖畔の町。
ここでの出来事の主人公となる人物は
ローマ軍の権威に仕える立場にいたローマ人の百人隊長。(軍隊の地位としては中堅)。

当時ユダヤ人はローマ帝国に税金を払わなければならず、
ローマ帝国の支配下に甘んじて生活するしかなかった。

イエス様はこのローマ人の百人隊長の信仰に感心し、
『言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。』とほめた、とある。

私も以前から、本当に凄い信仰だと感じていたから
また更に見習いたいと思いました。

アーメンでした。終わります。




じゃ、何だか申し訳ないので

少し頑張って書いてみたいと思います。


この百人隊長はこう言っていました。

「『6…主よ、ご足労には及びません。
わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。

7ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。
ひと言おっしゃってください。
そしてわたしの僕をいやしてください。』」

ルカによる福音書7:6〜7より


百人隊長はユダヤ人に見えるイエス様は自分より遥かに上の権威ある方、
神の力が働く偉大な方と信じていた。

ユダヤ人の会堂を自腹を切って建てたのは
ユダヤ人の信じる神を信じていたから。

そしてこの百人隊長の言葉は

『わたしは異邦人ですからユダヤ人の律法に従います』という意味を含んでいる。

(その他、この百人隊長はイエス様の公生活において出会う最初の異邦人だとか、詳しくは書き切れません。^^;)

イエス様がほめた百人隊長の『信仰』の意味するところは

自分よりある人を優れていると認めて、
その人を全面的に信頼して
全てをその人に任せ切る態度、信じ切る態度の現れというもの。

神の権威の下にあるイエス様ならば
ひと言仰られたならば、必ずその通りになります。

彼はそう言っていました。

「『治れ』と言ってください」とも言わなかったようです。

言葉の指示に於いてすら
自らを捨てていたようです。

そこ迄徹底的にイエス様のご意志に任せ切ったのでしょう。



伝道師様のお言葉の中で

この百人隊長の信仰心から一貫して言行に現れている、
『謙虚』というものへの説明がありました。


謙虚なひととは、
『見返りを求めず、人の目を気にせず、
自分のしたことを忘れる。

人がしてくれたことをよく覚えている。

親に感謝でき、友人にも感謝する者になる。

人によって生かされ、神によって生かされていると知る。
人からしてもらっているから
自分がしてやったとは思えない。』

これとさかさまな人とは、


『私が私がで人にこれをしてあげたと感謝を人に押し付けてしまうし、
人からしてもらったことを忘れてしまう…』


なるほどですね^^*


また脱線したいと思います。
^^;


よく日本では

『自分を愛せないならば人を愛せない』と言われます。


多くの人は愛とは何だか分からないと感じ出します。

愛とは、やはり人間の所有しているものではなく、

神の所有しているもの、だと強く感じます。


『謙虚』が長続きすれば、
愛らしきものもいつも感じていられて平安だし、
苦労はあまりないでしょうから

どんな人もこの方向性を目指しつつ生きるしかないのだとは思います。

私は『謙虚』が長続きしませんから、

この方向性を目指しつつ生きるしかないとは思うのですが、

『自分を愛せないならば人を愛せない』がどうもピンと来ません。


順番が微妙に入れ替わり、
結局は逆さまと感じることが多いのです。



例えば……





すみません長過ぎました、続きます^^;)



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開設日: 2010/5/13(木)


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