2012年見聞録

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鏡山公園と三ツ城古墳

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  平成24年5月20日(日)
 
ボーイスカウトの団行事で西条の鏡山公園と三ツ城古墳へ行きました。
 
外出するのに良い時候になったことと「親子ハイキング」と銘打ったことで保護者のみなさんにも多く参加戴き総勢30人を数えました。
 
車6台に分乗して、先ず「鏡山公園」へ。
 
ここは広大な敷地の中に池あり、山あり、花木園あり、遊歩道ありで施設も完備していて地元のみなさんがたくさん訪れていました。
 
鏡山には室町時代の山城跡が残されています。
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自然の地形を巧に利用した廓(くるわ)や井戸などの遺構が残されていて武士たちの息遣いが聞こえてくるようでした。
 
標高335mの山頂までは登山道もよく整備されておりビーバーさんを含めて全員で山頂まで登りました。
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お母さん方も急な山道を往復した割にはみなさん明るい表情でした。
 
山頂からは眼下に広島大学の校舎や西条の町並みを広く見渡せました。
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丁度今は青葉のシーズンで木立の中を森林浴しながら歩くのに最適でした。
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鏡山から下りて休憩所で昼のお弁当を広げたあと、街中を1キロほど歩いて三ツ城(みつじょう)古墳」に移動しました。
 
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この古墳は広島県内最大の前方後円墳だそうで、全長92m、後円部の直径62mもあるのでカメラを構えても全体を捉え切りませんでした。
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                   手前2号古墳、右奥1号古墳
 
古墳の上は自由に歩いてまわることができますし、周辺には芝生を敷き詰めて公園として整備されており市民の憩いの場になっていました。
 
若い女性が隅っこで遠慮がちにサックスの練習をしていました。
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三ツ城古墳全景
 
きょうは入団を希望している小学2年男児の見学参加がありましたが、早速同年代のスカウトと一緒になって元気よく走りまわっていました。
 
みなさんお疲れ様でした。
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木立の中を下山するリーダとビーバ

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広子ども祭り

  平成24年5月13日(日)
 
五月晴れのよき日、今年もやってきました「広子ども祭り」。
 
各地区の子ども会が知恵を絞って作った「交通安全おみこし」を担いで
町内をパレードしたあと、公園に集結して「夢ふうせんとばし」。
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各地区子ども会ご自慢の「おみこしパレード」
 
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みんなで希望の「夢ふうせん」飛ばし
 
その後いろんなコーナーを周って楽しい一日を過しました。
 
コーナーには私たちボーイスカウトも「迷路」や「モンキーブリッジ」を
設営して全面協力。
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大きなペグの打ち込みは
 若いリーダーにおまかせ。
 
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がっちり出来上がったブリッジの基礎部分
 
更に特製「ツイスト」(焼き菓子)を作って子どもたちに食べてもらいました。
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炭火を起こして「ツイスト」焼く準備
 
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       色よく焼きあがった「ツイスト」(焼き菓子)
 
モンキーブリッジの組立てでは、ボーイスカウトが得意とするロープ結びが
たくさんあります。
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ロープ結びはスカウトの得意分野
 
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しっかりロープを結んで最後の仕上げ
 
いろんなコーナーがある中で、私達のコーナーが子どもたちに一番人気が
あるように見えたのは気のせいでしょうか?
 
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スカウトコーナーは常に長蛇の列
 
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ロープが揺れてもボク怖くないから
 
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         ブリッジを渡り終えたらスタンプ押します
 
今年は特にうれしかったことがあります。
 
小学2年生のお母さんから入団の申込みをもらったことです。
早速入団手続きを進めることにしました。
 
暑い中、最後までお手伝い戴いた保護者のみなさん・スカウト諸君お疲れ様でした。
 
参加:スカウト16人 リーダ・保護者など13人 計29人。

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巡洋艦「青葉」記念碑 

  平成24年5月12日(土)イメージ 1
 
終戦間際の昭和20年7月、米軍の空襲により大破着底した巡洋艦「青葉」の記念碑が現場に近い警固屋地区に完成し28日に除幕式があるという。
 
この情報はどこよりも早く私がブログで紹介しようと5月3日に現地へ行って写真を撮ってきたが、少しもたついている間にきょう12日の中国新聞に掲載されてしまった。(右の写真)
 
記念碑は台座を含めた高さ3.5m。大きな自然石に彫られた碑文は昭和16年に23歳で中尉として乗り組んでいた中曽根康弘大勲位(当時23歳)が揮毫されたものだそうだ。
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私が撮影した3日はまだ正面のプレートは無く
右の石板も文字は彫られていなかった。
 
建設費用300万円は広く寄付を呼びかけて集めたという。
 
ナゼ「慰霊碑」でなく「記念碑」としたのか?
 
私の推測では大破着底から66年経過し今さら慰霊というのもどうか・・・・・ということではないか。
 
なぜ今頃こうした碑を建設するのか?
 
これも推測だがみんなの記憶から忘れ去られようとしている「青葉」のことをぜひ
忘れないでほしいという、高齢化した生存者のみなさんの強い想いにより建設
されたのであろう。
 
鍋桟橋に近い国道そばにあるので、是非一度見に行かれてみて下さい。
 
余談ながら、呉市の大和ミュージアムに青葉の主砲身の尾部が、江田島の
第一術科学校には艦首を飾った菊花紋章が展示されています。
これも一見の価値ありです。
 
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ありし日の「青葉」の勇姿
 
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警固屋沖で大破着底した「青葉」
 
「青葉」データ
製造:三菱長崎造船所
就役:1927年(昭和2年)9月20日
排水量:8300トン
全長:185.17m
全幅:15.83m
速力:33.43ノット
乗員:643名
兵装:50口径20cm連装砲4基6門
   35口径12cm単装高角砲4門ほか
艦歴:太平洋戦争では珊瑚海海戦、第一次ソロモン海戦、
   サボ島沖海戦、レイテ沖海戦等に参戦。 
 

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仁方の堀観音堂と乃美一族

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   平成24年5月5日(日)
 
仁方の山の中腹にある写真の建物を訪ね、由来など少し調べてみた。
 
細い山道をあえぎながら登っていくと「堀観音堂」という案内板があった
 
この観音堂は江戸時代後期(1842年)に庄屋手島多三郎が建立して持経観音菩薩を祀ったという。
 
その後長年の風雨で荒廃したことから昭和8年の大修繕に続いて平成8年に建てなおされた。これが現在の観音堂である。
 
建物で一番大きな多宝塔は平成10年に創建されたものであり歴史は浅い。
(写真下)
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多宝塔からの眺めは最高で、写真下の通り仁方の町並みが一望できた。
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この地には15世紀末の戦乱期に「堀城」というお城があり、
乃美一族が長くこの地を支配していたということが判った。
 
乃美氏は毛利氏・小早川氏の家臣である。
 
1550年頃に乃美宗勝(のみむねかつ)の代になると音戸瀬戸の警固衆としても勢力をのばし、1555年の厳島合戦では村上水軍を味方に引き入れることに成功して毛利元就軍勝利の立役者となった。
 
結局宗勝は3万石大名にまで出世したが、1592年豊臣秀吉文禄の役で小早川隆景について朝鮮まで出かけ、そこで病を得て66歳で死去している。
 
尚、忠海の勝運寺に乃美宗勝の肖像画と墓碑があるという。
近いうちに是非訪れてみたい。
 
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忠海勝運寺にある乃美宗勝の墓碑
 
 
 
 
 
 
忠海勝運寺にある乃美宗勝の肖像画

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5月5日・広空襲の記録

    平成24年5月5日(土・祝)
 
5月5日は五月晴れの空に鯉のぼりが泳ぐ穏やかな休日だが、昭和20年
この日、広町は米軍の空爆により大きな被害を受けた。
 
当時を知る人にとっては忌まわしい日であり、今年もその日がやってきた。
 
米軍の資料「作戦任務報告第146号」(同年6月15日作成)により
あの日のことを再確認してみよう。
 
(米軍の戦闘記録は正確且つ詳細なことで知られている)。
 
1.        空爆目標 
当時広町にはたくさんの軍事施設があったが、この日の米軍の空爆目標は
第11空廠のみであった。第11空廠では航空機の製造、修理を大規模に行なっており、その機能を壊滅しようとしたのである。
 
2.        空爆編成 
1000ポンドや2000ポンド爆弾を搭載した米軍B29爆撃機総数170機がマリアナ基地を出撃し、室戸岬上空から編隊を組んで広町を目指した。
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3.日本軍の迎撃 
広町に向かう米軍部隊は途中で日本軍の航空機(41機視認)により16回の迎撃を受けた。特に3機が果敢に体当たりしてきた。その結果米軍機は1機が撃墜され7機が大破した。逆に日本軍機に撃墜3機、不確実撃墜2機、大破1の被害を与えた。
 
3.        艦船からの反撃 
日本軍は呉軍港内の艦船からも激しい対空砲火を浴びせてきた。
この為44機が損傷を受け、内5機は大破した。
 
4.        広町攻撃 
日本軍の反撃をくぐり抜けて広町の攻撃に参加できたB29は計148機となった。
5日10時40分から約30分に高度5.5〜7.5キロから第11空廠に計578トン、
他の地域に16トンの爆弾を投下した。 
イメージ 2
                            空爆イメージ
 
5.        被害規模 
目標とした第11空廠に与えた損傷は38の建物のうち34棟にのぼり、
施設の80%破壊に成功した。
 
広工廠は爆撃の目標に入ってなかったが、煙のため爆撃が多少ズレたり、
呉軍港からの対空砲火が激しく海岸から離れて爆弾を投下したことなどにより
広工廠にも爆弾が投下され建造物の半数に被害を与える結果となった。
 
6.        人的被害 
人的被害については日本軍の記録によれば、「第11空廠の被害 戦死工員32名、戦死兵員18名、行方不明4名、負傷82名。広工廠の被害 戦死60名、負傷68名」で手痛いものとなっている。
 
7.        米軍の損害 
米軍の損害は「損失機2機、損傷機51機、乗員死傷者19人」となって
いる。米軍にとってもかなり犠牲の大きい作戦であったと言える。
 
8.        この一文を書いての感想 
昭和20年5月と言えば終戦の3ヶ月前。日本軍は飛ばせる飛行機も燃料も弾もない状態に落ちいっていたと聞いていたので、アメリカ軍は我がもの顔で日本上空を飛び回っていたのだろうと思っていたが、この報告によれば、41機もの攻撃機や艦船から激しく抵抗しかなりの損害を与えている。まだ人々は勝利を信じて戦っていたのであろうと思うと胸が熱くなってきた。
 
9.        補足 
イメージ 3
 
広町の「船津神社」境内の一隅に「工廠神社」がある。
 
5月5日の空爆で亡くなった人々を合祀するために昭和21年に建立されたもので、毎年5月5日に慰霊祭が行なわれてきた。
 
ただし、60年以上過ぎた今は関係するみなさんがご高齢になられたため
行なわれていないとの話しだった。

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