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福島までの往復の車中、生徒達の話を聞いているのは楽しいものです。
普段の授業で、つまらないことばかり話しているものですから、普段はできるだけ口を閉じるようにしています。すると生徒達は自由にしゃべってくれます。そこから得られる情報もなかなかに貴重です。
今回は、「ものが先か、名前が先か」という、倫理の授業で扱った言語論の話題が出て来ました。
これは国語でも扱うのですが、「唯名論と実念論・実在論」といった名前で論じられます。この論争の古くはスコラ哲学時代まで遡るのですが、現代ではソシュールがその始まりであり、レヴィストロースの構造主義との関連もあります。
まあ、難しいことは私もよくわかりません。
多くの人は「ものがまずあって、それに後から名前をつける」という行為がごく当然だと考えています。でもソシュールたちは「名前が先にあり、そのあとでものが存在する」と考えます。
これはちょっとわかりにくい説明だったかもしれませんので、一つ例を挙げます。
「恋」や「愛」という言葉は巷に溢れていますから、こどもでも知っています。でもその実態は知りません。しかしある日、急に特定の異性の姿を見ると「胸がキュンとする」という現象を自覚します。それがなんであるかをそれまでは知らなかったのですが、あるとき突然それが「恋」または「愛」であるということを認識する。
実は我々はそういうことの連続を経験して成長してきた。
学校で学んだことなどの多くはそうです。初めは言葉でしか知らないことが多いのです。
「朋有り、遠方より来る。亦愉しからずや。」なんて言葉を、江戸時代の寺子屋のこどもたちは、6歳くらいの時から音読・暗誦していた。でもその意味が何だということなど知りようもありません。しかし40歳を過ぎ、人生の半ばを超えたときになって突然その意味が身に沁みてくる。
今、我が家のこどもたちは「いろはカルタ」に熱中し、毎晩取っています。その速さでは私もかないません。風呂の中でも「葦の髄から天井覘く」「年寄りの冷や水」「亭主の好きな赤烏帽子」なんて言い合っていますが、もちろん意味は知りません。でも知らなくてもいいのです。そのうちわかるときが来る。
そういうものです。
そうやって僕らは成長してきた。
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