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【 セネガル 】
アフリカ大陸最西端、サハラ砂漠西南端に位置し大西洋に面する
(モーリタニア、マリ、ギニア、ギニアビサウと国境を接し、ガンビアを囲む)
北部モーリタニア国境は セネガル川、ガンビアとの国境は ガンビア川(中部)がある
南東部の丘陵地帯を除くと 大半は100m以下の平坦地で、 北東部から中部にかけて
サハラ砂漠の南端にあたる半砂漠地帯
最も標高が高いのは 南東部のネパン・ジャハ(581m)
その他 カザマンス地方には カザマンス川(南部)がある
ヴェルデ岬半島に位置する 首都ダカールは、アフリカ大陸西端点
** ダカール:西アフリカ諸国中央銀行(BCEAO)本部が置かれている
【 パリ・ダカール・ラリー 】(1979〜)の終着点
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%BC
熱帯乾燥気候で、冬の北東からの季節風と夏の南西からの季節風により 乾季と雨季がある
主要食物は米だが、一部地域ではトウジンビエやキャッサバなども主食とされる
( セネガル料理は アフリカ料理の中でも特に洗練されていると定評 )
民族: ウォロフ族43%、セレール族15%、プル族14%、トゥクロール族10%、
ジョラ族4%、マンディンカ族3%、ソニンケ族1%、ヨーロッパ人及びレバノン人1%
言語: フランス語(公用語)、ウォロフ語など各民族語
宗教: イスラム教 95%、キリスト教 5%
★ レオポール・セダール・サンゴール( 1906 〜 2001 )
9-10C セネガル川沿いに トゥクルール帝国
10C頃 ガーナ王国
1240〜1473 マリ帝国
1443 ポルトガルのエンリケ航海王子が送出した艦隊、セネガル川の河口に辿り着く
翌年 現在のダカールに近いCap Vertに上陸
海路貿易の主要地となるゴレ島に定住
15C末 ウォロフ(ジョロフ)王国(1200〜1900)
1549 西部地域のカヨル 独立
1555 バオル 分離
1875–1890 アマドゥ・シャイクの帝国に併合さる
1895、ダカールの仏植民地政府に吸収さる
16C ソンガイ帝国 / デニアンケ王国(フルベ族とマリンケ族)
1600頃 蘭人、英人、仏人が現れ、海岸地帯の要衝地の奪合いが続く
〜 17C後半 最終的に 仏 勝利
18C 海洋貿易の要衝地サンルイ(St-Louis)は その繁栄を極める
1815 奴隷貿易が禁止
ウィーン条約により、ゴレ島 仏領となる
‘45 Louis Faidherbe、総督となる
現地人に セネガル川流域に換金作物となる落花生を強制的に作らせる
仏軍 内陸部へと進入 (セネガルは 仏領西アフリカの玄関口となる)
この頃、現ダカールに 入植地ができる
‘48 奴隷貿易禁止
‘64 Omar Tallの軍隊 仏軍に敗北 〜 その後30年余りにわたって衝突は続く
( イスラム教徒ら、現セグー(マリ共和国)を拠点に大規模な帝国を築いていた
仏は、彼らの脅威から植民地を守るため セネガル川沿に砦を多数建てた )
Lat Dior(ウォロフ族・イスラム教徒)の軍、ダカール〜サンルイ間の鉄道敷設の
仏の計画を繰返し妨害
‘84 ビスマルクの提唱で ベルリン会議 ――> 全面的なアフリカ分割
〜 他国よりも早く武力で占領し 他国に通告すれば、そこを植民地にできる 〜
@ 1876までは、全アフリカの10.8%が植民地化されていたにすぎなかったが、
1890までには 90.4%が植民地化され、20C初にはエチオピア帝国とリベリア
共和国を除いて、アフリカは 全て列強の支配下に置かれる
ベルリン会議以降、南・東アフリカのほとんどは、英・ポルトガル・独の、
西アフリカのほとんどは 仏の支配下となる
19C末までには、仏は大西洋沿岸地域から現在のニジェールにまで覇権を拡大
英と比べ、仏は アフリカ人の教育に関心を抱かず、仏の行政機関に関わる者のみ、
首都ダカールで中等教育を受けられた
‘89 Alboury Ndiaye率いるウォロフ族の軍、仏軍に敗北(於ヤンヤン:現リンゲール)
――→ セネガル全域にわたり フランスの覇権 確立
‘95 仏領西アフリカに編入
1904 フランス、全土を支配下に
1906 ティエス州ンブール県ジョアル村で生れる(セレール族、カトリック教徒)
‘14 フランス議会への代表に Blaise Diagneを選出
@ 第一次大戦では 約55万の植民地兵が仏戦線に動員され、特に勇猛なセネガル兵は
最前線に送られて数万の戦死者を出す
また人手不足となった仏国内に 植民地は 20万人以上の労働者を送った
@ 戦後、特に社会党や共産党といったフランスの政党に入党することを
セネガル人政治家は好み、レオポルド・サンゴールら 多くの知的階層のセネガル人が
仏に留学 (彼は アフリカ人では 初の 仏の中等教育教員となる)
‘40
9/23〜25 ダカール沖海戦 〜 自由フランス軍、英艦隊の支援の下 ダカールへ
上陸しようとした(メナス作戦)が、ヴィシー・フランスに撃退さる
‘46
仏連合内の海外領土となる
‘58
11月 フランス共同体内の自治国となる
‘59
4月 仏領スーダンの現マリ共和国とマリ連邦を結成
@ ‘50年代後半、 仏領スーダン(マリ)、オータボルタ(ブルキナ・ファソ)、
ダオメイ(ベニン)の支持で、マリ連合 を築こうとする
しかし、オータボルタとダオメイ、仏とコートジボアールからの圧力で 連合を退く
‘60
6月 マリ連邦として 仏から独立
8/20 マリ連合 解体 〜 セネガル分離独立、 9月 マリ共和国 独立
――→ 西アフリカ 9つの別個の国に分れる
9/6 セネガル社会党(PSS)のセネガル共和国初代大統領 ( 〜‘80 12/31)
〜 親フランスの穏健改革路線
/28 国連加盟
@ 20C初頭より、仏行政政府は イスラム教団の導師であるマラブーを 権力の媒介者
として利用、この公権力と教団という統治の二重構造は 独立後 そのまま受継がれた
統治構造の この二重性は、政治・経済に 大きな影響を及ぼしている
(セネガル・イスラムの2大宗派: ムーリットとティジャンヌ)
‘68
仏での抗議運動 や 国内の経済困難で、ダカール大学の学生ら暴動を起こす
大統領、軍隊を投入して鎮圧を試みたが、労働組合は 学生の暴動を支持、全国規模の
ストライキを呼かける
結局 サンゴール大統領、改革を行う事を約束し、騒擾 収まる
‘70
2月 アブドゥ・ディウフ、首相に任命さる
‘80
12/31 サンゴール大統領 勇退 (大統領の自主的な退任は、アフリカで初めて)
‘81
1/1 アブドゥ・ディウフ(1935〜 父:セレール族、母:プル族)、第2代大統領 就任
クーデターで 政権を奪われた ガンビアのダウダ・ジャワラ大統領を援護
セネガル軍の援軍を得て、ジャワラ大統領 クーデターを鎮圧
‘82
2月 ガンビアと セネガンビア連邦発足
〜 仏領だったセネガルと英領だったガンビアの体制の違い、主権問題、経済格差など
の問題で対立 〜 1989 9月に連邦解消
‘83
アフリカ出身で初めて アカデミー・フランセーズ会員となる
議会選挙( 政党:8党 )
ディウフ大統領の社会党(PS)勝利(得票83%)
カザマンス民主武装運動(MFDC)、分離独立運動へ先鋭化
〜 都市の商業や行政上の使用言語のウォロフ化が進み、セネガル最南部カザマンス
地域の住民、特にジョーラ人は 政治・経済的に疎外感を懐き、北部人の進出に対し
抵抗運動を発足
‘85
野党をまとめようとした アブドゥライ・ワッドの組織を、選挙法違反で禁圧
‘88
ワッドの ディウフ大統領の退陣を訴える活動に対し、全ての政治的集会を禁止
ダカール各地に戦車を配置し、ワッドを逮捕(政権転覆を図る罪)
選挙 〜 ディウフ 政権を維持(得票:ディウフ 73%、ワッド 26%)
‘89
セネガンビア国家連合 解体
2000
3/19 大統領選決選投票で セネガル民主党(PDS)アブドゥライ・ワッド党首当選
〜 1960独立以来続いていた 社会党一党独裁に終止符
@ 識字率の低さにより 代理人選挙が広く行なわれている
4/1 大統領就任 /5 ムスタファ・ニアスを首相に任命(連立政権)
** セネガル共和国大統領の専属ピアニスト 広谷泉
http://www.nipponnosekaiichi.com/activity/hirotani-izumi/181.html
‘01
1/7 新憲法案の国民投票
大統領任期、7年から5年に短縮、議会を一院制とし、議席数 140から120に削減、
さらに女性の土地所有権を認める
‘02
9/26 1220人が乗ったフェリーが ガンビア沖で沈没
〜 フェリーを管理していた運輸相及び国防相が辞任、大統領 ボイェ内閣を解散
11/7 セック首相による新内閣発足
‘05 台湾と国交断絶、中華人民共和国と国交を結ぶ
‘07
2/25 大統領選挙 PDSのワッド再選
▼ サルコジのアフリカとんでも演説 〜 アンヌ=セシール・ロベール 2007年9月
ル・モンド・ディプロマティーク編集部 訳・清水眞理子
http://www.diplo.jp/articles07/0709-4.html
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