滅亡えの道、大日本帝国は音を立てて崩壊、無気力人間の誕生 PART5
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そのさ中の10月10日、マリアナ諸島攻略後の攻撃戦略点を日本の南方防衛拠点のフィリピンにおき、その奪還をめざしたアメリカ軍は、レイテ島上陸を援護するため艦載機をもって沖縄・奄美大島、つづいて台湾を空襲する。これに対して日本軍は、航空部隊の全力を挙げて10月12日より3日間台湾沖で航空戦を展開した。大本営はこの空中戦の戦果を10月19日、「我が部隊は10月12日以降連日連夜台湾及ルソン東方海面の敵機動部隊を猛攻し、其過半の兵力を壊滅してこれを退行せしめたり」と発表した。 翌20日東京・日比谷公会堂で、一億憤激米英撃滅国民大会が開かれ、退却に次ぐ退却で沈痛なムードにあった国民は久し振りの戦果に酔った。小磯は、勝利の確信にみちた声で、痛烈に米英を非難し、「不具載天の敵」と叫び、会場外の大衆の喚起に応えて、「みなさん有難う、不肖小磯はみなさんとともに将来の勝利を確信して邁進します」と手を振るのであった。 しかしこの大勝利は、実戦経験のない航空機の搭乗員が、自爆機や海中への落下弾を命中弾として報告したものを基礎に、太平洋戦争中、一度の敗北も発表しなかった、否、できなかった大本営が作り上げた虚構の戦果で、実際にはアメリカは空母1隻、重巡洋艦1隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦1隻を損傷しただけで、沈没は1隻もなかった。また航空機についても日本が出動した800機中650機(81%)を失ったのに反し、アメリカは出動600機中わずか89機(15%)にすぎなかった。 大消耗戦で多くの兵力を失った日本軍は、10月18日に17才以上の者を兵役に編入するとともに、西南太平洋連合軍司令官(1942〔昭和17〕年4月19日就任)マッカーサー指揮のアメリカ軍がレイテ島に上陸を開始した同月20日、かつて長官山本の命令で真珠湾奇襲攻撃の戦術を練った一人であった海軍中将大西瀧次郎が神風特別攻撃隊を編成する。 一方、日本軍の猛攻で退却を余儀なくされたフィリピンに予言通り帰ってきたマッカーサーは、戦場のスピーカーを通じて「フィリピン市民諸君、私は帰ってきた。わが軍はアメリカ、フィリピンの両国民の血で清められた土の上に再び立っている。全将兵よ 団結せよ」と万感の思いを込めて放送した。 日本軍は、残っていた全勢力、全機能をかたむけた総攻撃でレイテ沖(湾)海戦(日本側呼称は比島沖海戦ー捷1号作戦)に挑み、日本海軍の象徴の一つであった不沈戦艦「武蔵」を失った翌日の10月25日から特攻突撃を開始することになる。だがそれは、三菱航空(現重工)製造の零式艦上戦闘機(1万49機が製造された)という本来空中戦専用の戦闘機に250キロの爆弾を抱かせて敵艦に体当たりする無謀な戦術であったがために、アメリカ機動部隊には歯がたたず、その上命中率16・5%では、戦局の打開という当初の目的は到底達成不可能であった。 この日から日本の航空戦術の主体となった特攻は、ただただ若い命を無駄に散らすだけの無意味な人的消耗戦を意味した。もとより、レイテ沖でアメリカ軍を一気に撃滅しようとした日米海戦は、残存機動部隊連合艦隊の退却あるいは全滅で終わり、日本連合艦隊は海上決戦の戦闘力を失い壊滅状態となった。そして新たな生産が全く不可能な経済状態と戦闘員が枯渇していた国内の状況では、当然のことながら、日本の連合艦隊の決戦力が二度と回復することなかった。 大本営は、10月27日午後4時50分レテイ沖海戦の総合戦果を、撃沈・航空母艦8隻、巡洋艦3隻、駆逐艦2隻、輸送船4隻、撃破・航空母艦7隻、戦艦1隻、巡洋艦2隻、撃墜約500機、我方の損害、沈没・航空母艦1隻、巡洋艦2隻、駆逐艦2隻、中破・航空母艦1隻(この他戦艦1隻沈没、1隻中破)と発表したが、実際のアメリカ軍の損害は、沈没・航空母艦1隻、護衛空母2隻、駆逐艦3隻、潜水艦1隻、損傷・護衛空母7他計15隻に対して、日本の損害は、沈没・武蔵を含む戦艦3隻、空母4隻(参加空母全滅)、重巡洋艦6隻、軽巡洋艦3隻、駆逐艦6隻、損傷は参加艦船のほとんど全部に及んだ。 この結果日本の保有海軍兵力は、開戦時アメリカ海軍に対して69・5%であったのが、マリアナ海戦後28・3%、レイテ沖海戦後18・0%、沖縄作戦前には実に13・8%までに低下することになる。 ヨーロッパ戦線は、ノルマンディー上陸作戦の成功が契機になり、フランス全土では反ナチスの抵抗運動が盛り上がる中、1944(昭和19)年8月15日に連合軍が南フランスに上陸、8月24日呼応してパリ市民が武装蜂起、8月25日連合軍はパリ入城、ここに再びパリに三色旗が翻る。 ソ連軍は、独軍をソ連全域から撃退するとともに、8月31日ルーマニアを解放、9月2日フィランドが対独断交、9月9日フランスでドゴール臨時政権樹立されることになる。10月に入って連合軍は、アメリカ空軍を主力に一気にベルリンを猛爆撃し、ここにドイツの敗戦は決定的となった。10月11日ソ連軍、東プロシヤでドイツ国境突破、同月20日ソ連・ユーゴ人民解放軍、ベオグラードを独軍から奪還、11月17日アルバニア民族解放軍首都チラナに入り、11月29日の独軍スクタリ撤退によりアルバニアの全土が解放される。こうして完全敗北寸前の独軍は、12月16日西部戦線アルデンヌ地区の最後攻撃を開始する。 そして1945(昭和20)年、運命の年は除夜の鐘の代わりに高射垉の音であけた。1月1日午前0時5分、警戒警報が発令され、長いサイレンが響きわたったが、この年日本は空襲につぐ空襲で、まさにこの世の地獄絵を作り出した。 1月1日付各新聞(すでに物資不足により、全国の新聞は1944〔昭和19〕年11月1日より朝刊2ページ建となっていた)、一斉に「天皇陛下最高指導会議に親臨」の写真とともに大本営12月31日発表の「我特別攻撃隊一誠、鐵心、旭光、進襲、皇華各飛行隊は、戦闘機俺護の下12月29日以降連続ミンドロ島に対する敵増援輸送船団に突入、之に大なる打撃を與へたり。右特別攻撃隊の収めたる戦果中現在迄に判明せるもの次の如し。輸送船・撃沈3隻、大破炎上5隻、巡洋艦・撃沈2隻」という『輝ける戦果』を、毎日新聞は「30隻敵船団壊滅」、朝日新聞は「敵船団殆ど壊滅す」との見出しで勇ましく報道した。 だがこうした大本営の虚偽の戦果発表は、単に国民を欺瞞するだけでなく、戦場の軍隊をも混乱に陥れることになる。撃沈したはずのアメリカ空母の雄姿を第一線の兵士が洋上で眼にするようになっては、戦術の混乱はその極に達し、日本帝国の戦争遂行能力は急降下してゆくしかなかった。一度ウソをつくとそれを取り繕うためにまた大きなウソをつくといった悪循環が、日本を破滅に追い込むことになる。 もはや日本の敗戦は、決定的となった。しかし同日付毎日新聞が「大東亜の安定・正に今年ー粘り強く戦ひ抜かん」、朝日新聞が「明朗敢闘ー戦局転換の年」との見出しで首相小磯談話をそれぞれ掲載したように、天皇を頂点とする日本の為政者達には、世界情勢と戦局を冷静に判断する能力が全く欠如していた。また、新聞に代表されるマスコミは、ただただ大本営に追随するだけで、真実を報道する勇気を持たなかった。 同年1月8日皇居前広場で陸軍最後の観兵式が天皇臨席で行われたが、参加した将兵の姿は、戦闘帽に鉄兜という国土防衛のスタイルだった。そして1月18日の最高戦争会議は、今後採るべき戦争指導大綱を決定、本土決戦即応態勢強化をはかるとともに、閣議は前日の郵便料金と鉄道運賃の値上げにつづいて、同日所得税等の改定決定を発表した。政府は、戦争に疲れ果て、飢えに苦しみ、アメリカ軍の空襲により家を焼かれて寒空に放り出された国民に増税をもって報いたのである。 その5日前の1月13日、愛知県を中心とする東海地方にマグニチュード7・1の大地震(三河地震)が起き、愛知県の死者は実に2,300人を記録した。たがこの事実の詳細は、前線の敗北・退却の事実とともに、また前年12月7日に起きた愛知・三重・静岡をはじめとする東海地方臨海部の重工業に大被害を与えたマグニチュード8の東南海大地震(死傷者4,000人以上)同様、国民には知らされなかった。 この2回の大地震が、住民のみならず、飛行機などの軍需産業にも壊滅的打撃を与えたにもかからず、1月14日付朝日新聞は、2面に小さく「東海地方に地震、被害、最小限に防止」との見出しで、「生産陣は全く健在、余燼のつヾくなかにも滅敵の翼増産は、いつに変らぬ逞しい鼓動を打ちつヾけ万全の防護陣を布く・・・・」との虚偽の報道を行うのであった。敗戦を前にし、”神風“の代わりにもたらされたのが、この大地震であったが、それは日本の完全敗北を印象づける出来事となった。
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