滅亡えの道、大日本帝国は音を立てて崩壊、無気力人間の誕生 PART6
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余震のつづく名古屋付近に明ける同月14日、こんどはマリアナ諸島から飛び立ったBー29約60機が来襲、伊勢神宮等を爆撃、15日付朝日新聞は「神ながらの国、神ながらの民族に対するこれ以上の挑戦があろうか、・・・・戦ひ抜いて戦ひ抜いていつの日か再び起ちあがれぬまでにけだものどもをたヽきのめす」と報じたが、それは日本敗北の象徴的な出来事を意味した。 さて、サイパン島攻略で日本の絶対国防線を突破したアメリカ軍は、同年1月9日7万の兵士を載せた800隻の上陸用船団をもってリンガエン湾に姿 を見せ、後退した日本防衛決戦地マニラのあるルソン島に上陸した。2月3日アメリカ軍はマニラ市街に進攻、レイテ決戦に敗北し、もはや決戦力を持たない、そして正規軍ではなく戦闘訓練などもしていないただの兵隊集団だった日本軍は、バギオに撤退、持久戦を展開する。だが、撤退を拒否した少将岩淵三次率いる約2万の兵士は、マニラ市内でアメリカ軍と死闘を繰り返した。このため美観を誇った城壁の町マニラは、廃墟と化すのであった。 ルソン島で勝利なき戦いが続いている最中の1月25日最高戦争指導会議は、「帝国今後ノ国内施策ハ速カニ物心一切ヲ結集シテ国家総動員ノ実行ヲ挙ゲ以テ必勝ノ為飽ク迄戦ヒ抜クノ確乎不抜ノ基礎態勢ヲ確立スルニ在リ。之ガ為具体的施策ヲ更ニ強化徹底シテ近代戦争完遂ニ必要ナル国力並ニ戦力ノ維持増強ニ遺憾ナキヲ期ス」目的で、決戦非常措置要綱を採択した。 しかし国内においてはBー29の空襲で大混乱し、戦場ではつぎつぎと玉砕するといった状況下においては、銃後の国民を根こそぎ動員する態勢をいくら強化しても、無が有を生じるわけがなく、労働力と兵士の枯渇はその極に達していた。消耗戦で特に、航空機の損失は膨大なものであったが、もはやその増産は絶望的であった。 つづいてアメリカ軍は、硫黄島をめざした。硫黄島は、東京から南方1,250キロの東京とサイパンの中間点に位置する小笠原諸島中核の戦略的拠点であった。水が少なく、硫黄ガスが吹き出し、地熱が高く人が住むには不適当な、なんの取り柄もない島であったが、島の中央部(元山飛行場)と南部(千鳥飛行場)には飛行場があり、硫黄島を日本が失うことは、日本爆撃のBー29を援護するPー51戦闘機の前線基地になることを意味した。 硫黄島上陸作戦支援のアメリカ機動部隊(空母を主体とする海上の機動作戦を行う部隊)の艦載機1,200機が関東各地の飛行場を爆撃した翌日の2月17日大本営は、「硫黄島の守備部隊奮戦、上陸企図の敵軍直ちに撃退、戦巡等5隻撃沈」と発表したが、2月19日アメリカ海兵2個師団が硫黄島に上陸、ここでも激しい戦闘が繰り返された。1ケ月後の3月17日アメリカ軍の戦車による火焔攻撃やナパーム弾による近代的武器の大量動員の前に、日本軍は全員玉砕、ここに本土防衛の最前線を失ったのである。 3月21日大本営は「『17日夜半を期し最高指導官を陣頭に皇国の必勝と安泰とを祈念しつヽ全員壮烈なる総攻撃を敢行す』との打電あり、爾後通信絶ゆ」と発表、翌22日付朝日新聞が、「断固戦い抜かんー活かせ硫黄島勇士の魂」との小磯が前日ラジオで放送した内容を掲載しても、その上に「硫黄島遂に敵手へ」との記事があっては、それは恐ろしく空虚な響きしかなかった。 こうした戦局悪化の状況の下では、いくら大本営が勇ましく叫び、陸海軍刑法の軍事上の造言飛語罪(陸軍刑法第99条「戦時又ハ事変ニ際シ軍事ニ関シ造言飛語ヲ為シタル者ハ3年以下ノ懲役ニ処ス」、海軍刑法100条も同じ条項)で憲兵や警察が逮捕を繰り返し、『デマ』防止の宣伝を強化しても、人の口に戸は建てられず、激しく動揺した国民の敗北的な”噂“の横行はまたたくまに全国に広がった。 3月6日政府は、勅令第94号により勤労関係諸法令のうち、学校卒業者使用制限令、国民徴用令、労務調整令、国民勤労報国協力令および女子挺身勤労令の5勅令を整理統合した内容を持つ国民勤労動員令を公布、同月10日より施行したが、「猫の眼」のように法律を変えたところで何らの実質的効果も期待できなかった。 特に太平洋戦争末期の国民は、食料難による栄養不良のために、肉体力も精神力も衰えはてて、戦意は著しく低下していた。したがって大本営が如何に号令をかけても、もはや生産性をもった労働力とは到底なりえなかった。そればかりか、上級将校の特権的生活や、軍需工業の幹部および経済統制の法の網をもぐった顔役などに対する民衆の反感が増幅し、一般国民の間に欠勤が増加して、サボタージュ的気分が蔓延した。「正直者がバカをみる」といった言葉が流行するようになっては、労働能率は期待出来ず、生産力は極度に低下していった。 さてアメリカ軍は、3月9日夜から10日にかけてサイパン、グァム、テニアンの各基地から飛び立った300機を超えるBー29で東京を夜間に大空襲、この東京大空襲の焼夷弾投下で東京の下町一帯は火の海となり、江東地区は全滅、約23万戸が全焼し、100万以上の人が家を失い、12万人以上の死傷者を出した。焼け跡には「この仇必ず討つ」といったビラが張り出されたが、このころより空襲が激化、11日には名古屋、14日には大阪(13万戸が焼失)、18日から20日にかけては九州各地、つづいて四国、呉が空襲された。高度1万メートルからの爆撃では地上の高射砲は全く役立たず、迎撃用の日本の戦闘機は既になく、国民はただ逃げ惑うことしかなすすべがなかった。そして18日には、国民学校初等科以外の授業の1年間停止を閣議決定するのであった。 こうした状況の中、3月21日の最高戦争指導会議において小磯は、重慶政権との直接交渉による中国との全面和平交渉を計るが、海相米内や外相重光、最終的には天皇の反対で失敗する(いわゆる繆斌ーみょうひん工作)。 硫黄島攻略後のアメリカ軍の戦略目的は、いうまでもく日本本土の沖縄であった。ヨーロッパから回航してきたイギリス軍空母を加えた大規模な沖縄攻略作戦を開始したアメリカ軍は3月26日沖縄本島西側の慶良間諸島に上陸、ここを沖縄本島の上陸の基地とした。3月30日付朝日新聞社説は、「戦局に遂に往くつくところまで、往きついた観がある。実に放送や新聞で、『警戒を要す』といふだけでは、何ともならぬほど切迫してきた。国民は固唾を飲みながら軍官の力強い指導を待つてゐるのである。」と論じたが、アメリカ軍18万2千人は、4月1日、猛烈な艦砲射撃の中、沖縄本島に上陸した。まさにこの太平洋戦争最後の地上戦となった沖縄戦は、「戦争の醜さの極致だ。それ以外どうこれを説明しようもない」(アメリカ軍事史家ハンソン・ボールドウィン)戦いであったが、大本営作戦部長は、小磯に「結局守備軍は玉砕、敵に占領されることになり、やがて敵の本土来冦は必至になるものと考える」と報告していた。 このように、陸軍の狂気の本土決戦(一億総玉砕)の単なる時間稼ぎの無意味な殺しあいが沖縄戦であったが、4月2日付朝日新聞社説は、「いまこそこの一戦に集中すべきである。目標を一点に凝結せしむべきである。次の手、また次の手を考へては、雑念を生じて一刀のもとに切つて捨てる事がむづかしくなる」、また同日付読売新聞社説は「沖縄群島の攻防こそ真に太平洋の運命を決すべき天王山なのである。ここを失えば本土防衛の一角は崩れ、この一戦に勝たずして戦局転機の機はまた望み得ないといわざるを得ない・・・・我等一億奮起すべきは真に今である。今日を失って明日何を求め得よう」と国民の決起を促した。 4月5日アメリカ軍の沖縄本島上陸と和平工作問題の責任をとる形で、木炭自動車(のろくて故障がちの意味)いわれていた小磯内閣が倒壊、同月7日日本海軍の象徴不沈戦艦「大和」(一部で時代遅れの巨艦主義の象徴とか、あるいはピラミッド、万里の長城とともに世界の三大無用の長物とかと陰口を叩かれた)が沈没したその日に鈴木貫太郎最終決戦内閣が成立するが、鈴木もただ「聖戦完遂」を叫ぶだけであった。翌8日大本営は、「我方の収めた戦果・空母等15隻撃沈、撃破19隻、我方の損害・戦艦1隻を含む5艦沈没」と発表したが、大和沈没の発表はなかった。同日付朝日新聞は、「この戦い必ず勝つー1億に各個戦闘の気力」という鈴木との一問一答を掲載するが、勝利の女神はファシズムには微笑まなかった。 もはや戦争の結果は明白で、したがって戦争目的の遂行に無縁な沖縄戦で、沖縄県民50万人を巻き込んだ死闘を繰り返している最中の4月22日、ソ連戦車隊がベルリン市街に突入する。そしてポーランド、ブルガリア等東ヨーロッパ諸国をナチスの手から解放しドイツに攻めいったソ連軍と、イタリー、フランス等の西ヨーロッパを解放し、ドイツに入った米軍とが4月25日エルベ河畔トルゴウにおいて出会い、二度と戦争の惨禍を繰り返すまいと誓い合った(『エルベの誓い』・『エルベの出会い』)。ソ連人民がアメリカ民主主義をたたえれば、英語を話す人民がソ連を光栄ある赤軍と呼ぶ、まさに象徴的なこの出合は、第2次世界大戦の性格をものの見事に表わしていた。
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