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2008年12月10日

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日本ではビートルズは死なない生きている

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日本ではジョン・レノンの記憶は生きている

ジョン・レノンの未亡人小野ヨーコは東京で特別な記念コンサートを行うことで音楽家の死の28回目の記念日を祝っている。日本は、ジョン・レノンの記憶がとても生きている特別の国である。日本ではビートルズ狂はこれまでに本当に死ななかった。

毎晩東京ではジョン、ポール、ジョージとリンゴが忠実に彼らの音を再現してバンドは服を着て生きたままの光景を眼にすることができる。たとえ音楽家の多くが英語で会話を持つのに苦労するとしても、彼らは全てのビートルズ歌集のあらゆる言葉を知っている。あらゆる年齢のファンはビートルズ合わせて歌う、しかしビートルズが日本で公演したときには以前の世代だけは重大な時を覚えていた。

ちょうど30分かかる各々のショーで彼らは1966年夏に5夜の間東京の武道館アリーナで公演を行った。

暖かい歓迎

3万5000人の警官はグループを彼らのファンから、そしてコンサートを混乱させると脅迫した国家主義のグループから守りぬいた。彼らは外国のポップ・グループが柔道と他の立派な格闘技のために建設されたホールを冒涜すると思っていた。結局はコンサートは何事もなく終わった、しかしヨーコ・オノは後でレノンが困惑に接した経験を振り返ったと言う。

「人々がむしろ静かだったので、ビートルズに少し接触しようとしたので、彼らは多分人々がそれが好きではないと思ったようよ」と彼女が説明する。「だが主催者は日本人が非常に礼儀正しいと説明した、そして彼らは叫んでも本心は叫びたくはない。彼らはちょうど拍手喝采したいだけだった。

「その頃はそれはそのようだった、しかし今はもちろん、日本のファンは表現力豊かなことを学びそれを発散しているわ」と小野ヨーコが言う。ビートルズの1966年の東京ショーは彼らの記録を進めてもちろん、金を儲ける厳しい世界旅行の一部だった。しかし彼らも英国のための非公式の外交官になったと東京の当時の英国大使のマイケル・スチュアートは強調している。

「冷静な真実では英国と関係がある最近のイベントは東京への相当する影響を作らなかった、 1965年の英国の展示の唯一の例外は別として」と彼が秘密のメモ帳で書いている。彼も記者会見で日本のメディアを取り扱うビートルズの技術を称賛している。「大部分の解説者は彼らが本当に何であるかについて彼らを受け入れた。気持ちがよくなって優秀で頭の回転が早い若い音楽家」と大使が書いた。

水沢純一は埼玉でジョン・レノン博物館を経営している、彼らが新たな開始のためにチャンスを代表したのでビートルズがそのような暖かい歓迎を受けたと言う。「我々は彼らが我々に歌を歌って聞かせているのを本当に感じました。彼らは日本の音楽またはジャズであるかアメリカのポップと完全に異なるように聞こえたので、まず最初にそれはむしろ衝撃的でした」と彼が説明する。

「しかし彼らが我々の感情を口に出しているようだったので、60年代の若者たちには彼らを受け入れて問題が発生しませんでした。それは戦争とは無関係だった1世代を興奮させた新しい音でした。」彼が1969年に小野と結婚した後、ジョンは日本へのお得意様の訪問客になって言語を学ぼうしさえした。

彼は日本人が彼と彼の家族にめったに押しつけなかった事実を大事にした。

親密な記憶

1980年12月8日の彼の殺人以来、小野ヨーコは音楽像と平和運動家としてレノンのイメージを維持するために疲れを知らずに働いた。現在75才で彼女はビートルズが彼らの伝説的なショーを行った同じ会場で記念日のコンサートのために日本に戻っている。「私がそれについて哲学的になっている今、私はそれを私の祖先と考えたいの、私の祖先の精神は私に『ヨーコ、あなたは時々日本に戻って来なければならない』と私を呼んでいるので、私はハイ現在ちゃんといますよと言っているの」

小野は彼女が彼女の故郷にいるとき彼女が気分に常に敏感で熱心に彼女の夫の存在を感じると説明した。
「彼はそれほど日本が好きだったの。私はそれが彼の妻としてすることになっていたと思わなかった、多分少しも!

しかし彼は日本人が持つ感度と静けさが好きでそしてその理由は彼が内気な性格の人であったから。私は人は彼が内気な人であったと思わないと確信している、しかし彼は実際にそうだったし、それで彼は私が考える人というものを理解して優しい心だったわ」

武道館の小野のコンサートは学校をアジアとアフリカに建設する金を集めてまた、日本のアーティスト例えばトータス松本とかわいいピンク)を呼び物にするタレントを育てることにある。しかしジョン・レノンの一部のファンはより親密な方向で彼の死の28回目の記念日を祝うほうを選んでいる。

埼玉の博物館の外で言葉を運んでいる記念の訪問客は場所に花を捧げて色々と想像している。そしてほとんどの彼らが最も親しい英国の友人と見なす男を記憶するために沈黙の数分が静かに流れる。

BBCニュース 東京からダンカン・バートレット通信員
http://news.bbc.co.uk/2/hi/entertainment/7770865.stm

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滅亡えの道、大日本帝国は音を立てて崩壊、無気力人間の誕生 PART8

しかし、8月9日の最高戦争指導会議において首相就任時に聖戦完遂を叫んだ鈴木が、最早戦争の継続は不可能であり、ポツダム宣言を受諾するほかないと判断していた52)ように、広島への原爆投下とソ連の参戦に衝撃的な打撃を日本支配層は受けていた。このような状況の中でのこうした訓示は、国民を欺瞞し、ただいたずらに犠牲者の山を築くだけにすぎなかったが、これは太平洋戦争に突入したファシズム体制の当然の帰結であった。 

またポツダム宣言受諾の決定も余りに遅すぎた。9日午後から開かれた閣議においても、最高戦争指導会議の議論がむしかえされ、鈴木は外相東郷とともに天皇に御前会議の開催を願い出た。御前会議は、同日の深夜11時50分から皇居内の防空濠で開かれ、皇室の安泰を条件にポツダム宣言の受諾を決定、10日「(ポツダム)共同宣言に挙げられたる条件中には天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解の下に帝国政府は右受諾する」との日本側申入れが、中立国政府を通じて連合国側に伝えられた。これに対してアメリカ政府は、英・中・ソの承認を得て11日、「降伏の時より天皇及日本国政府の国家統治の権限は降伏条項の実施の為其の必要と認むる措置を執る連合国最高司令官に従属するものとす・・・・日本の究極の政治形態はポツダム宣言に遵い日本国国民の自由に表明する意思に依り決定せらるべきものとす」との回答(いわゆる「バーンズ回答」)を行うことになる。 

国全土が焦土化しつつあり、また戦争の犠牲者が膨大な数になっており、しかも戦争の行方は誰がみても明確になって久しい時期に、この回答を巡って外務省と陸軍が対立、またしても閣議で無毛の果てしない議論が12日、13日と続行され、その間にも犠牲者は増え続けてゆくのであった。 

8月14日午前、天皇が直接招集する異例の御前会議が開かれ、遂にポツダム宣言受諾を決定することになるが、それにしても余りに遅すぎる敗北宣言となった。 

そして8月15日正午天皇ヒロヒトが戦争終結の詔書を放送、ここに太平洋戦争と第2次世界大戦は、ファシズムの完全敗北で終わることとなる。

実に第2次世界大戦の戦禍は、世界の人口の5分の4をまきこみ、1億1千万の兵士を戦場に送り、軍人・市民あわせて2,200万人が死亡し、3,440万人が負傷した。 

破壊された財産は、ヨーロッパだけでも3,949億ドル、中国は500億ドルにのぼった。日本では、陸海軍人の死者156万人、一般国民の死者30万人と政府は1947(昭和22)年発表したが、事実上あわせた死者は300万人に達すると推定されている。 

敗戦時1945(昭和20)年の日本人の平均寿命は男子23,9才、女子37,5才であったが、これが約15年間にわたる侵略戦争の結末であった。


後書き:

戦争は空しい、日本国民が焼野原でポツンと空を眺めて溜息を漏らしたのはつい63年前のことだ。ひどい戦争だったもうこりごりだと誰もが思った、思い出すのも嫌だ靖国神社クソ食らえ、これからの日本は戦争とは無縁にやるべきだ。そうすると少し元気が出てきた、無気力とノンポリが世の中を支配した。金だ金、金と人々は奔走し始めた、戦争は過去の出来事、そこから反省する気分もいつか忘れ去られた。

世の中は移り変わり田母神航空統幕長の論文が世間を騒がせた。戦争は大昔の出来事だから人は懲りないものでまた日本の戦争を擁護するグループが出てきた。

「あれは自衛の為の戦争だよ、日本は何処も悪くはない、欧米にけしかけられて始めたもので日本こそ被害者だ」

「そうだ日本は被害者だ、悪いのは欧米でやつらはいつも正義感を振りかざす、欧米の正義感というものはクソだ何も違わない」

その昔日本人が発狂したように戦争に突入したことを人は知らない。知らないと何でも勝手に解釈、田母神論文が勝手に一人歩きを始めた。テレビでは田母神氏は徹底的に叩かれる、人はこれを「言論封殺」と呼ぶ。自由な発言を封じるのはいかがなものか、一見耳障りの良い意見で同感だと人は頷くが、戦争の美化は禁物だと人は気がつかない。

日本の戦争は侵略戦争でそれに真っ向から異議を唱えたのが田母神氏なのだ、政府は日本の戦争でアジア諸国に何度も謝罪している、「日本は貴国を侵略しました、そして日本軍は多大の犠牲を貴国にかけて独立して発展する機会を台無しにしました」これが政府の公式な見解である。

日本ではよくドイツ人は反省していない、一部の勢力に責任をおっかぶせて一般国民は平気であるという意見をよく見る。これこそとんでもない誤解で日本を擁護したいが為の言い訳であり卑怯である。ドイツはEU諸国から監視されている、反省と謝罪それから戦時補償問題はドイツにとっては重大問題で国民が知らないフリをするのは日本だけだ。問題を摩り替えて「日本擁護論」を展開するとは呆れた所業である。

私のブログに仲間の女性がいるが彼女がドイツ人について書いているので紹介する。「こないだも来日するたびに政治問題で突っ込むドイツからの友人たちに、どんだけアソーの件でおちょくられるかと心配だったが、ご飯を食べながら、小泉政権のときほど最早何も聞かれなかった。質問にも値しない総理ということか。(笑)」。

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滅亡えの道、大日本帝国は音を立てて崩壊、無気力人間の誕生 PART7

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そして、4月30日ヒトラーが愛人と自殺、5月2日ソ連軍がベルリン占領、同日英軍がラングーンを占領、5月7日イタリーに続いてドイツも無条件降伏する。枢軸国のうち2ケ国までもが完全な敗北を喫し、また日本の敗北が決定的なことが軍部にも十二分にわかっていたにもかかわらず、一億総玉砕を叫んで日本は戦争を継続し、大量の犠牲者の山を築いたのであった。これは狂気の結末の空恐ろしい事実である。 

4月12日アメリカ大統領ルーズベルトが脳溢血で死去、アメリカ憲法の規定に従い、大統領に就任したトルーマンは、5月8日日本政府に無条件降伏を勧告するが、日本はこれを無視、翌9日日本政府はドイツ軍降伏という現実に接しながらも、「帝国の戦争目的は固より其自存と自衛とに存す、是れ帝国不動の信念にして、欧州戦局の急変は帝国の戦争目的に寸毫の変化を與ふるものにあらず、帝国は東亜の盟邦と共に東亜を自己の恣意と暴力との下に蹂躪せんとする米英の非望に対し、飽く迄も之破碎し以て東亜の安定を確保せんことを期す」と声明して、戦争継続に狂奔するのであった。 

アメリカ軍は5月25日東京を大空襲、強風で大火災が発生し残存市街地を焼き尽くし、宮城内の表宮殿と大宮御所などが炎上、29日にはサイパン、テニアンからの500機以上のBー29と護衛する硫黄島からの100機のPー51戦闘機が横浜を白昼爆撃し、死者は4,600人以上、負傷者14,000人以上に達し、市の3分の1が焦土と化した。また同日南九州にアメリカ軍のPー43、Pー47等の小型軽飛行機が来襲したが、これは沖縄基地からの慣熟飛行であり、沖縄が事実上アメリカ軍に占領されたこととの証明であった。 

すでに日本軍による組織的抵抗が不可能となった5月19日司令官牛島満は、大本営に総力挙げて支援を要請するが、沖縄戦を本土決戦の時間稼ぎと位置づけ、全員玉砕を規定の事実としていた大本営はなんらの支援もしなかった。5月28日首里前面の防衛線が崩壊、首里城にアメリカ軍旗が翻り、敗退した日本軍と非難民は南へ南へと後退を余儀なくされた。だが、南端の海岸にはアメリカ艦艇が待ち受けており、背後にはアメリカ軍が押し寄せてきていた状況では、降伏のほか道はなかった。しかし、アメリカ軍は”鬼畜“と教えられ、捕まえられれば殺されると信じさせられていた住民にとっては、アメリカ軍の投降勧告には応じることより、自決の道を選ばざるをえなかった。 

住民をまもるべき軍が住民を楯に戦い、集団自決を強要したことに「捨て石」戦であった沖縄戦死闘の悲劇があるが、空襲に次ぐ空襲と疎開で東京の人口も1945(昭和20)年6月現在において、前年度2月の3割(220万人)に激減していた。 

同年6月6日天皇臨席の最高戦争指導会議が開かれ、今後採るべき戦争指導の基本大綱(本土決戦方針)を採択、あくまで戦争を完遂することを決定、15才から60才迄の男子、17才から40才の女子を国民義勇隊に編入する一億戦闘配置の大号令である義勇兵役法を施行した6月23日、沖縄の日本軍守備隊が全滅、沖縄戦での戦死者は19万人(内沖縄出身者12万2千人)にのぼり、沖縄本島の全部が焦土と化した。 

国家崩壊の危機に直面した日本は、7月10日最高戦争指導会議においてソ連に和平斡旋依頼を決定、近衛文麿を特使に任命して13日に申し入れたが、18日ソ連はこれを拒否、7月16日にアメリカは最初の原爆実験に成功する。広島・長崎の悲劇は目前にせまっていた。 

同月17日米・英・ソ3国の首脳会議がポツダムで開かれ、26日ポツダム宣言(太平洋で戦った米・英・中国の対日最後通告)を発表した(日本は27日早朝のアメリカの放送を受信して知った)が、首相鈴木はこれを黙殺、戦争邁進と記者団に対して談話、28日付朝日新聞は「多分に宣伝と対日威嚇」と読売新聞は「笑止、対日降伏条件」と報道した。 

ポツダム宣言発表直前の7月14日から15日にかけてアメリカ軍は東北・北海道を空襲、また14日は釜石を15日には室蘭を艦砲射撃する。16日には1等10万円の「勝札」(宝くじ)を発行したが、皮肉にも抽選日は敗戦の日の8月15日であった。 

そして8月6日午前8時15分、Bー29「エノラ・ゲイ号」が広島に原爆を投下、大本営は翌7日「1、昨8月6日広島市はB29少数機の攻撃により相当の被害を生じたり2、敵は右攻撃に新型爆弾を使用せるものの如きも詳細目下調査中なり」と発表、8日付朝日新聞は、「落下傘つき空中で破裂ー人道を無視する残虐な新爆弾」、翌9日付同紙は、「敵の非人道、断固報復ー新型爆弾に対策を確立」と報じたが、一瞬にして死者は実に24万人(推定)に達した。 

8月8日にはソ連が対日宣戦布告(モロトフ外務人民委員が8月9日以降ソ連が日本と戦争状態に入る旨の宣戦布告文を8日夜佐藤大使に通達)、この報に日本が接した9日午前、最高戦争指導会議構成員会議が開かれ、ポツダム宣言受諾のための条件について、「皇室の安泰」とか、「本土占領の制限」などといった議論が行われているさ中の11時2分、今度は長崎に原爆が投下された。 

西部軍管正司令部は、「1、8月9日午前11時頃敵大型2機は長崎市に侵入し新型爆弾らしき物を使用せり 2、詳細目下調査中なるも被害は比較的僅少なる見込み」と発表、これを10日付西日本新聞が報道(朝日新聞の報道は12日付であり、しかも小さい見出しであった)した51)が、長崎の死者は12万人を超えた。 

長崎原爆投下報道の代わりに、10日付朝日新聞は、「東西から国境を侵犯ー満州国内へ攻撃開始。我方、自衛の邀撃戦展開」とソ連の対日宣戦布告を大見出しで報道した。同日情報局総裁下村宏は「戦局は最悪の状態」との談話を発表、陸軍大臣阿南惟幾は、全軍将兵に「死中活あるを信ず」と訓示し、「・・・・全軍将兵宜しく1人も残さず楠公精神を具現すべし、而して又時宗の精神を再現して醜敵撃拭に邁進すべし」との激を飛ばした。

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滅亡えの道、大日本帝国は音を立てて崩壊、無気力人間の誕生 PART6

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余震のつづく名古屋付近に明ける同月14日、こんどはマリアナ諸島から飛び立ったBー29約60機が来襲、伊勢神宮等を爆撃、15日付朝日新聞は「神ながらの国、神ながらの民族に対するこれ以上の挑戦があろうか、・・・・戦ひ抜いて戦ひ抜いていつの日か再び起ちあがれぬまでにけだものどもをたヽきのめす」と報じたが、それは日本敗北の象徴的な出来事を意味した。  

さて、サイパン島攻略で日本の絶対国防線を突破したアメリカ軍は、同年1月9日7万の兵士を載せた800隻の上陸用船団をもってリンガエン湾に姿 を見せ、後退した日本防衛決戦地マニラのあるルソン島に上陸した。2月3日アメリカ軍はマニラ市街に進攻、レイテ決戦に敗北し、もはや決戦力を持たない、そして正規軍ではなく戦闘訓練などもしていないただの兵隊集団だった日本軍は、バギオに撤退、持久戦を展開する。だが、撤退を拒否した少将岩淵三次率いる約2万の兵士は、マニラ市内でアメリカ軍と死闘を繰り返した。このため美観を誇った城壁の町マニラは、廃墟と化すのであった。 

ルソン島で勝利なき戦いが続いている最中の1月25日最高戦争指導会議は、「帝国今後ノ国内施策ハ速カニ物心一切ヲ結集シテ国家総動員ノ実行ヲ挙ゲ以テ必勝ノ為飽ク迄戦ヒ抜クノ確乎不抜ノ基礎態勢ヲ確立スルニ在リ。之ガ為具体的施策ヲ更ニ強化徹底シテ近代戦争完遂ニ必要ナル国力並ニ戦力ノ維持増強ニ遺憾ナキヲ期ス」目的で、決戦非常措置要綱を採択した。 

しかし国内においてはBー29の空襲で大混乱し、戦場ではつぎつぎと玉砕するといった状況下においては、銃後の国民を根こそぎ動員する態勢をいくら強化しても、無が有を生じるわけがなく、労働力と兵士の枯渇はその極に達していた。消耗戦で特に、航空機の損失は膨大なものであったが、もはやその増産は絶望的であった。 

つづいてアメリカ軍は、硫黄島をめざした。硫黄島は、東京から南方1,250キロの東京とサイパンの中間点に位置する小笠原諸島中核の戦略的拠点であった。水が少なく、硫黄ガスが吹き出し、地熱が高く人が住むには不適当な、なんの取り柄もない島であったが、島の中央部(元山飛行場)と南部(千鳥飛行場)には飛行場があり、硫黄島を日本が失うことは、日本爆撃のBー29を援護するPー51戦闘機の前線基地になることを意味した。 

硫黄島上陸作戦支援のアメリカ機動部隊(空母を主体とする海上の機動作戦を行う部隊)の艦載機1,200機が関東各地の飛行場を爆撃した翌日の2月17日大本営は、「硫黄島の守備部隊奮戦、上陸企図の敵軍直ちに撃退、戦巡等5隻撃沈」と発表したが、2月19日アメリカ海兵2個師団が硫黄島に上陸、ここでも激しい戦闘が繰り返された。1ケ月後の3月17日アメリカ軍の戦車による火焔攻撃やナパーム弾による近代的武器の大量動員の前に、日本軍は全員玉砕、ここに本土防衛の最前線を失ったのである。 

3月21日大本営は「『17日夜半を期し最高指導官を陣頭に皇国の必勝と安泰とを祈念しつヽ全員壮烈なる総攻撃を敢行す』との打電あり、爾後通信絶ゆ」と発表、翌22日付朝日新聞が、「断固戦い抜かんー活かせ硫黄島勇士の魂」との小磯が前日ラジオで放送した内容を掲載しても、その上に「硫黄島遂に敵手へ」との記事があっては、それは恐ろしく空虚な響きしかなかった。

こうした戦局悪化の状況の下では、いくら大本営が勇ましく叫び、陸海軍刑法の軍事上の造言飛語罪(陸軍刑法第99条「戦時又ハ事変ニ際シ軍事ニ関シ造言飛語ヲ為シタル者ハ3年以下ノ懲役ニ処ス」、海軍刑法100条も同じ条項)で憲兵や警察が逮捕を繰り返し、『デマ』防止の宣伝を強化しても、人の口に戸は建てられず、激しく動揺した国民の敗北的な”噂“の横行はまたたくまに全国に広がった。 

3月6日政府は、勅令第94号により勤労関係諸法令のうち、学校卒業者使用制限令、国民徴用令、労務調整令、国民勤労報国協力令および女子挺身勤労令の5勅令を整理統合した内容を持つ国民勤労動員令を公布、同月10日より施行したが、「猫の眼」のように法律を変えたところで何らの実質的効果も期待できなかった。 

特に太平洋戦争末期の国民は、食料難による栄養不良のために、肉体力も精神力も衰えはてて、戦意は著しく低下していた。したがって大本営が如何に号令をかけても、もはや生産性をもった労働力とは到底なりえなかった。そればかりか、上級将校の特権的生活や、軍需工業の幹部および経済統制の法の網をもぐった顔役などに対する民衆の反感が増幅し、一般国民の間に欠勤が増加して、サボタージュ的気分が蔓延した。「正直者がバカをみる」といった言葉が流行するようになっては、労働能率は期待出来ず、生産力は極度に低下していった。 

さてアメリカ軍は、3月9日夜から10日にかけてサイパン、グァム、テニアンの各基地から飛び立った300機を超えるBー29で東京を夜間に大空襲、この東京大空襲の焼夷弾投下で東京の下町一帯は火の海となり、江東地区は全滅、約23万戸が全焼し、100万以上の人が家を失い、12万人以上の死傷者を出した。焼け跡には「この仇必ず討つ」といったビラが張り出されたが、このころより空襲が激化、11日には名古屋、14日には大阪(13万戸が焼失)、18日から20日にかけては九州各地、つづいて四国、呉が空襲された。高度1万メートルからの爆撃では地上の高射砲は全く役立たず、迎撃用の日本の戦闘機は既になく、国民はただ逃げ惑うことしかなすすべがなかった。そして18日には、国民学校初等科以外の授業の1年間停止を閣議決定するのであった。 

こうした状況の中、3月21日の最高戦争指導会議において小磯は、重慶政権との直接交渉による中国との全面和平交渉を計るが、海相米内や外相重光、最終的には天皇の反対で失敗する(いわゆる繆斌ーみょうひん工作)。 

硫黄島攻略後のアメリカ軍の戦略目的は、いうまでもく日本本土の沖縄であった。ヨーロッパから回航してきたイギリス軍空母を加えた大規模な沖縄攻略作戦を開始したアメリカ軍は3月26日沖縄本島西側の慶良間諸島に上陸、ここを沖縄本島の上陸の基地とした。3月30日付朝日新聞社説は、「戦局に遂に往くつくところまで、往きついた観がある。実に放送や新聞で、『警戒を要す』といふだけでは、何ともならぬほど切迫してきた。国民は固唾を飲みながら軍官の力強い指導を待つてゐるのである。」と論じたが、アメリカ軍18万2千人は、4月1日、猛烈な艦砲射撃の中、沖縄本島に上陸した。まさにこの太平洋戦争最後の地上戦となった沖縄戦は、「戦争の醜さの極致だ。それ以外どうこれを説明しようもない」(アメリカ軍事史家ハンソン・ボールドウィン)戦いであったが、大本営作戦部長は、小磯に「結局守備軍は玉砕、敵に占領されることになり、やがて敵の本土来冦は必至になるものと考える」と報告していた。 

このように、陸軍の狂気の本土決戦(一億総玉砕)の単なる時間稼ぎの無意味な殺しあいが沖縄戦であったが、4月2日付朝日新聞社説は、「いまこそこの一戦に集中すべきである。目標を一点に凝結せしむべきである。次の手、また次の手を考へては、雑念を生じて一刀のもとに切つて捨てる事がむづかしくなる」、また同日付読売新聞社説は「沖縄群島の攻防こそ真に太平洋の運命を決すべき天王山なのである。ここを失えば本土防衛の一角は崩れ、この一戦に勝たずして戦局転機の機はまた望み得ないといわざるを得ない・・・・我等一億奮起すべきは真に今である。今日を失って明日何を求め得よう」と国民の決起を促した。

4月5日アメリカ軍の沖縄本島上陸と和平工作問題の責任をとる形で、木炭自動車(のろくて故障がちの意味)いわれていた小磯内閣が倒壊、同月7日日本海軍の象徴不沈戦艦「大和」(一部で時代遅れの巨艦主義の象徴とか、あるいはピラミッド、万里の長城とともに世界の三大無用の長物とかと陰口を叩かれた)が沈没したその日に鈴木貫太郎最終決戦内閣が成立するが、鈴木もただ「聖戦完遂」を叫ぶだけであった。翌8日大本営は、「我方の収めた戦果・空母等15隻撃沈、撃破19隻、我方の損害・戦艦1隻を含む5艦沈没」と発表したが、大和沈没の発表はなかった。同日付朝日新聞は、「この戦い必ず勝つー1億に各個戦闘の気力」という鈴木との一問一答を掲載するが、勝利の女神はファシズムには微笑まなかった。 

もはや戦争の結果は明白で、したがって戦争目的の遂行に無縁な沖縄戦で、沖縄県民50万人を巻き込んだ死闘を繰り返している最中の4月22日、ソ連戦車隊がベルリン市街に突入する。そしてポーランド、ブルガリア等東ヨーロッパ諸国をナチスの手から解放しドイツに攻めいったソ連軍と、イタリー、フランス等の西ヨーロッパを解放し、ドイツに入った米軍とが4月25日エルベ河畔トルゴウにおいて出会い、二度と戦争の惨禍を繰り返すまいと誓い合った(『エルベの誓い』・『エルベの出会い』)。ソ連人民がアメリカ民主主義をたたえれば、英語を話す人民がソ連を光栄ある赤軍と呼ぶ、まさに象徴的なこの出合は、第2次世界大戦の性格をものの見事に表わしていた。

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滅亡えの道、大日本帝国は音を立てて崩壊、無気力人間の誕生 PART5

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そのさ中の10月10日、マリアナ諸島攻略後の攻撃戦略点を日本の南方防衛拠点のフィリピンにおき、その奪還をめざしたアメリカ軍は、レイテ島上陸を援護するため艦載機をもって沖縄・奄美大島、つづいて台湾を空襲する。これに対して日本軍は、航空部隊の全力を挙げて10月12日より3日間台湾沖で航空戦を展開した。大本営はこの空中戦の戦果を10月19日、「我が部隊は10月12日以降連日連夜台湾及ルソン東方海面の敵機動部隊を猛攻し、其過半の兵力を壊滅してこれを退行せしめたり」と発表した。 

翌20日東京・日比谷公会堂で、一億憤激米英撃滅国民大会が開かれ、退却に次ぐ退却で沈痛なムードにあった国民は久し振りの戦果に酔った。小磯は、勝利の確信にみちた声で、痛烈に米英を非難し、「不具載天の敵」と叫び、会場外の大衆の喚起に応えて、「みなさん有難う、不肖小磯はみなさんとともに将来の勝利を確信して邁進します」と手を振るのであった。 

しかしこの大勝利は、実戦経験のない航空機の搭乗員が、自爆機や海中への落下弾を命中弾として報告したものを基礎に、太平洋戦争中、一度の敗北も発表しなかった、否、できなかった大本営が作り上げた虚構の戦果で、実際にはアメリカは空母1隻、重巡洋艦1隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦1隻を損傷しただけで、沈没は1隻もなかった。また航空機についても日本が出動した800機中650機(81%)を失ったのに反し、アメリカは出動600機中わずか89機(15%)にすぎなかった。 

大消耗戦で多くの兵力を失った日本軍は、10月18日に17才以上の者を兵役に編入するとともに、西南太平洋連合軍司令官(1942〔昭和17〕年4月19日就任)マッカーサー指揮のアメリカ軍がレイテ島に上陸を開始した同月20日、かつて長官山本の命令で真珠湾奇襲攻撃の戦術を練った一人であった海軍中将大西瀧次郎が神風特別攻撃隊を編成する。 

一方、日本軍の猛攻で退却を余儀なくされたフィリピンに予言通り帰ってきたマッカーサーは、戦場のスピーカーを通じて「フィリピン市民諸君、私は帰ってきた。わが軍はアメリカ、フィリピンの両国民の血で清められた土の上に再び立っている。全将兵よ 団結せよ」と万感の思いを込めて放送した。 

日本軍は、残っていた全勢力、全機能をかたむけた総攻撃でレイテ沖(湾)海戦(日本側呼称は比島沖海戦ー捷1号作戦)に挑み、日本海軍の象徴の一つであった不沈戦艦「武蔵」を失った翌日の10月25日から特攻突撃を開始することになる。だがそれは、三菱航空(現重工)製造の零式艦上戦闘機(1万49機が製造された)という本来空中戦専用の戦闘機に250キロの爆弾を抱かせて敵艦に体当たりする無謀な戦術であったがために、アメリカ機動部隊には歯がたたず、その上命中率16・5%では、戦局の打開という当初の目的は到底達成不可能であった。 

この日から日本の航空戦術の主体となった特攻は、ただただ若い命を無駄に散らすだけの無意味な人的消耗戦を意味した。もとより、レイテ沖でアメリカ軍を一気に撃滅しようとした日米海戦は、残存機動部隊連合艦隊の退却あるいは全滅で終わり、日本連合艦隊は海上決戦の戦闘力を失い壊滅状態となった。そして新たな生産が全く不可能な経済状態と戦闘員が枯渇していた国内の状況では、当然のことながら、日本の連合艦隊の決戦力が二度と回復することなかった。

大本営は、10月27日午後4時50分レテイ沖海戦の総合戦果を、撃沈・航空母艦8隻、巡洋艦3隻、駆逐艦2隻、輸送船4隻、撃破・航空母艦7隻、戦艦1隻、巡洋艦2隻、撃墜約500機、我方の損害、沈没・航空母艦1隻、巡洋艦2隻、駆逐艦2隻、中破・航空母艦1隻(この他戦艦1隻沈没、1隻中破)と発表したが、実際のアメリカ軍の損害は、沈没・航空母艦1隻、護衛空母2隻、駆逐艦3隻、潜水艦1隻、損傷・護衛空母7他計15隻に対して、日本の損害は、沈没・武蔵を含む戦艦3隻、空母4隻(参加空母全滅)、重巡洋艦6隻、軽巡洋艦3隻、駆逐艦6隻、損傷は参加艦船のほとんど全部に及んだ。 

この結果日本の保有海軍兵力は、開戦時アメリカ海軍に対して69・5%であったのが、マリアナ海戦後28・3%、レイテ沖海戦後18・0%、沖縄作戦前には実に13・8%までに低下することになる。

ヨーロッパ戦線は、ノルマンディー上陸作戦の成功が契機になり、フランス全土では反ナチスの抵抗運動が盛り上がる中、1944(昭和19)年8月15日に連合軍が南フランスに上陸、8月24日呼応してパリ市民が武装蜂起、8月25日連合軍はパリ入城、ここに再びパリに三色旗が翻る。 

ソ連軍は、独軍をソ連全域から撃退するとともに、8月31日ルーマニアを解放、9月2日フィランドが対独断交、9月9日フランスでドゴール臨時政権樹立されることになる。10月に入って連合軍は、アメリカ空軍を主力に一気にベルリンを猛爆撃し、ここにドイツの敗戦は決定的となった。10月11日ソ連軍、東プロシヤでドイツ国境突破、同月20日ソ連・ユーゴ人民解放軍、ベオグラードを独軍から奪還、11月17日アルバニア民族解放軍首都チラナに入り、11月29日の独軍スクタリ撤退によりアルバニアの全土が解放される。こうして完全敗北寸前の独軍は、12月16日西部戦線アルデンヌ地区の最後攻撃を開始する。 

そして1945(昭和20)年、運命の年は除夜の鐘の代わりに高射垉の音であけた。1月1日午前0時5分、警戒警報が発令され、長いサイレンが響きわたったが、この年日本は空襲につぐ空襲で、まさにこの世の地獄絵を作り出した。 

1月1日付各新聞(すでに物資不足により、全国の新聞は1944〔昭和19〕年11月1日より朝刊2ページ建となっていた)、一斉に「天皇陛下最高指導会議に親臨」の写真とともに大本営12月31日発表の「我特別攻撃隊一誠、鐵心、旭光、進襲、皇華各飛行隊は、戦闘機俺護の下12月29日以降連続ミンドロ島に対する敵増援輸送船団に突入、之に大なる打撃を與へたり。右特別攻撃隊の収めたる戦果中現在迄に判明せるもの次の如し。輸送船・撃沈3隻、大破炎上5隻、巡洋艦・撃沈2隻」という『輝ける戦果』を、毎日新聞は「30隻敵船団壊滅」、朝日新聞は「敵船団殆ど壊滅す」との見出しで勇ましく報道した。 

だがこうした大本営の虚偽の戦果発表は、単に国民を欺瞞するだけでなく、戦場の軍隊をも混乱に陥れることになる。撃沈したはずのアメリカ空母の雄姿を第一線の兵士が洋上で眼にするようになっては、戦術の混乱はその極に達し、日本帝国の戦争遂行能力は急降下してゆくしかなかった。一度ウソをつくとそれを取り繕うためにまた大きなウソをつくといった悪循環が、日本を破滅に追い込むことになる。 

もはや日本の敗戦は、決定的となった。しかし同日付毎日新聞が「大東亜の安定・正に今年ー粘り強く戦ひ抜かん」、朝日新聞が「明朗敢闘ー戦局転換の年」との見出しで首相小磯談話をそれぞれ掲載したように、天皇を頂点とする日本の為政者達には、世界情勢と戦局を冷静に判断する能力が全く欠如していた。また、新聞に代表されるマスコミは、ただただ大本営に追随するだけで、真実を報道する勇気を持たなかった。 

同年1月8日皇居前広場で陸軍最後の観兵式が天皇臨席で行われたが、参加した将兵の姿は、戦闘帽に鉄兜という国土防衛のスタイルだった。そして1月18日の最高戦争会議は、今後採るべき戦争指導大綱を決定、本土決戦即応態勢強化をはかるとともに、閣議は前日の郵便料金と鉄道運賃の値上げにつづいて、同日所得税等の改定決定を発表した。政府は、戦争に疲れ果て、飢えに苦しみ、アメリカ軍の空襲により家を焼かれて寒空に放り出された国民に増税をもって報いたのである。 

その5日前の1月13日、愛知県を中心とする東海地方にマグニチュード7・1の大地震(三河地震)が起き、愛知県の死者は実に2,300人を記録した。たがこの事実の詳細は、前線の敗北・退却の事実とともに、また前年12月7日に起きた愛知・三重・静岡をはじめとする東海地方臨海部の重工業に大被害を与えたマグニチュード8の東南海大地震(死傷者4,000人以上)同様、国民には知らされなかった。 

この2回の大地震が、住民のみならず、飛行機などの軍需産業にも壊滅的打撃を与えたにもかからず、1月14日付朝日新聞は、2面に小さく「東海地方に地震、被害、最小限に防止」との見出しで、「生産陣は全く健在、余燼のつヾくなかにも滅敵の翼増産は、いつに変らぬ逞しい鼓動を打ちつヾけ万全の防護陣を布く・・・・」との虚偽の報道を行うのであった。敗戦を前にし、”神風“の代わりにもたらされたのが、この大地震であったが、それは日本の完全敗北を印象づける出来事となった。

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