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『古代ユダヤ教』
マックス・ウェーバー
岩波文庫

対内・対外道徳の二元主義

 隣人愛は古代ユダヤ教でもあったが、それはどうもすべての隣人ではなく、同じ宗派仲間を意味していたらしい。
隣人とは常に民族共同体員であるか、宗派的仲間なのである。このことは、「(隣人を)自分のように愛すべきだ」という心情倫理的説教においてもあてはまる。説教の道徳的内容は「兄弟」のみにかぎられていた。
では、宗派仲間以外の他者についてはどうなるのか。そこに、共同体の境における対内・対外道徳の二重化が発生する。たとえば、「兄弟」からは利子をむさぼってはならないが、それ以外の他者からの利子は許容されるとか。ここが、いわゆる「ブロテスタンティズム」の経済倫理と決定的に相違したことをウェーバーは強調する。

プロテスタントのピューリタニズムにとっても、同じ宗派仲間ではない者はやはり「神なき者」であることにかわりはないのだが、それに対して、どのような態度をとったかというと、
彼らはまさに「神なき者」との経済交渉において、ごまかしたり、だましたりするかわりに、合法的で正直で公明であった。彼らは固定価格の制度を遂行し、たとえ子供が買い物に来てもやはり公正価格で公正な商品を常に手渡した。預金もクレジットも彼らにおいてはまさに一般的な「信用」が出来たこと、だからこそ「神なき者たち」の多数が彼らの商業金庫や実業家の顧客となった。要するに、宗教的に制約された、優越せる経済的エートスをもっていたおかげで、「正直は最上の政略」という原則に従って、神なき者たちとの競争に勝った、ということである。
こうしたことはアメリカ合衆国においては、つい2、30年前までは中産階級の現実のエートスとしてそのまま体験することができたものなのである。
それに対して
ユダヤ教の場合は、これと相違した。経済的対外関係の倫理的合理化へと導く救済論的な動機づけが欠如していたからである。
ユダヤ人たちが特に通暁したのは、貨幣高利貸しや商業とならんで、国家・掠奪資本主義であり、これこそピューリタニズムが徹底的に嫌悪したものである。
ウェーバーはユダヤ民族が「客人民族」であったことを強調する。「客人民族」とは現地における部外者民族という意味で、ディアスポラ以降、国を失った彼らの置かれた必然的な状況なのである。

ブロテスタンティズムの「世俗内的禁欲」は、自己修養・自己鍛錬・向上心、傲慢をひかえ謙虚に前向きに努力するような自己に対する態度と、勤勉・節約・蓄財を美徳とする経済倫理的生活態度(エートス)を生み出した。また自らの職業に対する研鑽の努力と献身は、職業を神からの「召命」としてとらえる独特の職業倫理から来たものである。つまり現世内で一定の職業を持ち、研鑽し、力量を高めることは、救済への確証を得る手段であった。

隣人の定義が自らのうちわだけの隣人ではなく、まさにおのれ以外のすべての他者を意味するように普遍化された時、万人に対して平等に通用する公正さこそ、神との契約を履行するものであるという宗教的信条をもつにいたったのである。このような経済倫理は法律で定められない以前は、ただ人々の生活習慣や個人的信条に基づくほかはないのであり、それは宗教の教えによって根本的に規定された。

「時は金なり」というフランクリンの言葉は、資本主義だからそのような精神が出てきたのではなく、上記のようなプロテスタンティズムが生み出した独特の職業倫理・労働倫理から来ているものなのである。つまり、彼らはカネのために働いたのではなく、働くことは信仰に基づく救済論的な意味合いをもつ行為だったのであり、勤勉であることは、救済の確証を得るための前提条件だったのである。そしてのこような宗教的倫理観念に基づいて、職業・労働の尊さや、勤勉であること、浪費しないこと、カネをためることが美徳とされるようになった。逆に、働かないこと、浪費することは悪ということになるだろう。

この美徳観念は現代でもわずかながら残っているように思える。しかしながら、もはや一般的に通用しているとは言い難いだろう。それは根本的には救済論的な動機づけがなくなったからである。つまり存在を主導的に導く理念と、それを信じつづけながら、それに従いつつ生きるという生活態度がなくなったからである。その救済論的な理念こそ、「人間」という名の共同体の理念であり、それを確信的にもつことが現世的な倫理観念を決定的に規定するのである。

プロテスタンティズムの倫理は実際資本主義の精神を生み出すきっかけになったであろうが、いつしか世俗内的禁欲の、経済的に合理的なエートスは、その宗教的な、倫理的に強固な地盤を失い、物質主義的な欲望の体系の資本主義的精神となっていった。
世俗内的禁欲における自己修養は自己を”武器にする”ことにかわり、向上心は常に資本主義的な”評価”を求める心に、謙虚に前向きに努力する態度はあくなき闘争心にかわって、この経済社会においてはむしろそれのほうが適合的なのである。確かにこのような精神は、われわれがそこで生き抜いていかなければならない資本主義経済社会によって規定されている精神である。

勤勉はたしかに美徳ではあるが、倫理的内発性によるものではなく、逆に勤勉でなければ生きていけないという、せっぱ詰まった外的・強制的な事情になっている。
経済的に合理的な生活態度は、生存のための必然性であり、欲求を満たす手段である。かつて神に忠実であろうとすることに地盤をもっていた合理的な経済的生活態度=エートスは、今では、資本に忠実であろうとするところの”賃金奴隷のエートス”と呼ばれるようになったのである。

ウェーバーが強調するのは、経済社会は人間にとって外から規定するような外的・強迫的なものではなく、むしろ人間が日常生活においてすでに実践しているところの、日々の経済的生活慣習によって規定される、そういう側面も必ずあるということである。そして、経済的生活慣習を主導する人間の価値観や倫理観念は、過去においては、宗教の強大な影響があった、ということである。

この宗教が倫理観念を通して規定する人間の生活態度や慣習・価値観が、その共同体の経済を合理化に導くか否かは、当の宗教自体にかかっている。
要するに、ユダヤ人たちがもっとも長い期間住んでいたオリエント、南ヨーロッパや東ヨーロッパ地域においては、古代・中世・近世において、特殊な傾向をおびた近代資本主義というものは発展しなかったのである。
西洋の発展におけるユダヤ人の関与は、本質的に彼らの「客人民族」としての特徴に基づくものであった。そしてこれは、ユダヤ人が自らの意志でおこなった遮断が、ユダヤ人自身に刻印づけた地位なのである。
ヤハウェは万人に理解可能な言葉を語り、また在来宗教につきものの「魔術的」な要素を排除していった点で、まことに理性的な神であった。しかし、のちのキリスト教と、そのまた宗教改革以後のキリスト教がもたらしたような経済的な観点での合理主義的な生活態度を、ユダヤ人たちが持たなかったのは、対内・対外道徳の二元主義にもとづくという。このダブルスタンタードが、共同体の境を越え、国境を越え、文明の違いを越えて万人に通用する行動基準や生活態度を生み出さなかった。それはユダヤ人自身がみずからの「純潔」を守るためにとった「遮断」が行き着いた先であり、彼ら自身が決断したことの結果であって、近代資本主義を最高の価値原理として前提しないならば、この決断は彼らにとってやはり合理的だったのかもしれない。

近代合理主義的な資本主義の「資本の論理」は、あらゆる民族・宗教・また思想・信条の壁を越えて貫徹する。
その意味でまことに合理的である。ただし、資本の論理においては、人間は労働力商品という商品として生き残るほかはないのである。そして商品として生き残るというのは、つまりは売れる商品でなければダメ、ということなのだが…。しかしそれも、資本主義的に見て、まことに合理的なことなのである。

このような状況において、「遮断」は神との契約を遵守する上で合理的な態度であったと思われる。むしろ、富を蓄えることによって、それが何らかの「救済」に結びつくものと発想することのほうが、宗教的に異質な感覚ではないだろうか。経済生活と信仰生活を切り離す態度のほうが、純宗教的に見える。だが、それは社会学的な立場からいうと非現実的なのだが。

人間の営みという観点において、宗教的な精神生活と物質的な経済生活をウェーバーは切り離さなかった。むしろ、経済生活にどれだけ宗教的な価値観が作用するかに重点をおいている。経済的な観点における合理的な生活態度は、自己に対しても他者に対しても平等に適用しえる態度、つまり「公正さ」を倫理観念にまで高めた。それは古代ユダヤ教において準備され、キリスト教、就中プロテスタンティズムによって、普遍的な倫理的価値に高められたのである。

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