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会社から外へ出ると、池上真一は大きく息を吸い込んで今日も無事に終わったとつぶやいた。
最近は泊まり込みで仕事をしていたので携帯ですら家族と会話していない。
おれは仕事に没頭する質だ。
同僚には要領よく仕事中に掲示板に書き込んだり内職したり、
タバコ吸ってくる言いながら携帯もってちょこまかメールしたりする奴もいるが、
そういうちまちましたのが苦手なのでつい家族をほったらかしにしてしまう。
妻の和恵の怒っている顔が浮かんで憂鬱になり、急に帰宅して夕食を用意させるのも気がひけて、
コンビニで焼き鳥とぬか漬けと発泡酒を買い、和恵と娘たちが好きなロールケーキが有ったので、
それも買い求めて家路を急いだ。
自宅の前庭に花が揺れていて日頃明るい時間に帰宅しない真一は一瞬何の花かなと思ったが、
後で妻に訊いてみようと思い、これで会話が出来ると少し安心して鍵を外し中へ入った。
いつもなら何か生姜焼きやら焼き魚やらの匂いが漂ってくる時間なのだが、
大きい音で音楽がなっている。これは大きすぎる。近所から苦情が来るではないか。
真一は叱る理由を得て、それによって家族の上へ違和感なく君臨できる機会を得たと、
少し安心しながらリビングの扉を開けた。
何だ?英語の歌?何?マイケルジャクソン?ビートイット?
腹の肉を揺らして和恵と娘たち4人が踊っている。有る意味壮観ではある。
音楽が止まったので真一が口を開こうとしたら和恵が、
「何やってるの?そこはこうでしょ?何を見ているの?手はもっと鷲のように高く指先まで伸ばして!」
「指を伸ばせばいいってもんじゃないわよ!しなやかさが足りないのよ。よく見て!」
「ステップを覚えないとリズム感なんて覚えられないわよ!日本人は黒人より劣ってるんだから!」
そしてまた音楽が始まり、全員が一斉にビートイットのラストに行われる
集団のダンスシーンの場面が始まる‥がそれは当然見られたものではなく、
腹の出てる中年女と、頬の赤い日本人顔の幼稚園児と小学生では話にならない。
部屋の隅ではインコが細くなって様子を伺っている。可哀相に。
真一は口をパクパクしながら
「おい!どうしたんだ、これは?」
と問いかけるが和恵は真一の言葉など耳に入らないようでダンスの練習に余念がない。
ついに怒り心頭の真一は踊ってる和恵の前を横切り音楽を止めて、
汗をかいて化粧のはげた和恵の顔を見据えた。酷い顔だ。
その顔に少しひるみ、ひるんだ自分に少し腹を立てた真一は、
思っている以上に怒りの口調を出すことが出来た。
「何してるんだ。」短いがドスの効いた声が出る。
だが和恵は答えない。
「だから何してるんだと聞いてるんだ、答えろ!。」
それでも答えない。強情な女だ。昔からそうだ。怒りで頭の中が真っ赤になり、
「なんだなんだ、久しぶりに大仕事を終えて家で寛ごうと思ったら奥様はダンス教室か。
近所迷惑なんだよ。今更ダイエットか?痩せてもおまえなんか誰も見ねえよ。
俺の態度が気に入らないならおまえも少しは働いて自立してみろってんだ。」
我ながら意地悪いと思うが今は汗だくの目の前の女にギャフンと言わせたくて
肺腑をえぐるような言葉が口から出てくる。
それでも和恵は真一を睨んだまま返事をしない。
なんだこいつは。普段怒鳴ったりしないのですごく疲れてその場に座り込む。
「‥‥」
和恵が何か言っている。
「何か言ったか?ちゃんと言えよ。」
もうどうでも良くなって投げやりに答える。
「何よ。自分ばっかり。」
和恵が口を切ってしゃべり始めた。
「いつも仕事仕事って、仕事って言えば済むと思って。
そりゃあ稼いで来てくださってるのは感謝してますよ。
お陰さまで子供が4人居ても生活に不自由していないから。
でもいくら仕事が忙しいからって子供たちの参観日も親戚への付け届けも、
あなたの親からの様々なプレッシャーや町内会の会合も、育児も家事も全部私って何なの?
家政婦じゃないのよ私。」
「おれは命を削って働いている。おれだってATMじゃない!」
真一は喉がカラカラになっていたが、ようやく言葉を絞り出した。
「もううんざりなの。近所のいつもご主人が居なくて浮気してるんじゃないのっていう
興味本位の視線や、女の子4人を行儀良く躾ないとあなたの親に育ちが悪いって叱られるのも、
親戚たちに早く同居して年寄りを安心させてやってくれとか言われるのも、
あなたが仕事で居ないのにあなたの実家に呼ばれて色々掃除させられたりご飯作れって言われて、
まずいって棄てられたりしても子供の手前我慢するのももうやめたの。」
真一は心臓がバクバクしてきた。おれの親がそんな事を妻に要求していたとは知らなかった。
何で言わないんだ。そうかおれと別れる気だな。それで今こんな投げやりな態度を取って、
近所迷惑な行動をして追い出されるのを待ってるんだ、きっとそうだ。
真一は妻の真意がわかったと思い、謝ったが和恵は鼻で笑い、
「だから私の番なの。私も好きなことをするの。解らないの?もう遅いのよ。」
解らないって言われても本当に訳が解らない。
好きな事ってマイケルのダンスを踊る事がか?
どう見ても盆踊りにしか見えないが。
子供たちがよそよそしく真一を見ているのが気になる。
第一、おれと親が嫌なら実家に帰ったりするんじゃないか普通は?
「とにかく私、就職しますから家事は分担して貰いますからね。
ダンスレッスンに通いたいから自分で働くわ。
そしていつかアメリカでマイケルと一緒にダンスするの。もう決めたの。」
そう言って頬を染めやがった。
ばかげているし、絶対実現しそうもない夢では有るが、
有無を言わせない和美の顔を見て普段は穏和な性質の真一も従わざるを得なかった。
拒めば本当に実家へ帰ってしまいそうだったし、子煩悩な真一は離婚したくなかった。
それからは早めに帰宅して子供と風呂に入ったり、
和恵のダンス教室通いが始まったら添い寝をして寝かしつけたりした。
職場では白い目で見られ胃がキリキリ痛んだが仕方がなかった。
妻が病気だと嘘をつこうかと思ったが、派手な服装でダンスに通い、
バイクをふかして仕事に行くのだから目立ってしまう。
和恵は仕事も忙しくなって、家を空ける事が多くなった。
おれの負担は大きくなり、たまに和恵が取った味噌汁のダシに煮干しの頭が
入っていた事や、洗濯物を白と黒をなんで分けないのかと指摘したら、
ますます家事をやらなくなった。
ケンカをしては真一が折れる日が続き、家事もまんざらではないと思えるようになった頃、
職場では完全に居場所が無くなってしまって辞表を出すことに決めた。
少し和恵の気持ちがわかり色々考えて、おれは自宅を売り郊外に引っ越そうと思った。
幸い資格があるので自宅で開業して細々と暮らし、
前からやってみたかった家庭菜園もやりたいと和恵に提案した。
「田舎だから心おきなくダンスの練習が出来るぞ。時間を気にしなくてもいいぞ。
それに無農薬の野菜を作るぞ。」
おれはワクワクして言った。だが和恵は浮かない顔をしている。
「和恵?何が気に入らないんだ?おれの親の事なら大丈夫だ。おまえに迷惑はかけないから。
田舎だから子供たちにも良い環境だぞ。」とたたみかける。だが表情が冴えない。
そして和恵が言った言葉。
「私、色んな制約が無いと燃えないの。仕事も家事も育児も、あなたの親の嫌がらせも全部
受け止めながらヒリヒリした気持ちでダンスをやらないと、何のために踊ってるか解らないの。」
さめざめと泣き出した。Mだったのか?
「私マイケルの何もかもが好きなの。整形してるって言う噂の顔も少年のような声も、
そして何よりダンスが素晴らしいの。何であんな風に踊れるんだろう。
ただターンしてるだけなのに目が釘付けになるわ。
手を上に挙げただけで空気を変えることが出来るのはマイケルだけよ。
そしてそんなスーパースターなのに内面に抱える孤独の深さを知ると堪らなくなるのよ。それから‥」
和恵の話は止まらないだろう。この前は3時間マイケルの素晴らしさについて聞かせられた。
和恵は引っ越ししたくないようだ。
しかしおれはもう会社を辞めてしまった。
もうヤケだ。
「おおい和恵!音楽かけろ。踊ってみてくれ。」
「ん?ここでターンか?ムーンウォークはどこでやるんだ?」
「いてててて!痛い痛い!そんなに足上がらないって。」
どうやら柔軟体操から始めないといけないらしい。
床で前屈をしていると娘がそっと後ろから背中を押してくれている。
振り向くと目が合った。笑っている。
※フィクションです。ただ夏休みに子供とビートイットのダンス練習をしていたのは本当です。
それに帰宅した夫が参加してきて足をもっとこうだとか手はこうだと言いました。
MTVで見ていたマイケルジャクソンのダンスはすごかった。生で見たかった。
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