論愚阿来無の『万馬券の兵法』

全場全レース出走馬の馬名の意味由来と血統大穴予想

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2010年3月18日

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今年の小嶋達也はやる!

今年の小嶋達也はやる!
 
 昨年のこの時期にも同じ事を言っていたような気がする。去年よりも自信度は高い。昨年は「結婚」という事実の重みから太鼓判を押した。「小嶋は中途半端な男ではない」ということは「自信がないと結婚しない」ゆえに「活躍間違いない」という三段論法であった。

 昨年の5月17日。2軍で4勝し、やっとお声がかかった登板であった。谷間の先発も6回3安打1失点。小嶋はほんとうに勝負強い。私は小嶋が『節目』の試合で大きく崩れたのを見た事がない。特に右バッターの内角ストレートを痛打されたのを。当然1軍定着を思わせた。ところが先発の頭数が揃っていて、即2軍へ。すぐにまたお呼びがかかるかと思いきや、2軍戦で連敗続きで這い上がれなかった。
 
 年が明けてもキャンプスタートは2軍であった。今年も『節目』の試合で結果を出し続け、開幕ローテを勝ち獲ろうとしている。依然として右バッターには殆ど打たれていない。あのゆったりしたフォームから玉持ちがいいのか差し込まれている。苦手の左バッターへの対処も、日ハム・稲葉選手にタイムリーを打たれはしたが、これは稲葉選手に上手く打たれたもので、臆せずチェンジアップを投げていた。左対策もできつつあるようだ。
 
 さあオープン戦最後の登板である。ここも結果を残さなければならぬ身だけに『調整』とはいくまい。それが辛い。左打者との対戦をもっと見てみたい。ラェンジアップの精度が高くなったので、ピッチングの幅は広がっている。あとは、左打者の内角のストレート、右打者の外角のストレートである。このコントロールが生命線となりそうだ。
 
 右バッターの多い横浜戦での先発がベストだが、昨年の能見のように1年間頑張って欲しいものだ。先輩・能見に続いてもらいたい。頼むぞ、小嶋!

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天声人語3月18日(朝日新聞)

天声人語3月18日(朝日新聞)
 
 まず、場所がよろしくない。中東のカタールといえば、日本サッカー史の語り草「ドーハの悲劇」の舞台である。同名の痛恨が、今度は水産史に刻まれるかもしれない▼大西洋クロマグロをワシントン条約で保護する動きが、ドーハでの締約国会議で山場を迎えた。絶滅の恐れが認められれば、輸出入が禁じられる。当たり前に市場に出ていた魚が、いきなりパンダやジュゴンの仲間入りだ。「最後の手段」が出番を間違えた風でもある▼批判の的は、天然の幼魚を一網打尽にし、いけすで育てる蓄養だ。脂が乗りやすい蓄養マグロは大半が日本向け。国内には在庫が十分あり、同種はわが太平洋にもいるが、いずれ品薄と高騰が心配される。卵からの完全養殖が穴を埋めるのはまだ先だろう▼ビジネスと天然資源の間合いは難しい。目先のもうけに皆が突進すれば、枯渇という仕返しに遭う。トロより赤身が好きなへそ曲がりとしては、高速で回遊する天然物を細く長く楽しみたい▼すし職人の小野二郎さん(84)が、『すきやばし次郎 旬を握る』(文春文庫)で、マグロの「甘酸っぱい香り」「押しつけがましくない甘みと渋み」の由来を語っている。「大海原を泳ぎ回る巨大な赤身魚の血がもたらす香り、そして味なんですね」と▼口からエラに抜ける海水で呼吸するため、マグロは泳ぎ続けないと死ぬ。巨体が命がけで蓄えた自然の恵みを、ありがたく、節度を持って味わうのが人の道かと思う。ワ条約による「別件逮捕」の当否はさておき、漁を控える勇断はあってもいい。

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【幕末から学ぶ現在(いま)】河井継之助(産経新聞)

【幕末から学ぶ現在(いま)】(54) 河井継之助(産経新聞)

類まれな戦略家だった河井継之助(新潟県長岡市立中央図書館蔵)類まれな戦略家だった河井継之助(新潟県長岡市立中央図書館蔵)

政治家の器、組織の器

 鳩山邦夫氏が自民党からの離党を表明した。新党結成の話題がかまびすしいが、いつも話題の中心にいるのは、舛添要一氏である。その行動力に加え、周辺に放つ独特な発信力は確かに自民党内でも目立っている。
 しかし、政治の難しいところは、いかに個人として精彩を放ったとしても、同志や部下がいないと政治意志を実現できない点にある。政治は集団の営みであることが多いからだ。この意味で舛添氏にとって自民党という枠は、驥足(きそく)を展(の)ばす上でしがらみになっているのかもしれない。
 ≪藩と河井の双方に不幸≫
 しかし、小さな組織なら才能を発揮できるわけでもない。幕末でいえば、表高7万4千石の長岡藩の政治を河井継之助が仕切ったことは、藩と河井の双方にとって不幸な面もあった。河井は小藩を仕切るには気宇広大にすぎ、傑物を受け入れるには藩の器が小さすぎたからである。
 内戦の勃発(ぼっぱつ)を見切っていた河井は、藩士の俸禄(ほうろく)や藩の出費を整理して新鋭銃2千挺はじめ近代兵器の購入をはかり、奥羽越随一の近代軍事力を完備した。
 たとえば、手回し式の機関銃ガトリング砲2挺はいざ戦の火蓋(ひぶた)が切られるとすぐに威力を発揮した。7年前の南北戦争(1861〜65年)に登場したばかりの最新兵器を自ら横浜へ買い付けにいき、3挺しかない現物のうち2挺を購入する手際の良さであった。軍と政の事実上の最高指導者の河井みずから、前線でハンドルを握って撃ちまくるわけだから凄(すご)い。しかし、防御板がなかった欠陥のせいで敵に狙撃されて死にいたる。
≪小藩の水準越えた発想≫
 政治外交でも河井の発想は、小藩重役の水準を越えていた。彼は、藩論を武装中立に統一して新政府軍との談判を図り、旧幕府軍と新政府軍との調停によって紛争の平和解決をめざそうとした。あわよくば両者の間で漁夫の利を得ようとするか、戦後処理で長岡藩を実力以上に高く売りつけようとしたか、このいずれかであろう。
 しかし、壮大な意図を隠して無血の解決を策した相手が若輩の土佐藩士、岩村高俊だったのは河井にとって不幸であった。せめて長州の山県有朋か、薩摩の黒田清隆であれば、河井とうまく折り合いをつけた可能性もあり、そもそも厄介な衝突を起こす危険のある河井を黙って帰す愚は犯さなかったであろう。実際、山県はじきに始まる北越戦争で盟友の時山直八(なおはち)を失う打撃を受ける。
 戦略家、河井の冴(さ)えは、新政府軍の占拠した長岡城を裏手の沼地・八丁沖から深夜に奇襲した作戦にも発揮された。源義経の鵯越(ひよどりごえ)のように常識的にはあり得ない戦術を敢行したわけである。大参謀だった若き日の西園寺公望は寝巻きのまま逃げ出したらしい。
 ≪指揮官の重傷で士気低下≫
 長岡城奪還作戦は日本戦史に残る快挙ではあったが、指揮官の河井がやがて重傷を負い、長岡藩兵の指揮能力や士気は低下してしまった。この小さな藩は河井がいなければ政治外交も軍事も思うにまかせない組織になっていたのだ。
 スケールの大きな外交戦略が破綻(はたん)しても、もし長岡藩に西洋の最新鋭兵器で武装された兵力がなかったなら、他の中小藩と同じくひたすら恭順の低姿勢に徹して新政府の鋭鋒(えいほう)が過ぎるのを待てたかもしれない。器に不釣合いのリーダーをもったことが、長岡の士民を不幸にしたと言えなくもない。
 さて、舛添氏にとって依然として大政党の自民党は格好の器であり、新党は小さすぎるのだろうか。あるいは、舛添氏の器にとり、自民党は大きすぎて手にあまり、小ぶりの新党で間に合うくらいなのだろうか。政党と政治家の器の比較較量(こうりょう)で見逃せない政治決断の時期が近づいている。(やまうち まさゆき)

【プロフィル】河井継之助
 かわい・つぐのすけ 文政10(1827)年、越後(新潟県)長岡生まれ。名は秋義。江戸で儒学者の斎藤拙堂や山田方谷(ほうこく)、佐久間象山らに学ぶ。長岡藩に戻り、家老などを務め藩政改革を断行。藩財政再建に取り組んだほか、洋式の銃砲を購入してフランス式の練兵を行った。王政復古で誕生した新政府に対し、徳川への大政再委任を建言、戊辰戦争では中立の立場をとろうとしたが、認められず、奥羽越列藩同盟に加わる。長岡城に籠城(ろうじょう)して政府軍を苦しめたが、負傷し、慶応4(1868)年、落城後に死亡した。享年42。

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