|
【幕末から学ぶ現在(いま)(147)】松平主税助 政治家の貴種伝説(東大教授・山内昌之)
政治家は、有権者にまず名前をおぼえてもらわないと仕事が始まらない。時に国会議員に会う機会もあるが、異様に大きな活字で名前を印刷した名刺をもらって仰天することも多い。時にはカラー写真付きの名刺をもらうこともある。学者間の付き合いでは写真の付いた名刺をもらったこともなく、名前の印字も互いに慎ましやかなものだ。
政治家は一種の“人気稼業”という点で芸能人とも似ている。何かで出自や家系が誤解された場合でも、自ら詐称したものでない限り、全員が正確に訂正するわけではないらしい。貴種(きしゅ)の評判や名門の伝説も、集票の役に立てば、それもよしというところなのだろう。
伝説をつくりやすい家系
似たようなことは幕末史にもある。文久2年12月(1863年1月)に、幕府の武芸訓練機関である講武所(こうぶしょ)の剣術教授方(きょうじゅかた)と兼任する形で新選組の前身、浪士組をとりまとめる浪士取扱に就任した松平忠敏もその類であろう。松平主税助や上総介(かずさのすけ)として知られる人物である。
彼が長沢松平家の出身であり当主の地位を継いだのは事実であるが、彼が徳川家康の六男、松平忠輝(ただてる)の血を継ぐというのは怪しい。しかし、新徴組支配を命じられた主税助は、京の浪士たち、なかでも新選組の近藤勇や土方歳三(ひじかた・としぞう)などの活躍と二重写しになって高貴な“家門”として人気を呼んだのだろう。
長沢松平という家系が実にスター伝説をつくりやすい仕掛けになっていた。江戸幕府が開かれてまもなくその家の養子となった松平忠輝は、伊達政宗の娘五郎八(いろは)を妻に迎え前途洋々にも見えながら、兄の将軍秀忠に嫌われて改易(かいえき)されてしまった。
しかし、忠輝には別に娘がいたらしく、分家の人物が彼女を迎えて長沢松平家を再興したとされるが、幕府はこの流れを嫌い、公に認められたのは享保4(1719)年のことらしい。しかも無易(むろく)であり、どうにか幕府から俸禄が下されたのは天保5(1834)年であった。
それも10人扶持(ぶち)だったというから御家人の軽輩身分くらいの待遇であった。このあたりが佐々木味津三(みつぞう)の小説『旗本退屈男』の「ぐずり松平」の殿様のモデルになった所以(ゆえん)であろう。東海道は三河国長沢村(現在の愛知県豊川市)に陣屋を構える由緒正しき貧乏殿様の松平源七郎が、将軍家からの書き付けを根拠に道中往還の大名家から石高相応の貢物(こうもつ)をせしめとる話である。
退屈男の早乙女主水之介(もんどのすけ)は源七郎のために、薩摩の島津家から3万両を葵の御紋と口舌でまんまと取り立てた。もとより源七郎は実在の人物でなく、忠輝と同じように兄の将軍家光に盾突いて改易された駿府藩主、徳川忠長(ただなが)の伝説上の長男なる長七郎の名からヒントを得たものだろう。しかし現代ともなれば長七郎の実在自体が疑わしい。ともかく、この不遇の名跡には、どこか歴史伝説をつくらせる魅力があったのだろう。
主税助忠敏はこの長沢松平家当主親芳の三男として文政元(1818)年に長沢に生まれ、後に兄の忠道の養子となって家督を継いだのである。
天保13(1842)年に江戸へ出たというから、貴種とはいえ都市型の柔弱な殿様ではなかった。幼少から柳剛流剣術を修め、後には心形刀刀流(しんぎょうとうりゅう)の伊庭(いば)軍兵衛にも学んだようだが、近藤勇ら浪士のように本物の剣士だったわけではないだろう。
文久3(1863)年正月に講武所の剣術師範役並に昇進し、上総介に任官して80人扶持を給されたあたりからやや生活も安定しはじめる。同年の将軍家茂上洛に際し、治安が悪化した京都での警護役として募った浪士組を指揮する浪士取扱の役にも任じられたが、集まった過激な面々を見て何らかの不都合を感じたためか、この職は早々に辞している。その後、大政奉還後の慶応4(1868)年に2千石をもらう小普請支配となったのが家運の絶頂であった。
血筋の割には恵まれず
主税助は血筋や家格の割には恵まれない生涯を過ごした。封建社会でも家柄だけでは何ともならない不条理が作用して、禄高や公職に恵まれない才人もいたのである。
後世の時代小説家たちは、その家系を忠長や長七郎の伝説と知ってか知らでか混同し、また貴種にしては達者だった剣術の才を近藤や土方レベルの腕前と思いこみ、一大スターに仕立て上げたのである。これも幕末という動乱の時代が背景になければ起こりえなかったことだ。
つくられた伝説や思い込みも、政治家にとっては大切な武器であろう。ただし行き過ぎると、“宇宙人”などと自他ともに面白がった末に、日本の国を危うくしかねない“貴種”政治家も現れる。
いつの時代でも、育ちと実力が整合して、胆力も兼備する政治のリーダーを見いだすのはむずかしいことなのだ。(やまうち まさゆき)
◇
【プロフィル】松平主税助
まつだいら・ちからのすけ 本名は忠敏(ただとし)。文政元(1818)年、三河国(愛知県)生まれ。長沢松平家の当主となり、天保13(1842)年に江戸に出る。安政3(1856)年、講武所剣術教授方。文久2年12月(1863年1月)、浪士取扱に就任したが、翌3年に辞任。慶応4(1868)年、小普請支配。明治15(1882)年、死去。
|