読書の感想
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記事4
本日は、個別学力試験の前期日程であった。大学入試の、昔風にいうと二次試験である。無事終了しました。
その他、年度末特有のいくつかの仕事の「大波」をおえて、「中波」水準となったので、ホッとしている。今晩中に1本仕上げないといけない経済分析の報告書があり、6割はおわっているので、あと4割をがんばる次第。子どもが寝たので、執筆に集中できる。一流の学術ジャーナルに投稿するようなガチガチの査読付き論文というわけではないので、気持ちは楽。「さざ波」とはいかないけれども、「中波」。なんとか仕上げて、朝参詣を実現させたいところである。むろん、仕上がらなくても、朝参詣をする予定。
たまに、がんばって朝参詣にいくと、参詣者の少なさに驚くことがある。「あれ、朝参詣をしていないのは、ボクだけじゃなかったのか」と目を疑うことがある。朝参詣の少ないボクが書くのは変であるが、「こりゃあ、もっと朝参詣をしましょうとおっしゃるのは、当然だわ」と、痛感する。いつもそんなに少ないわけではないだろうが、私が久しぶりに早朝参詣したときは、少ない。「私も、もっとがんばって、開門参詣をしないといけない」と、痛感する。このことを、班員や部員にも伝えねば。数年前、数ヶ月間、仕事でブラジルで暮らしていたが、ブラジル本門佛立宗のお寺に住まわせていただいていた。当然、毎朝開門参詣である。日系人だけでなく、青い瞳の(陳腐な表現!)ブラジル人が、数多く、開門参詣されていた。 −−−
読書の感想 3つ −池井戸潤『下町ロケット』小学館、2010年
地域開発や中小企業に関心のある私には最高に面白い。そうでなくても面白い。第145回直木賞受賞作品。どんどん読み進みたいけれど、仕事で中断しつつ。まだ、終えていない。 −福島文二郎『9割がバイトでも最高のスタッフに育つディズニーの教え方』中経出版、2010年
リッツカールトンホテルの、対人サービスもすごい。RCHか、TDRか?2つに1つなら、TDRかなと思う。RCHは人事選考が厳しいらしい。TDRは、素質はとわない。いれてから育てるという方針。TDR1万8000人のスタッフのうち、毎年半数が入れ替わるらしい。年3度の採用だから、1回当たり3000人を採用しないといけないわけで、志望者を選り好みする余裕がないという事情も、背景にある。いずれにせよ、「入れてから育てる」のほうが、勉強になるかなと思い、二者択一なら私はTDRの本を選ぶ。 この本、ちょっと損していると思うのは、タイトルが堅いこと。「最高のスタッフに育つ」という字をみると、「うわあ、むちゃくちゃ、バイトをこきつかう方法が書いてあるのかな」と、私は感じてしまって、ちょっと重い気分になる。そう思いながらも、買ったのだが。よんでみると、決してそんな本ではない。 むしろ「明るく楽しい職場の作り方」といったタイトルのほうが、ふさわしいのではないかと思った。 明るい職場であってこそ、労働能率も高まる。 −小澤征爾・村上春樹『小澤征爾さんと、音楽について話をする』新潮社、2011年
しばらく本屋による時間がなかった。昨年11月に、こんな本がでていたのか…。 東洋人なのに、ウイーン国立歌劇場管弦楽団の音楽監督という、ヨーロッパ文化の奥の院のトップに上り詰めた小澤さんが、語るわ、語る。引き出した村上春樹も、すごい。ネット上で、いろいろな人が本書のコメントを書いている。音楽談義はそちらにまかせたい。 まだ読み終えていないが、読み終えたくない感じ。ゆっくり、読みたい。半年ぐらいかけて、ちらちら、ぼちぼち。一気に読み終えたい衝動と、読み終わりたくない気持ちとが、心の中で衝突。 学生時代から、私の先生から「教師は、太鼓。きみたち学生が叩けば、鳴る」と教えられた。でも、うまく叩けなかった。この本では、マエストロがいわば、太鼓。村上春樹が見事に叩いて、鳴らしている。小澤征爾という太鼓をここまで鳴らせる村上春樹のすごさに、圧倒される。自分の師匠という太鼓を鳴らすことができていない自分のふがいなさを痛感。もっと勉強しないと、師匠という太鼓は鳴らせられない。つまり師匠から饒舌さを引き出すような質問が、つくれない。 それにしても、村上春樹という人は、よくここまで、ものすごい量のCDやDVDを聞いたり、たくさんのコンサート(海外をふくめて)にいったり、関連の映画をみたり、そういう時間があるものだなあ。そのことに驚愕。知識量といい、情報量といい、村上春樹は職業的な音楽評論家の域におられるように感じる。世界のクラシック音楽界の状況についても、驚異的な詳しさ。しかし、それでいて、「ずぶの素人」のインタビューになっている。知識をひけらかしている嫌らしさが、ない。これだけ知識を、しかもときに世界のクラシック音楽界の頂点、中心にいる小澤さんの知らないことまで紹介しながら、それでもその知識が嫌みになっていない。小説家という芸術家として、小澤征爾と対談されているからであろう。 村上春樹という人は、小説と、音楽(ジャズとクラシック)に対してもつ同じ鑑賞力で、ほかの芸術、たとえば邦楽(小唄や長唄や箏曲など)や、絵画や、舞踏や、演劇や、映画や、写真を、制服していきたいと思わないのだろうか?というか、いろいろな分野の芸術に対して、みずからがもつ鑑賞力というか「眼」を、均等化させておきたいと、思わないのだろうか?あるいはすでに、どの芸術分野についても、そのような均等に深い「眼」をもっておられるのであろうか?あるいは、禁欲されているのか?そんな疑問がふと湧いた。 −−− やばい。執筆に戻らないといけない。 |




