旦さまと私

お城や歴史、音楽、美味しいモノが大好きブログ♪

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Meet The 本多忠勝 In 大多喜(2012年5月19日)

千葉県房総の小さな町・大多喜は徳川四天王・本多忠勝5万石の城下町。
天正18年(1590)家康の関東入封から関ヶ原の功で桑名に移るまでの11年間
はじめての城持ち大名としてここ大多喜を統治していました。
 
そんな大多喜、町には忠勝がいっぱい! 町おこしに一役買っている?
 
ゆるキャラももちろん忠勝モデルおたっきー 
今年4月に決定した生まれたてキャラ。兜には大多喜城と特産竹の子
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今回は町中の本多忠勝関連史跡を紹介しますね いざぁ出陣!
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大多喜駅前の観光本陣

大多喜駅前にある観光案内所。ウェルカムおおたきぃ忠勝がお出迎え。
『本多忠勝を大河にの署名もやっていました。大河にかぁ〜考えた事もなかったなけど、いいかもね
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忠勝とその娘で真田の兄嫁・小松姫。特産の竹で出来ています。
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忠勝の居城・大多喜城                        

模擬なのか復興なのか?の天守ですがシンプルでカッコイイ
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天守内では忠勝の兜体験(無料)が出来ます。かなり重いんですけど…
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駐車場にあるお食事処・与作で昼ごはんを。
大多喜名物・竹の子のお刺身初体験…竹の子でした(当たり前やんけ!)
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鹿肉の天ぷら鹿忠勝の兜にあやかってかぁ?
チャレンジャーるないきます!う〜む脂感が…脂ののったくじら肉…?
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行徳橋

夷隅川にかかる行徳橋はただの橋ではありませんよ…
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欄干?に忠勝像
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反対側にも忠勝像
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忠勝レリーフもありますよぉ。
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忠勝公園

忠勝の名前の小さな公園。物見台風の展望デッキから大多喜城が見えます。
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忠勝の菩提寺・良玄寺

忠勝菩提寺として僧・了学を招き開山。はじめ良信寺の名でしたが次男・忠朝大坂夏の陣で戦死すると跡を継いだ政朝忠朝の法名から良玄寺と改名。
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有名な肖像画はここ『良玄寺所蔵』ってなっているけど見せてくれるのかなぁ。
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この肖像画にまつわるエピソードを久留里城(なぜ?)で知りましたので紹介します。
 
関ヶ原以降は戦もなくなり本多正純ら文治派が重んじられ、忠勝武断派は疎んじられるようになっていきました 大多喜から桑名に移っていた老年の忠勝は自分が強かった事を後世に残そうと押入れの奥で埃まみれで眠っていた(本当?)甲冑を引っ張り出し、老体に鞭打って身に付け絵師に勇敢な姿を描かせました。強く見せるため怖い顔までして(笑)しかし忠勝の納得いく様な画がなかなか出来ず何枚も描き直させ、やっとOKが出たのが↑有名なこれです。
忠勝はこの画を大多喜の了学に贈り今に伝わると。
 
本堂は公開されていないのですが覗いてみると忠勝発見!!
すげぇ〜これって本物? 後で調べたら本物は大多喜城で保管だとさ…
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忠勝(中央)・忠勝夫人(右)・次男忠朝(左)のお墓
忠勝は慶長14年(1609)眼を患い嫡男・忠政に家督を譲り隠居。翌年桑名で
亡くなりました。遺言によりここ良玄寺に分骨され眠ります。
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墓所からは大多喜城が見えます。大多喜城に見守られて眠る忠勝ね。
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はじめての城持ち大名となって忠勝は気合いを入れて大多喜城を築き、城下町を
 
整備したのでしょうね。桑名に移った後も了学に肖像画を贈り、大多喜に眠りたいと
 
分骨を遺言して。きっと大多喜を愛していたんですね。
 
デッカク(大)、いっぱい(多)、喜ぶ 
 
以上、忠勝の愛の込もった町で忠勝に会う!記事でした。
 
 

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石田寺・土方歳さまのお墓は2つある?

先週・ひの新選組まつりでしたが、石田寺土方歳さまのお墓参りにも
 
行きました。
 
お馴染みの歳さまのお墓(右ね。左は土方家代々のお墓)
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こうして改めて写真を見るといい男だったなぁ〜
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お参りを終えて墓前で旦さまと話ていると…
 
「土方歳三の墓はここですよ」〜と新選組ファンの男の方に声をかけ
 
られました。
 
えぇ!?歳さまのお墓ってここじゃないの??
 
行ってみると確かに歳進院殿誠山義豊居士と戒名が刻まれたお墓が
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「あっちは新しい墓。本来の墓はここです。」
 
しかも墓石上部はいびつ。
 
ファンの方々がさすったり、なでなでして、こんな形になったのかな。
 
削って飲むと鬼の副長になれるとか?(笑)
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これには驚きでした。
 
調べてみると今のお墓は平成12年に立て替えられたそうで。
 
確かに真新しい現代風のお墓ですものね↑の老朽化のために立替えられ
 
たのですね。
 
函館で亡くなった歳さまの遺体は入ってないけど魂が眠るお墓。
 
一説には五稜郭などの土も埋葬?されているとか…
 
これからは新旧両方にお参りしなきゃね。
 
教えて頂いた新選組ファンの男の方に感謝です。
 
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速報〜ひの新選組まつりに爆破予告!!

今日は土方歳三の命日(5月11日)に合わせて毎年開催されている
 
ひの新選組まつりの日。
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しかし用事を済まし出かけられたのが11時くらい
 
お祭りは午前中からなので目的の隊士パレード状況を知ろうとツイッターをチェツ
 
ク。そうしたら…
 
会場に爆弾を仕掛けたとの不審電話があり、祭りは急遽中止!と。
 
えぇ!!爆弾!中止!とにかくビックリ。これ以上詳しい事が分から
 
ないし、立川まで来ていたし、とりあえず情報を得ようと歳三生家〜石田寺〜
 
高幡不動を巡りましたが話を聞く事が出来ませんでした。次ぎに向ったのが
 
駅前の新選組ファンの聖地的なお土産屋・池田屋
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ここでついに情報を得る事出来ました。
 
午前中にメイン会場のひとつ(市内色々な会場で行なわれている)である
 
野市民会館に「会館に爆弾を仕掛けた」不審者からの電話があり、
 
警察が来て市民会館と隣接した中央公園会場にいたみんなが一時避難。
 
いたずらかもしれないが、もしもの事を考えて午後のおりは中止なったと。
 
犯人は何が面白くてそんな事するのか!このお祭りのために一年間頑張ってきた
 
関係者や出演者、そして楽しみにしていたお客さん…
 
あぁ…悔しい&残念。しかも今回のパレードはお祭り史上最高の700人。
 
お店の方もその後どうなったかは分からないとの事…情報ありがとうございました。
 
高幡不動前で高幡まんじゅうを食しながら再びツイッターをチェックすると
 
日野駅周辺で規模を縮小した隊士パレードが行なわれていると。駅前は交通規制があるため車で入れないとマズイので新選組の
 
ふるさと歴史館で再び情報ゲット。駅前通りの会場で規模縮小したパレードと
 
各地の新選組によるパフォーマンスが行なわれている模様。でも終了時間が近ず
 
いているよ〜急げ!!
 
     爆破予告された市民会館は警察がいて立ち入り禁止
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駅前会場に到着。いるいる新選組がいっぱい!!
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結局見れたのは2組のパフォーマンスだけ。でもその後隊士とも写真撮れたし
 
楽しかったですよ。
 
今回の日野新選組にオーデションで受かった隊士の皆さま。
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    歳さま、永井さま。                    沖田さん。
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会津からも山本八重さん、中野竹子さん。  あ!照姫さまだぁ。
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中止と言われたのがどのような経緯で規模縮小、会場を変更して行なわれたかは
 
分かりませんが、関係者の熱意が警察を動かしたのかな?
 
              来年の開催を誓って勝鬨を!
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ネットニュースを見たらやっと今回の事件が載り出しました。
13日午前10時すぎ、東京都日野市の日野市民会館「ひの煉瓦(れんが)ホール」に男の声で「午後3時までに市民会館を2回爆破する」と電話があった。ホールや周辺では12日から「ひの新選組まつり」が開かれ、この日は約1万3千人が来場していたが、市は正午以降のイベントを中止した。警視庁日野署が威力業務妨害容疑で調べている。
 市や署などによると、10時25分と同34分にそれぞれ、50〜60代とみられる男の声で電話があった。来場者を避難させ、署員が館内などを調べたが、不審な物は見つからなかった。 (朝日新聞記事より)
 
爆破予告に負けずに最後まで頑張った新選組〜
さすがです!
 
そしてツイッターは便利だぁ。
 
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    みんな頑張ったなぁ、これからも新選組を頼むぜ!〜by歳さま。

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日尾城(2012年2月18日)埼玉県秩父郡小鹿野町飯田字城山

 日尾城の正確な築城年代は不明だが記録の初登場は永禄4年(1561)。小田原北条氏に対して管領上杉氏が整備したとある。その城は北条管轄となり鉢形城の支城として諏訪部定勝、定吉が城主となるが天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原役で鉢形落城に伴って廃城となったと考えられている。

日尾城縄張図(『秩父路の古城址』より)
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 麓の秩父31札所の観音院                  滝の水がツララに…
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 日尾城への登山道はこの
観音院の駐車場から沢伝いに進みます。登城の無事を
祈ってお参りしましょう
 
画像では分かりにくいのですが本堂の背後に滝があり、この日はチョロチョロ水。よく見ると滝の水がツララになっている箇所も…寒い日でしたから。
 
 
 
  
 伝いの道は途中から岩ゴロゴロの急斜面に変わります。
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頑張って岩を乗り越え牛首峠に到着。 自然地形を利用した大堀切!
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この↑堀切を上から覗いてみましょう。       ほとんど垂直です 
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三段になった平場ここが主郭との説もあります。
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平場上段の腰曲輪。笹ヤブをかき分け進軍。  三の郭切岸〜あれれ逆光
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主郭八幡郭とも言われています)
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石碑あります。                      土塁が残ります。    
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二の郭切岸
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        二の郭内                   三の郭内
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出郭へ向うため牛首塚へ戻る途中での眺望。主郭は眺望悪し
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出郭内です。右に土塁
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出郭南の堀切(城域最南端) ここの高低差も凄い!
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総評 ★★★★☆  (旦さま私見 ★4つ)

秩父最西端に位置する比高約300mの日尾城は甲斐武田家に対する後北条氏の
 
山城です。前から訪れたかったお城の一つですが、興味を惹いたのは女傑伝説
 
永禄12年(1569)武田軍の山県昌景が秩父に侵攻し日尾城に攻めて来ました。
 
しかし城主・諏訪部定勝は酒好きで、前日の客人のもてなし宴会で泥酔状態
 
これは困ったと奥さまが代わりに指揮をとり山県軍を追い払いました
 
酔いが醒め大いに反省し定勝は主君である北条氏邦に禁酒を近い、これ以降は真面目に
 
働いたとさ…おしまい。
 
奥さまが元祖・赤備え山県を撃退!…まさにホンマでっか!?伝説ですが、
 
酔いどれ亭主を持った名前も伝わらない奥さま♪ぶゆうでんでんででんでん♪
 
武勇伝です。
 
登山口にある観音院駐車場はまさかの携帯圏外 どんだけ僻地やねん!
 
心細いままの出陣です。途中バリ帰して一安心。
 
打ち首が語源らしい牛首峠岩盤堀切は規模はそこそこですが断崖絶壁で
 
圧倒されましたね。一番の見所かと 
 
山頂部は主郭、二の郭、三の郭、そして幾つかの腰曲輪を配置。
 
主郭三の郭に挟まれた三段になった平場主郭とする説もあります。広い
 
し、言われてみると…そうかも。すいませ〜ん素人なものでよく判りませ〜ん
 
牛首峠の南の尾根にある出郭もしっかり残っていますよ。堀切も凄い。
 
日尾城二の郭、三の郭、腰曲輪が多少?ヤブっている事を抜かせば
 
今期最後の山城訪問として満足感が得られたお城でした 
 

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栗橋城(2012年2月12日)茨城県猿島郡五霞町元栗橋

 栗橋城は北条氏照が北関東方面に攻め入る足場として、それまでの野田氏の持ち城であったこの城を拡張し、戦略拠点としたものです。五霞村城山は、当時の水運の便を考えるとどうしても必要だった考えられます。
 旧権現堂川を掘ったため、城跡は2つにわかれてしまったが、当地は、松本好司氏宅を中心に、北方に若宮八幡、愛宕権現を祀る社にあり、付近には、七曲りと称せられる、浅いところでは、3〜4メートル、深いところでは、10メートル位の空堀が現存しています。(図説・中世城郭事典+案内板より)

 
 
 栗橋城縄張り図(『図説・中世城郭事典』より転載) ピンク枠が残された
遺構部分。本が刊行されたのが1987年。2012年現在遺構部分はさらに
少なくなっているのが残念。
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道沿いで案内板発見。結構年代物で文字もかすれて読みづらいし…
今からおおよそ五百年前の室町時代、鎌倉の北条氏照氏が〜』と記されていますが、『小田原の
北条氏照氏が〜』正解かと。五霞町さん正確な案内板を新しくお願いします
イメージ 2
 
 
看板の道を進むと曲輪内の個人(たぶん地権者の松本さん)宅。勝手に入っては
ダメダメ。両脇がで、普通るなの立つ場所は土橋にあたりますがここは後世に設けられた通路です。
イメージ 11
 
 
↑の左の堀〜凄いヤブで底が見えません ↑右の堀は少しヤブで中々。
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法宣寺の墓地脇のから散策する事にしましょう。
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見事に残っているです〜見所 左の切岸内は松本さん宅がある曲輪
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本堂背後に続く
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↑の左側の曲輪はヤブヤブぅ〜
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↑を左に下りると広い幅の堀 見所
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↑に突き出ている巨大な土塁見所
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↑を下側に進むと祠のある曲輪。祠の背後に低いながら土塁が残ります。
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さらに進むと耕地に出ました〜耕地の向こう側から。
先ほどまで探検していたのが右の林。左の民家の微高地も曲輪跡と思われます。
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天然の要害・権現堂川〜この河川工事と耕地で壮大な栗橋城は現在の遺構
のみになってしまいました。
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総評  ★★★☆☆  (旦さま私見 ★3つ)

我が多摩地区を代表する戦国武将・北条テルテル(氏照)の持ち城だった
 
栗橋城。現在は一部しか遺構が残らないのですが、その一部が素晴らしい
 
整備されていないので散策と言うよりは探険でしたが…
 
案内板のある道を奥に進むと地権者の松本さん宅です。しかし、こここからの散策
 
出来ませんので法宣寺の墓地脇のからの突入になります。
 
何度かアップダウンがあり縄張り図を見ながらじゃないと迷子になってしまう感じ
 
の技巧的なお城です。さすがテルテル(笑) でもジャングル状態
 
高さもある巨大な土塁から堀底を見下ろすと折れ(七曲り)の一部も確認出来て、
 
往時には凄いお城だったんだなぁ〜と感じられますね。祠のある曲輪を抜けると開
 
け(ジャングルからの脱出成功!?)耕地に。耕地と権現堂川の間にもいくつもの曲
 
輪が配置されていたのですが今は民家ある微高地に面影を残すのみ。
 
真冬に訪れてもジャングルでしたので今の季節はさらに厳しそう…ご注意。
 
いつの日か残された貴重な遺構部分が保存整備される日が来ますように…
 
じゃなとモッタイナイですよぉ

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開設日: 2005/10/22(土)


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