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松下幸之助の志を継ぐ者たち
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内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策)
「新しい公共」 (少子化・男女共同参画)
政策調査会長
********************* 松下政経塾より以下転載***********************
![]() 創立者・松下幸之助は、「多くの問題が山積し、しかも時とともに混迷の度を増しつつある」と、敗戦の混乱から急速な経済成長を続け、世界から経済大国として認められつつある時に、すでにこうした警告を発していた。だからこそ、早急に政治を立て直し、指導者となる人材の育成が急務であるという松下幸之助の強い憂国の思いこそが松下政経塾設立の原点であった。
今年、平成22年(2010)は昭和55年(1980)に第1期生を迎えて以来ちょうど30年目にあたる。「時とともに混迷の度を増しつつある」という松下幸之助の警告はますます現実味を帯びてきている。この30年間で、塾を巣立っていった200名を越える卒塾生は、塾で培った「志」を原点に、政界はじめ様々な分野で必死に活動を続けている。
世界の荒波の中で、さらに日本が漂流している現状を鑑みると、いよいよ、松下政経塾の歴史的使命の真価が問われる時が近づいているように思う。歴史を顧みれば、困難な時にこそ人物は生まれる。時代が人物をつくると言ってもいい。今こそ、真の指導者、私心を捨てて日本を背負っていこうとするリーダーが求められている。
松下政経塾には専任の教員も大学院のようなカリキュラムもない。あるのは理想の日本や世界を実現しようとする熱い志のみである。よって「万物ことごとくわが師」として、世間という「現地現場」を教科書として、塾生は「自修自得」していかなければならない。小手先の政策やパフォーマンスでは一時の人気や支持は得られても、抵抗や困難を乗り越えて理想を実現することはできない。「腰をすえて素志を貫き、逆境に立ち向かってこそ、他の共鳴も得られ、道は開けてくる」。こんな思いを共有できる人に松下政経塾は協力を惜しまない。 塾頭メッセージ公に生きる実践者
一億評論家時代といわれる昨今、「世のため人のためになれ」と教育している親や教師は少数派となった感があります。リーダーの条件とは、自分の利益にならないことでもリスクを取って行動できること。言い訳をせず「いっさいの責任はわれにあり」とするような責任感のあつい人ではないだろうか。 どんな環境、境遇にあっても、「人を心から愛し、尊重し敬する心」(愛敬)をもって、自分を信じ、熱意をもって淡々と事に対処していけば、必ず道は開けてくるという信念をもって行動する。そこに松下幸之助は運も開けてくると説いています。真に自らの使命を自覚し、天地自然の理にしたがって行動するとき、天は必ず味方するのではないでしょうか。 自修自得 「自修自得の心意気のない人は、(塾に)何年いてもダメです。自分自ら悟る、自分自ら会得しようという意志がなければ、十年やってもダメです。半分の五年ではなおさらいかん。自分はこういうことをしたいんだということを明確にすれば、どういうことを勉強すればいいかは自ずとわかるはずです。」 塾が求める人材は、けっして学校の勉強ができる優等生ばかりではありません。塾での研修は教えられることをただしっかり覚えてテストでいい点を取るようなことではありません。実際、塾主は「頭のいい人だけ採るつもりはない」とも語っています。 何かちょっとした困難にぶち当たって、挫けてしてしまうような人も不適格です。やはり、バイタリティーや元気、前例を乗り越えて行ける勇気、そういうものを持っていないと、「先生がいない」塾での研修を全うすることも、いわんや社会の第一線でリーダーは務まりません。 謙虚と感謝 松下幸之助著『指導者の条件』において、百数項目にわたってリーダーの条件を挙げた中で最後に念を押すように重複して言及していることが、この謙虚と感謝ということです。
とかく人間は地位が高くなればなるほど傲慢になり独善的になりがちです。また、自然の恵みや人びとの恩に対して感謝の気持ちが薄くなれば、不平不満が起こり、他をも傷つけることになります。そして、「万物ことごとく我が師」として学ぼうとする心を失った時、その人の成長は止まります。 素直な心を持って学び続ける人は必ずと言っていいほど伸びていきます。素直に衆知を集め続けることのできる人こそ、松下幸之助の求めた人物です。 *******************************************************************
ちょこっと気になったのでメモしてみました。 (人物が、もれていたら指摘してくださいね。)
「世のため人のためになれ」
「いっさいの責任はわれにあり」
「人を心から愛し、尊重し敬する心」
「万物ことごとく我が師」
いい言葉ですねぇ〜
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2010年6月7日 現在 http://www.mskj.or.jp/sotsu/giin.html
衆議院議員(31)
参議院議員(3)
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日本政治再生を巡る権力闘争の謎(その1)=カレル・ヴァン・ウォルフレン2 【転載】
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官僚機構の免疫システム
明治以来、かくも長きにわたって存続してきた日本の政治システムを変えることは容易ではない。システム内部には自らを守ろうとする強力なメカニズムがあるからだ。一年ほど日本を留守にしていた(一九六二年以来、こんなに長く日本から離れていたのは初めてだった)筆者が、昨年戻ってきた際、日本の友人たちは夏の選挙で事態が劇的に変化したと興奮の面持ちで話してくれた。そのとき筆者は即座に「小沢を引きずり下ろそうとするスキャンダルの方はどうなった?」と訊ね返した。必ずそのような動きが出るに違いないことは、最初からわかっていたのだ。
なぜか? それは日本の官僚機構に備わった長く古い歴史ある防御機能は、まるで人体の免疫システムのように作用するからだ。ここで一歩退いて、このことについて秩序立てて考えてみよう。あらゆる国々は表向きの、理論的なシステムとは別個に、現実の中で機能する実質的な権力システムというべきものを有している。政治の本音と建前の差は日本に限らずどんな国にもある。実質的な権力システムは、憲法のようなものによって規定され制約を受ける公式の政治システムの内部に存在している。そして非公式でありながら、現実の権力関係を司るそのようなシステムは、原則が説くあり方から遠ざかったり、異なるものに変化したりする。 軍産複合体、そして巨大金融・保険企業の利益に権力が手を貸し、彼らの利害を有権者の要求に優先させた、この一〇年間のアメリカの政治など、その典型例だといえよう。もちろんアメリカ憲法には、軍産複合体や金融・保険企業に、そのような地位を確約する規定などない。 第二次世界大戦後の長い期間、ときおり変化はしても、主要な骨格のほとんど変わることがなかった日本の非公式なシステムもまた、非常に興味深いケースである。これまで憲法や他の法律を根拠として、正しいあり方を求めて議論を繰り広げても、これはなんら影響を受けることはなかった。なぜなら、どのような政治取引や関係が許容されるかは法律によって決定されるものではないというのが、非公式な日本のシステムの重要な特徴だからだ。つまり日本の非公式な政治システムとは、いわば超法規的存在なのである。 政治(そしてもちろん経済の)権力という非公式なシステムは、自らに打撃を与えかねない勢力に抵抗する。そこには例外なく、自分自身を防御する機能が備わっている。そして多くの場合、法律は自己防御のために用いられる。ところが日本では凶悪犯罪が絡まぬ限り、その必要はない。実は非公式な日本のシステムは、過剰なものに対しては脆弱なのである。たとえば日本の政治家の選挙資金を負担することは企業にとってまったく問題はない(他の多くの国々でも同様)。ところがそれがあるひとりの政治家に集中し、その人物がシステム内部のバランスを脅かしかねないほどの権力を握った場合、何らかの措置を講ずる必要が生じる。その結果が、たとえば田中角栄のスキャンダルだ。 また起業家精神自体が問題とされるわけではないが、その起業家が非公式なシステムや労働の仕組みを脅かすほどの成功をおさめるとなると、阻止されることになる。サラリーマンのための労働市場の創出に貢献したにもかかわらず、有力政治家や官僚らに未公開株を譲渡して政治や財界での地位を高めようとしたとして有罪判決を受けた、リクルートの江副浩正もそうだった。さらに金融取引に関して、非公式なシステムの暗黙のルールを破り、おまけに体制側の人間を揶揄したことから生じたのが、ホリエモンこと堀江貴文のライブドア事件だった。 いまから一九年前、日本で起きた有名なスキャンダル事件について研究をした私は『中央公論』に寄稿した。その中で、日本のシステム内部には、普通は許容されても、過剰となるやたちまち作用する免疫システムが備わっており、この免疫システムの一角を担うのが、メディアと二人三脚で動く日本の検察である、と結論づけた。当時、何ヵ月にもわたり、株取引に伴う損失補填問題を巡るスキャンダルが紙面を賑わせていた。罪を犯したとされる証券会社は、実際には当時の大蔵省の官僚の非公式な指示に従っていたのであり、私の研究対象にうってつけの事例だった。しかしその結果、日本は何を得たか? 儀礼行為にすぎなくとも、日本の政治文化の中では、秩序回復に有益だと見なされるお詫びである。そして結局のところ、日本の金融システムに新たな脅威が加わったのだ。 検察とメディアにとって、改革を志す政治家たちは格好の標的である。彼らは険しく目を光らせながら、問題になりそうなごく些細な犯罪行為を探し、場合によっては架空の事件を作り出す。薬害エイズ事件で、厚生官僚に真実を明らかにするよう強く迫り、日本の国民から絶大な支持を得た菅直人は、それからわずか数年後、その名声を傷つけるようなスキャンダルに見舞われた。民主的な手続きを経てその地位についた有権者の代表であっても、非公式な権力システムを円滑に運営する上で脅威となる危険性があるというわけだ。 さて、この日本の非公式な権力システムにとり、いまだかつて遭遇したことのないほどの手強い脅威こそが、現在の民主党政権なのである。実際の権力システムを本来かくあるべしという状態に近づけようとする動きほど恐ろしいことは、彼らにとって他にない。そこで検察とメディアは、鳩山由紀夫が首相になるや直ちに手を組み、彼らの地位を脅かしかねないスキャンダルを叩いたのである。 超法規的な検察の振る舞い
日本の検察当局に何か積極的に評価できる一面があるかどうか考えてみよう。犯罪率が比較的低い日本では、他の国々とは違って刑務所が犯罪者で溢れるということはない。つまり日本では犯罪に対するコントロールがうまく機能しており、また罰することよりも、犯罪者が反省し更生する方向へと促し続けたことは称賛に値する。また検察官たちが、社会秩序を維持することに純粋な意味で腐心し、勇敢と称賛したくなるほどの責任感をもって社会や政治の秩序を乱す者たちを追及していることも疑いのない事実だろう。しかしいま、彼らは日本の民主主義を脅かそうとしている。民主党の政治家たちは今後も検察官がその破壊的なエネルギーを向ける標的となり続けるであろう。
日本の超法規的な政治システムが山県有朋の遺産だとすれば、検察というイメージ、そしてその実質的な役割を確立した人物もまた、日本の歴史に存在する。平沼騏一郎(一八六七〜一九五二年、司法官僚・政治家)である。彼は「天皇の意思」を実行する官僚が道徳的に卓越する存在であることを、狂信的とも言える熱意をもって信じて疑わなかった。山県のように彼もまた、国体思想が説く神秘的で道徳的に汚れなき国家の擁護者を自任していた。マルクス主義、リベラリズム、あるいは単に民主的な選挙といった、あらゆる現代的な政治形態から国を守り抜くべきだと考えていたのである。 一九四五年以降も、平沼を信奉する人々の影響力によって、さまざまな点で超法規的な性格を持つ日本の司法制度の改革は阻止された。ある意味では現在の検察官たちの動きを見ていると、そこにいまなお司法制度を政府という存在を超えた至高なる神聖な存在とする価値観が残っているのではないか、と思わせるものがある。オランダにおける日本学の第一人者ウィム・ボートは、日本の検察は古代中国の検閲(秦代の焚書坑儒など)を彷彿させると述べている。 日本の検察官が行使する自由裁量権は、これまで多くの海外の法律専門家たちを驚かせてきた。誰を起訴の標的にするかを決定するに際しての彼らの権力は、けたはずれの自由裁量によって生じたものである。より軽微な犯罪であれば、容疑者を追及するか否かを含め、その人物が深く反省し更生しようという態度を見せるのであれば、きわめて寛大な姿勢でのぞむこともある。このようなやり方は、法に背きはしても、刑罰に処するほどではないという、一般の人々に対しては効果的であり、いくつかの国々の法執行機関にとっては有益な手本となる場合もあるだろう。 しかしある特定人物に対して厳しい扱いをすると決めた場合、容疑者を参らせるために、策略を用い、心理的な重圧をかけ、さらには審理前に長く拘禁して自白を迫る。検察官たちは法のグレーゾーンを利用して、改革に意欲的な政治家たちを阻もうとする。どんなことなら許容され、逆にどのようなことが決定的に違法とされるのかという区分はかなりあいまいである。たとえば、合法的な節税と違法な脱税の境界がさほど明確でない国もある。ところで日本にはさまざまな税に関する法律に加えて、きわめてあいまいな政治資金規正法がある。検察はこの法律を好んで武器として利用する。検察官たちの取り調べがいかに恣意的であるかを理解している日本人は大勢いる。それでもなお、たとえば小沢の支持者も含めて多くの人々が、彼が少なくとも「誠意ある態度」を示して、謝罪すべきだと、感じていることは確かだ。 これなどまさに、非公式な権力システムと折り合いをつけるために要請される儀礼行為とも言えるだろう。儀礼の舞台は国会であり、また民主党内部でもあり、国民全般でもある。新聞各紙は「世論が求めている」などと盛んに騒ぎ立てているが、本当のところはわからない。しかも詫びて頭を下げ、あるいは「自ら」辞任するとでもいうことになれば、そのような儀礼行為は、実際には非公式のシステムに対して行われるのである。 体制に備わった免疫システムは、メディアの協力なくしては作用しない。なぜなら政治家たちを打ちのめすのは、彼らがかかわったとされる不正行為などではなく、メディアが煽り立てるスキャンダルに他ならないからだ。検察官たちは絶えず自分たちが狙いをつけた件について、メディアに情報を流し続ける。そうやっていざ標的となった人物の事務所に襲いかかる際に、現場で待機しているようにと、あらかじめジャーナリストや編集者たちに注意を促すのだ。捜査が進行中の事件について情報を漏らすという行為は、もちろん法的手続きを遵守するシステムにはそぐわない。しかし本稿で指摘しているように、検察はあたかも自分たちが超法規的な存在であるかのように振る舞うものだ。 訳◎井上 実
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日本政治再生を巡る権力闘争の謎(その1)=カレル・ヴァン・ウォルフレン【転載】
日本政治再生を巡る権力闘争の謎(その1)=カレル・ヴァン・ウォルフレン いま日本はきわめて重要な時期にある。なぜなら、真の民主主義をこの国で実現できるかどうかは、これからの数年にかかっているからだ。いや、それ以上の意味がある。もし民主党のリーダーたちが、理念として掲げる内閣中心政権を成功裏に確立することができるならば、それは日本に限らず地球上のあらゆる国々に対し、重要な規範を示すことになるからである。それは我々の住む惑星の政治の流れに好ましい影響を与える数少ない事例となろう。
しかしながら、それを実現させるためには、いくつもの険しい関門を突破しなければなるまい。国際社会の中で、真に独立した国家たらんとする民主党の理念を打ち砕こうとするのは、国内勢力ばかりではない。アメリカ政府もまたしかりである。いま本稿で民主党の行く手を阻むそうした内実について理解を深めることは、よりよい社会を求める日本の市民にとっても有益なのではないかと筆者は考える。 政権交代の歴史的意味
各地で戦争が勃発し、経済は危機的な状況へと向かい、また政治的な機能不全が蔓延するこの世界に、望ましい政治のあり方を示そうとしているのが、他ならぬこの日本であるなどと、わずか数年前、筆者を含め誰に予測し得たであろうか。ところがその予測しがたいことが現実に起きた。初めて信頼に足る野党が正式に政権の座に就き、真の政府になると、すなわち政治の舵取りを行うと宣言したのだ。だが、民主党政権発足後の日本で起こりつつある変化には、実は大半の日本人が考えている以上に大きな意味がある、と筆者は感じている。
まず現代の歴史を振り返ってみよう。第二次世界大戦に続く三〇年に及んだ輝かしい経済発展期が過ぎると、日本は目標を見失い停滞し始めた。自分たちの生活が改善されているという実感を日本の人々は抱くことができなくなった。日本の政治システムには何か重要なもの、これまで歩んできた道に代わる、より希望に満ちた方向性を打ち出すための何かが、欠落しているように筆者には見えた。一九九三年のごく短い一時期、行政と政治的な意思決定が違うことをよく理解していた政治家たちは、日本に政治的な中心を築こうと改革を志した。しかしそのような政治家はきわめて少数であり、行政サイドからは全く支持が得られなかった。ただしいい面もあった。彼らは同じ志を持つ相手を見出した。そして後に政権の座に就く、信頼に足る野党の結成へと動き出したからである。 九三年、日本社会にも新しい意識が広がっていった。これまで長く求められてはいても実行されずにいた抜本的な改革が、実現可能であることがわかったからだ。以来、影響力のある政治家や評論家、ビジネスマンたちは、機会あるごとに、抜本的な政治改革の必要性を訴えるようになった。 小泉純一郎が大方の予想を裏切る形で自民党の総裁に選ばれた際、それがほぼ実現できるのではないかと、多くの人々は考えた。ところが、首相という立場ながら、セレブリティ、テレビの有名人として注目を集めた小泉の改革は、残念ながら見掛け倒しに終わった。結局のところ、日本の政治に、真の意味で新しい始まりをもたらすためには、自民党も、それを取り巻くあらゆる関係も、あるいは慣例や習慣のすべてを排除する必要があることが明らかになった。 チャンスは昨年八月、民主党が選挙で圧勝したことでようやく巡ってきた。そして九三年以来、結束してきた民主党幹部たちは、間髪を入れず、新しい時代を築くという姿勢をはっきりと打ち出したのだった。 民主党が行おうとしていることに、一体どのような意義があるのかは、明治時代に日本の政治機構がどのように形成されたかを知らずして、理解することはむずかしい。当時、選挙によって選ばれた政治家の力を骨抜きにするための仕組みが、政治システムの中に意図的に組み込まれたのである。そして民主党は、山県有朋(一八三八〜一九二二年、政治家・軍人)によって確立された日本の官僚制度(そして軍隊)という、この国のガバナンスの伝統と決別しようとしているのである。 山県は、慈悲深い天皇を中心とし、その周辺に築かれた調和あふれる清らかな国を、論争好きな政治家がかき乱すことに我慢ならなかったようだ。互いに当選を目指し争い合う政治家が政治システムを司るならば、調和など失われてしまうと恐れた山県は、表向きに政治家に与えられている権力を、行使できなくなるような仕組みを導入したのだ。 山県は、ビスマルク、レーニン、そしてセオドア・ルーズベルトと並んで、一〇〇年前の世界の地政学に多大な影響を与えた強力な政治家のひとりとして記憶されるべき人物であろう。山県が密かにこのような仕掛けをしたからこそ、日本の政治システムは、その後、一九三〇年代になって、軍官僚たちが無分別な目的のために、この国をハイジャックしようとするに至る方向へと進化していったのである。山県の遺産は、その後もキャリア官僚と、国会議員という、実に奇妙な関係性の中に受け継がれていった。 いま民主党が自ら背負う課題は、重いなどという程度の生易しいものではない。この課題に着手した者は、いまだかつて誰ひとり存在しないのである。手本と仰ぐことが可能な経験則は存在しないのである。民主党の閣僚が、政策を見直そうとするたび、何らかの、そして時に激しい抵抗に遭遇する。ただし彼らに抵抗するのは、有権者ではない。それは旧態依然とした非民主主義的な体制に、がっちりと埋め込まれた利害に他ならない。まさにそれこそが民主党が克服せんと目指す標的なのである。 明治時代に設立された、議会や内閣といった民主主義の基本的な機構・制度は、日本では本来の目的に沿う形で利用されてはこなかった。そして現在、政治主導によるガバナンスを可能にするような、より小さな機構を、民主党はほぼ無から創り上げることを余儀なくされている。これを見て、民主党の連立内閣の大臣たちが手をこまねいていると考える、気の短い人々も大勢いることだろう。たとえば外務省や防衛省などの官僚たちは、政治家たちに、従来の省内でのやり方にしたがわせようと躍起になっている。 彼らが旧来のやり方を変えようとしないからこそ、ロシアとの関係を大きく進展させるチャンスをみすみす逃すような悲劇が早くも起きてしまったのだ。北方領土問題を巡る外交交渉について前向きな姿勢を示した、ロシア大統領ドミトリー・メドヴェージェフの昨年十一月のシンガポールでの発言がどれほど重要な意義を持っていたか、日本の官僚も政治家も気づいていなかった。官僚たちの根強い抵抗や、政策への妨害にてこずる首相官邸は、民主党の主張を伝えるという、本来なすべき機能を果たしていない。民主党がどれだけの成果を上げるかと問われれば、たとえいかに恵まれた状況下であっても、難しいと言わざるを得ないだろう。しかし、旧体制のやり方に官僚たちが固執するあまり、生じている現実の実態を考えると、憂鬱な気分になるばかりだ。 ・・・・・続く・・・・ |
いま、この国を思う (住職のひとりごと)【阿修羅より転載】
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http://www.asyura2.com/10/senkyo87/msg/851.html 投稿者 明るい憂国の士 日時 2010 年 6 月 06 日 22:46:53: qr553ZDJ.dzsc
植草一秀の『知られざる真実』「トラックバック」より
それまでの政権は国民の付託を得ていないということもあろうが今回の鳩山政権は衆議院の総選挙で文句なしの大勝利のもとでの本格政権であっただけに惜しまれる。もちろんまだ民主党中心の政治は続くものの一つの政権が滅びたことには違いがない。新聞、テレビ、週刊誌は、昨年末には既に辞職という言葉まで登場して鳩山おろしに専念したかのような報道が目立った。国民がこぞって声援した政治家、それをもとにする政府を正当にその政策立案の業績を評価の対象ともせずに、まるで重箱の角をつつくような仕方で些細なことをスキャンダラスにまくし立て批判し、こけおろし、微罪を極悪非道の所行の如くに誹謗を繰り返す。
意味のない世論調査を繰り返し、あたかも国民総意で支持しないということを喧伝する。政治と金の問題では、検察からのリークをあからさまにして、何の後ろめたさも見せない厚顔無恥ぶりで居直る。国民の代表を、期待を集める政府を侮り、侮蔑し、あたかも能力が劣るとの報道を繰り返し、自国の政府を貶めるということの意味をも理解しない者たちは、単なる亡国論者、国を安く見積もって身売りせんがための所行とも言える。なぜ悪口しか書けないのだろうか。前政権までの官房機密費の使途をめぐって、マスコミ関係者に有利な言論形成に使われたとする事実が出てきても全く反省の色も見せないジャーナリズムのあり方こそ質されるべきではないか。
普天間問題では鳩山首相にはかなりの圧力があったことと拝察します。在韓米軍の撤退を表明した韓国の前大統領は非業の死を遂げた。ポーランドの首脳はなぜか航空機事故で多く死せねばならなかった。タイは全くの混迷の状態に置かれて久しい。中川元財務相はなぜ死ななくてはならなかったのか。先頃の韓国潜水艦沈没事故の影響も拭えない。国益を第一に押し切ろうとするところにこうした思わぬ死がともなう。この世の中のあり方に愕然とする。
鳩山首相の所信表明演説、また、施政方針演説の全文を私は読んだ。これまでの官僚の作文を朗読した歴代首相の演説に比べ、そこにはご自身の心があるように思われた。政治は理想と現実の綱渡りであろう。理想も語れないのなら政治家になる資格はない。官僚主導から政治主導へ。従米からの脱却。生活者第一の予算編成。無駄の削減。 惜しむらくはそれを現実のものとするためのスタッフ、技法にすぐれなかったことであろう。ないしは、それを阻止せんがための大国に巣くう管理者たち、その威を借りこの国の中でその利権のために暗躍する名士と言われる各界の人々、その中には官僚も司法検察もマスコミも含まれるであろう、それらの人たちの長年のネットワークを打ち破るのはやはり並大抵のことではなかったということであろう。
政治なんか誰がやっても一緒という観念を植え付け、政治に無関心を決め込む国民が多ければ多いほど彼らにとって都合が良く、どれだけ無駄な税金の使い方をしても、他国に流れてもお咎めなしの体制を作ってきた。昨年の総選挙で今度こそと思って政治を変えようと思った人たちが、これで落胆し、また傍観を決め込むことだけはあってはならない。この度の鳩山首相の退陣はどのような背景から早期退陣に至ってしまったのかと疑問に感じ、新聞、テレビの報道を鵜呑みにせずその背後を読み取り、日本を一つの国家として、あるべき姿に改革していくために今後も関心を持続することが、何よりも日本国に住む者の勤めなのではないかと思う。
仏教では四恩の教えを説く。父母、衆生、国王、三宝の四つに生まれながらに私たちは恩を感じるべきであるという。国王に対する恩、国を守り人々の生命と財産を守る国王に私たちは恩義がある。それが誰を指すものかと言えば実質的なこの国の最高権力者ということになろう。目に見えない、この国にあるものかも分からない者を国王とするわけにはいかない。私たちにとっての国王を私たち自身が守る必要がある。本当に国民のために国を思う政治家をこれからも応援したいと私は思う。
追記 なお、日本の政治に関して『中央公論』4月号に掲載されたカレル・ヴァン・ウォルフレン氏の論文「日本政治再生を巡る権力闘争の謎」を是非ご一読願いたい。
http://seiji.yahoo.co.jp/column/article/detail/20100319-01-0501.html
転載終了
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