☆島巡りin志賀島☆
|
今日はあっちょむの一昨日と昨日のことについて書いていきたいと思います♪ タイトルにもあるように…今回は’島巡り’をしてきました(^^) まず家を8時に出発♪車で3号線をひたすらまっすぐ走るε=ε=ε=(o^-^)o 途中で道がわからなくなって迷ったけど…なんとか無事に着きましたね♪ みなさんもご存じかもしれませんが…志賀島はこれが見つかった所♪ 金印発掘について 天明4年(1784年)2月23日志賀島のお百姓さん2人が田の溝を作り直していると大きな石が出てきたので、これを「かなでこ」で掘り外したところ、石の間に光るものを見つけました。 お百姓さんたち(発掘者についての節)は、それをひろいあげ水ですすいでよく見ると均整な印鑑のようなものであったため、その田の持ち主である百姓「甚兵衛」のところへこれを持っていきました。 甚兵衛は今まで見たこともないような物品なので、甚兵衛はその兄が以前奉公していた福岡の画商を訪ねそれを見せたところ、金色に輝いていて重いので「これは純金にちがいない鋳つぶして武具の飾りにでもしたら」とのことになったようです。しかし、この画商と親しくしていた儒学者亀井南冥(かめいなんめい)がこれを見て、印面に掘られている「漢委奴国王」の5文字から、さきの後漢書の記事がピンときたようです。これこそ「後漢の光武帝が倭奴国の使者に賜った印綬」であろう・・というわけで金印はたちまち街中の話題になったとのことです。そして、「そんな貴重なものは早速お役所に差し出せ」ということになりました。そこで、当時の志賀島村庄屋武蔵は「志賀島村百姓甚兵衛申上る口上之覚」という甚兵衛の口上書一札とともに郡役所に届け出たのです。 ところが、亀井南冥は金印を自家の宝物にしようと思い、郡役所に15両で買いとりたいと申し出たが許されなかったので、それでは100両出そうといいました。そのため郡役所はたいそう驚き、さきの甚兵衛口上書を添えて黒田の藩庁にまで届け出ました。 藩庁では直ちに亀井南冥ほか修猷館教授ら数名に金印の考証をさせるとともに、甚兵衛には白銀五枚を与えて金印を黒田家に収めました。それ以来、黒田家の家宝として庫裡深く所蔵されてきました。 ☆色々な説☆ 「王宮説」… 王宮の跡だろうとの説 「墳墓説」… 倭国王のお墓だろうとの説 「隠匿説」… 当時日本国内が乱れたので、隠したのだろうとの説 「遺棄説」… 日本を漢の属国扱いにした不届きな印は棄ててしまえというわけで海に棄てたのだとの説 ここからは写真でお楽しみ下さい♪ ↑これは志賀島の地図です♪ ↑綺麗な海でした!!玄界灘かな? ↑地震で被害のあった玄界島です!! でも本当に綺麗な所でした!!
|

すご━━━━い゚ヾ(✿✪ฺ ∀✪ฺ)ノ゚.:。+゚きれいきれい〜〜〜〜〜〜ヾ(*´∀`*)ノキャッキャ♪
2006/9/25(月) 午後 9:19 [ mak*a*a_*inn*e00 ]
金印は中学校の時に歴史の授業で見た気がする!
2006/9/25(月) 午後 10:15
りっちゃん>綺麗でしたよ(^^)
2006/9/25(月) 午後 10:25
zonoさん>歴史の授業ではみるでしょうね!!いいところでした!!
2006/9/25(月) 午後 10:27
これ見たことあるような・・・無いような・・・お勉強嫌いな子でしたのでねヾ(;´▽`A``アセアセww癒されるねぇ。。こういう所(´ ▽`).。o (うっとり)
2006/9/26(火) 午前 11:59 [ さぁやん ]
さあやん>みたはずです(笑)でもこの場所には癒されましたよ♪
2006/9/26(火) 午後 8:03