紅花の肥料と栽培
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使用カメラ PENTAX K-100D
撮影地 山形県 米沢市 ㈱新田
今回、若様に質問したかったこと。
「紅花の肥料と栽培について」
米沢の新田さんで「紅花摘み」をした時に「紅花は肥料喰いだからなぁ」というお話をしていただきました。
土地がやせてしまうので連作は出来ないそうです。
江戸時代の栽培には人糞や鶏糞の肥料が使用され耕作地も少しづつ移動しているようです。
これはきちんと調べてまたご紹介しますね。
何故この質問をしたかったかというと
藍染の展示会でやはり肥料喰いで連作できないと言われる藍の栽培。
四国の阿波が藍の一大産地となったのは「四国三郎」と呼ばれた吉野川の氾濫により肥沃な土が運ばれて連作が可能だったためと習いました。
確かに肥料無しで藍を連作できることは藩の財政を豊かにしてくれましたが洪水によって田畑を流される農民はたまったものではないと。
紅花栽培地で言えば思い当たるのは最上川。
松雄芭蕉が「五月雨を集めて速し最上川」と詠んだ急流の大河です。
でも、氾濫して大変だったという話はあまり聞いたことがないですねぇ。
山形市内を流れる支流の馬見が崎川の氾濫で田畑が流されたという話など無いわけではありませんが毎年決まって氾濫する川では無いと思っていました。
この違いは阿波を治めていた蜂須賀氏が藩の財政の為に「藍の栽培」をしたのに対し
山形の紅花は最上藩が奨励はしたものの領主がしょっちゅう変わったり幕府直轄の天領地が点在したりで商人主導で比較的緩やかな栽培が行われた名残のようです。
このあたりは山辺や寒河江のうちの親戚のほうが詳しいだろうから今度山形へ行った時に古い資料とか残ってないか聞いて調べてみよう。
江戸時代の紅花の栽培の中心は私の両親の出身地、寒河江市や山辺だったのです。
船で最上川を下って酒田の港を出て京都大阪で染料を売りそれを京都の紅染め職人がきものにする。
それが明治時代に外国産や化学染料に押されて栽培が途絶えました。
現在、「紅花染め」があるのは㈱新田の三代目故新田秀次さんと奥様の冨子さんの努力によるものです。
本来は後染めの染料だった紅花を機織の名手であった冨子さんと二代目の奥様のお力を借りて紬に取り入れ
現在の「紅花つむぎ」という新しいきものが誕生しました。
新田さん以外でも紅花を染める染織の工房も増え今では「紅花=紬」のイメージが定着していますが
まだ50年立っていないお話なのです。
残念ながら私は「紅花の神様」新田秀次さんにお会いしたことはありません。
ちょうど私が初めて新田さんの黒の紅花紬を購入した年の暮れにお亡くなりになったのです。
亡くなる前に、若様が学院祭で私の着姿を撮って下さった写真をご覧頂いて喜んでくださったと伺いました。
心からのご冥福をお祈りしております。
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