いつか光が射すように

アスベスト疾患の悪性胸膜中皮腫で亡くなった父の闘病記です

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終わりに

労災の認定もまもなく正式におりるであろう今日この頃。

これで父の、突然に始まった闘病と死を超えての労災手続きは終わる。

思えば、事が始まってまだ1年にも満たない。
去年の今頃は…、とまだ生きていた父の様子を思い出しながらの日々だ。

年末年始を(床に臥しながらも)最後に迎えた約1年前。
父は得意料理のもつ煮を作ってくれた。
病状が進み、相当に辛かったであろう体に無理をして、
「(お正月)恒例のもつ煮を楽しみにしてるから」と
私達のために師走の街で買い込んできて作ってくれた。

相変わらず美味しくて、寝ている父に「やっぱり美味しいよ!」と声をかけると
「そうか、良かった」と
目を瞑ったまま細い声で答えてくれた。
父は一口も食べることはなく。

深刻な事態に陥っていることすら知らず、心配はしつつも呑気にしていた頃。
主人の、
「お義父さん、早く元気になってもつ煮の作り方伝授してくださいよ」
という言葉に薄く笑ったまま、
今ではそれも叶わなくなってしまった。

たくさん作られたもつ煮を、お土産で持ち帰り冷凍保存した。
そのうちの最後の一つは、まだ我が家の冷凍庫にある。
労災がおりたら、私達と母と妹の4人で食べよう、と思っているのだ。

きっと長く冷凍したため味が変わっているであろう父のもつ煮。
解凍して食べてしまったら、もう永遠に食べることはない。そう思うとやはり淋しい。


先日、主人の祖母が大往生で亡くなった。
その際のお坊さんのお話が、私に微かな光を与えてくれた気がする。

 亡くなった方とまたあちらで再会したとき
 あれからたくさん楽しい良い思い出を作ったよ、と
 きちんと報告できるよう
 遺された者は生きましょう


これから私は、まだまだ身近な大切な人々を見送るかもしれない。
自分の番が来るまで、取り返すことの出来ない気持ちを
孤独にたくさん重ねていくのだろう。
そんなことばかり考えて、心から笑うことが減った私も
このお坊さんの言葉に微かな光を見出せた。
たとえ「あちら」なんて存在しなかったとしても。
私の報告を笑って聞く父の姿を想像するのは悪くない。

このブログを始めたとき、真っ暗な海に放り出されたようだと書いた。
無邪気だった頃のように、眩しい光がまた射し込む日を探して綴った。

同じ光はもう二度と顕れないだろう。
実は同じ光なんていつもなかったのかもしれない。
だから、微かでも感じた光なら、それを大切に辿っていくべきなのだろう。




このブログを、
同じような状況におかれ苦しみ悲しむ人々や、
偶然にして興味を持ってくれた人々、
そして、
父と
私の家族と、
失われた幸せに包まれたかけがえのない私の日々に捧げます。

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労災認定

特に目に見える進展もなく、認定の言葉を待つ日々が続いていた。

そして先週。実家の母へ書類が届いた。
そこには、労災給付金の決定支給額と振り込み予定日を告げる書類、
確認と手続きのため監督署に出向くようの通達があった。

まだ仮ではあるが、労災の認定がおりたということらしい。

担当者からあらかじめ電話でその旨の報告があるとか、
まずは認定を告げる通知が届くとか、
そんな経緯を予想していただけに、母も私もあっけない印象をもった。

母は近々、監督署に行き手続きを行うという。

待ちに待った認定。一見高額な金額に安堵感に似た気持ちもあるが、
これは父の命と引き換えの値段。

額面ではなく、生きていて欲しかったと気持ちを思いなおす。

しかし、現実として残された母が暮らしていく保証でもある大切な金額だ。
「父が遺してくれた」と思うことが正しいのだろう。


手続きがすめば、お世話になったアスベストセンターへも報告するつもりだ。

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保留

もうすぐで父が亡くなってから、半年になる。

色んな人が気持ちが落ち着くまでの期間のことを、
「半年は無理」とか「私は1年かかった」とか教えてくれる。
なかには、「いつまで経ったって無理」と言う人もいる。

今の正直な私の気持ちはこうだ。

父が亡くなったことは、もう仕方ないからいい。
どうせ人はいつか死ぬんだし、そのいつかを自ら決めることは稀少だ。
遺された者は、受け入れようともがき苦しむ。
それすら人間であり、少なくとも自分以外の家族を持つ身としては当然なのだ。
だから、もう、いい。
どうせ、死んだ人は帰ってこないし、時間も戻らない。

私に残された疑問と課題は、たぶん、
それでも生きる意味を問うことと、
父の末期状態の様子で占められてしまう心のケア、だと思う。

自分に向かって「心のケア」とか言うのは、
甘ったれた響きがするように思えて、どうしても馴染めないのだが、
これも仕方ない。認めざるを得ないかもしれない。
なぜなら、父との良い思い出や楽しかったシーンを思い出していても、
すぐに最新で最後である末期の様子が生々しくそれらを掻き消してしまい、
自分の顔が歪むのすらわかる時がある。
夜の場合、ひどくなると不眠が続く。これは母も同じであることが判明した。
日中であれば動悸が起こったり、手に汗をかいたりする。
明らかに身体に影響が出ているわけだ。
さらに、抜け毛もひどく、元々髪が細く薄い傾向の私でも、
合わせ鏡でギョッとするほど薄くなっているのがわかる。
こちらは、もしかすると、半年前の極限の精神状態の影響なのかもしれない。

そして、多かれ少なかれ、こういった諸々を抱えながらも、
経験者はみんな日常生活を過ごしているのかもしれない。
だったらこれも、人間である以上仕方のないことなのだろう。

次に、
生きる意味なんて、これまた大げさで青臭い響きだが、
私にとっては毎日の大きな課題になってしまった。
いかに死ぬかより、いかに生きるか、というような言葉をよく耳にするが、
果たしてそのいかに生きたかの延長にあり、
本当の意味で最後である死に方を次点にすることはできるのだろうか。
というより、これらは別に分けられるものでなく、
表裏一体の一つのモノなのではないだろうか。
さらに、生き方はともかく自分で納得のいく死に方を選べる人がどれくらいいるのだろうか。

それがいつなのか。その方法はどうなのか。
終末期のデータを集めた読み物を最近読み耽っているのは、それを少しでも多く知りたいからだ。
しかしどうやら今のところ、夢も希望も吹き飛ばす悲しく残酷な現実が大多数のようだ。
たぶん、父のように。


もし、死者と話が出来たとして、
「あんな死に方は不本意だったけど、まぁ、それまでの人生が良かったから良しと納得する」
と聞けたなら話は別である。
しかし、これは実際に不可能だ。
オカルト的解釈も含め、のこるは遺された我々が第三者的に勝手に決めるしかないのである。


生きる意味に悲観しているわけでは決してなく、
真剣に生きる意味を知りたいだけだ。非常に冷静かつ事実的に。
しかし、これも私が生きている立場である限り、限界がある。
きっと解り得ない。

だから、これまで私が信じてきた死後の世界やら、見守るという先祖の世界、
「信じない」と断言するには、それらを実証するかのような出来事もあるので苦しいのだが、
これら遺された者への希望的憶測、または癒し的憶測は、
しばらく保留にしておこうと決めた。少なくとも私的には。



こういう次元の話(いわゆる死後はあるかどうか、など)が出た時、
父はよくこう言っていた。

「俺ぁは、死んだことねーからわかんねぇ」

その通りだよ、お父さん。
だから、今は死んじゃってわかるんでしょ?
じゃぁ、教えてくれないかなぁ?誰もきっと教えてくれないよ。

最近は、ずっとそんな風に思っている。

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労災手続き、その後

新盆も無事済み、気持ちはともかくとして、生活上は穏やかな日々が続いている。
労災の方も、ぼちぼちと動いている。

まず、7月上旬。
父のかつての職場(妹の現在の職場でもある)に労災担当者と他数名が
訪れた。調査という名目ではなかったが、現場の写真を撮るなど
一応現場把握であったことは間違いないらしい。
特に父の申請については触れられることなく終了。
会社側も「挨拶」という認識だったようだ。

そのわりには、ピリピリと張り詰めた空気が数日前から漂い、
本社から現場への普段以上の細かい指示などもあったらしい。
さらに、当日妹は他所の事務所へ「手伝い」として出張させられた。
席を外せということらしい。
しかし、現場には父と共に働いていた職人がまだ数人いる。
事情を良く知る彼らは、妹に当時の詳細な報告をしてくれている。
この隠しようもない証人達は、この日の様子を遠巻きに観察し
後にそれを妹に教えてくれた。

8月に入り、労災担当者より実家の母へ電話が入る。
父の職歴や病気のこと、今回の申請のことなどを聞くインタビューの申し出だ。
これまで経験された方の情報通り、申請者であり配偶者である母一人だけの
マンツーマンによるインタビューだ。
非常に重要なステップだし、何より進捗が実感できる。
所要時間はおおよそ2〜3時間ほど、26日に出向くことで決まった。


8月26日。

仕事で実家方面へ戻れない私は、夕方に電話で報告を聞く。
インタビューはそつなく終了。実際は1時間半程度だった。
これまでの書類などを再度読み直したり確認したりしていた母は、
スムースに面接をこなしていた。
父の職歴、仕事に関する出来事など、病気が発症してからの様子や、
現在の家計のこと、母の収入なども聞かれたようだ。

母曰く、担当者も非常に親身で好感が持て安心できたらしい。
驚いたのは、7月に事業所を訪れた際の話だ。
現場で撮った写真を数枚見せてくれたという。
「おそらく、書類の内容からするとご主人もこのような作業をされていたと思いますので」
写真には、宇宙服のような大げさな防塵作業服を着込んで働く人々が写っていた。
母が、
「えぇ…。でも主人の時はこんな格好しているとは聞かなかったです」と
率直に言うと、担当者は、
「はい。これは多分、我々を意識してのことでしょう」
と苦笑いしていたという。

このやり取りで母は、「監督署は全部わかってる」と思ったらしい。
父の当時の実態も、きっと理解してくれて報われると思う、と
電話での母の声は明るかった。

まだ受給は決定していないが、おおまかな金額、そして受け取り方(一括と分割がある)の
説明がさらにあったらしい。
帰りがけにその担当者は、
「アスベストは時間がどうしてもかかるんです。
 我々もなるべく早く安心できるよう努力しますので、
 大変だと思いますがもう少し時間をください」
と言ったという。

9月上旬。

監督署から封書が届き、受給決定した際の金額の受け取り方の希望をハガキで
返信して欲しいとのこと。
分割は年金式で2ヶ月に1度の支給、5%の利息(?)がつくという。
担当者もしきりにこの分割を勧めていたらしい。
さらに、一括となると分割に比べて支給に若干時間がかかる、とも。
決定から1年以内であれば、受け取り方法は変更できることになっている。

相談された私達も母も、いわゆる「国のやること」に快諾できないが
とりあえずオススメの分割を希望することになった。

9月14日現在、亀の歩みのごとく遅い労災申請は、
それでも徐々に進んでいるのであろう。

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死亡後の労災手続き

労災の手続きは、先月ようやく監督署に申請し「申請中」となった。


この準備が非常に大変で苦労することは周知の事実。
しかも当然のことながら、当事者(我が家では父)の状態が変化するにしたがい
書類や手続きが増える。

これまで(http://blogs.yahoo.co.jp/makinko_3/4252185.html)は
あくまで父が存命中で「療養中」の申請書類だ。
死亡後は以下の申請が加わる。

・遺族補償年金支給請求書(様式第12号)
 業務災害のため「遺族補償」となる。ちなみに通勤災害では「遺族給付」と異なる。

・葬祭料請求書(様式第16号)

さらに、ややこしいことが加わる。

父の場合診察の経緯で労災と判断されているため、
それまではその療養費を国保を使用して払っている。
この国保負担分を一度清算し、労災として申請し直す必要があるのだ。
(国民保険でなく労災保険を適用するため)

・療養の費用請求書(様式第7号)

この手続きが何とも一番厄介だ。
まず、保険の自己負担(病院窓口での支払い)以外を一度国へ返納する。
その領収をもって書類とともに労災申請をし、療養費を請求するのだ。
もちろんかなりの高額になる。
その返納手続きは、国保の場合市役所で行う。

事業所、病院、役所、そして監督署。
それぞれの手続きや書類記入のために何度も足を運ぶことになるのだ。
そして当初は思いもよらない高額な費用負担。
一時的とはいえ、高額の金銭負担はそれだけでも重圧となる。


揃えなければならない書類も複数多数になり、病院から書類が戻るのに2週間はかかる。
これが労災申請手続きの現状である。

聞く話によると、これら難解かつ至極面倒な手続きに、
労災申請自体を諦めてしまう家族遺族も多いらしい。
それもたやすく想像できるではないか。
窓口は開かれ、以前よりは格段に親切にわかりやすくなったとはいえ、
一般的にはまだまだ険しい道に変わりはないようだ。

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