ただ見る 2
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隅の少女
弱気な久我氏は酔うとなかなか愉快なやんちゃ坊主である。その晩も彼は旗亭(きてい)を出るなり、ダンスだダンスだと、きかなかった。不断が弱気の久我氏だけに、酔った時の彼の意に逆うことは私達には出来なかった。
「ホールは厭だな。」と誰かがいうと、 「K倶楽部を見に行かない?」とその会員になったばかりの少壮代議士がいった。 何式というのか、とにかく統一のとれた建築の内部は、やはり整然とした、感じだった。三階の舞踏室では老年に近い壮年の紳士達が、此処でだけはさも自信がなさそうに、インストラクターに曳きずられて歩き廻っている。 「あれは今度函館から出た、―」 「H君は政友会だろう。」 「政友会も民政党も此処では、―」 「ダンスはインター・ナショナル、―インター・パーティーかな。」 だが酔った久我氏はK倶楽部其物の圧迫から早く逃れたいらしかった。彼はとうとう其処では一踊りもせず、円タクを捕えて、フロリダだといった。 ―芥(ごみ)、芥、芥。 先ずぴんと来た感じはそれだけだった。いったい何人の二間が、―肺臓に故障のある私は、空気の善悪に対してだけは、ひどく敏感だ。いったい何人の人間が、何本の脚が、―ちょうどインターミッションだったので、ずらりと並んだダンサーの脚が、ホールの壁の腰張りに見えた。罷業の理由の一つに数えられただけあって、ずらりと並んだ脚も真に夥(おびただ)しい感じだったが、がらんとした踊り場のこちらにうようよしている男達の夥しさは、それとは段違(ダンチ)といってよかった。 “Broadway Mrelody”が始まった。うようよしている男達の中から一人が勇敢に進み出ると、又一人、あとはどやどやと、―壁の裾に残されたダンサー達の顔には、期待と不安とがこんがらかっている。彼女等を拾いに行く男は、見物にとっても救いだ。 久我氏は同行の映画女優瑤子君を切(しき)りに口説いていた。「ブロードウェイ・メロディー」は既に半ばに達している。 「ね、瑤子さん。」 瑤子はしぶしぶ久我氏に従った。だが久我氏は踊り場に入るや否や、瑤子を口説いたことなどは忘れてしまったらしかった。彼は男達のうようよの中でまごついている瑤子の方は一顧もせず、まだ壁の裾に残っているダンサーの一人にレゾリュートな歩(あゆみ)を向けた。 今度は振袖の断髪と久我氏が得意そうにタンゴを踊っている間、芥を吸うことに稍(やや)慣れた私は、ダンサー達の髪や服装やプロポーションなどを仔細に観察していた。仔細に同時に辛辣に、―こんな汗臭い雰囲気の中で、何で彼女と彼女と彼女とはスウェターなど着ていなければならないのか。およそ美的でないスウェターを。スウェターのダンサー、これも確かに復興東京の異観の一つであるのには違いない。―
だが何という労働、臭い労働、―私の嗅覚は男の体臭や口臭よりは寧ろ機械油や汽船の臭気を堪え易く感じる。それに一回八銭とは、―私は思わず手廻りのものを一回のダンスの報酬で割ってみていた。 靴下 五〇回 靴 四〇〇回 手提 五〇〇回 手袋 二〇〇回 帽子 二〇〇回 ペティコート 一〇〇回 イヴニング・ドレス、外套に到っては、換算の限りでない。私は茫然とした。茫然とした私の目に、彼女等のお粗末なワン・ピースや田舎臭いスウェターは、決してもう見にくいものではなかった。すると私には、ロー・ネックのぴらぴらしたドレスをつけ、誇りげに踊っている二三のスターが不思議に思われ出した。其数を八銭において、彼女等は食べなければならない。寝なければならない。着なければならない。一枚のドレスの背後には、いったいどれだけのいたづきと、どれだけのやりくりと、どれだけの屈辱とが隠れているのであろう。私は既に Spleen Tokioの中にあった。 曇った私の目はふと一点に止って、そして一杯に見開かれた。無心な下ぶくれの顔、鏝(こて)一つあててない頭髪、セーラー型の旧式なスェター。彼女はさっきからあの目立たぬ隅に坐ったままだったのだ。ダンサーの見習いか、彼女は男達の目にとまらないばかりでなく、朋輩のダンサー達からもてんで相手にされていない。孤独なダンサー。彼女の伏せた顔には、待ち設ける気持が微塵も出ていないだけ、好感ばかりが持てる。 「久我クン、久我クン。」 私は人目を惹くことも忘れて思わず大きな声を立てた。きょときょとと近付いてきた久我氏に、私は是非あの少女と踊ってやってくれとせがんだ。 臆しがちに立上がった少女は、少しの遊び気もなく、習った通りのステップを踏んでいた。ダンス振りまで楚々たる感じだ。私は何か涙に似たものを呑み下しながら、彼女がいつまでもあのスウェターを着ていてくれればいいと思った。 次に行った時隅の少女は、―それを書くことは十九世紀の巨匠達に委(まか)せておくことにしよう。私は、―私は昨日ダンス・ホールのマネージャーをしていた伊沢さんにふと偶った。伊沢さんは私の兄の同窓で、女と聞いただけでも涎を垂しそうな男だった。
「愉快だったでしょうね、貴方のことだから。」 「皮肉なものですよ。女達をずらりと前に並べて、僕が訓示を与えるのですからね。」 「聞きたかったわ。」 「新時代のダンサーたるものは、よろしく職業的自覚をもって、―すると不良組が僕の方に秋波を送るのですよ。こいつ僕の弱点を知ってるのかとひやひやしましたがね。実は向うは純然たる職業意識でやっているのですよ。マネージャーさえ抱きこんでおけばとね。大きな誘惑でしたよ。大きな誘惑だった証拠には、僕はとうとう、―新聞では御覧でしょう?」 「しかしダンスはお上手になったでしょうね」 「どうやらチャールストンの出来そこないぐらいはね。」 「チャールストンよりシミーの方が貴方には、―」 「ぴったりし過ぎているので却って気がさして踊れませんよ。」 別れる時私は彼に、若しフロリダに行くようなことがあったら、あの隅の少女と踊ってやってくれと頼んだ。だがもう彼女はあの隅には坐っていないに違いない。そしておそらくはもうあのスウェターも脱ぎ棄ててしまったに違いあるまい。今は、それに、スウェターを羽織る季節でない。 |

