Manasseh_0001の天幕

遠く地の果てまですべての者が神の救いを見た

「こうして生きる者となった。」(創世記2・7)

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今日は、聖霊降臨の主日です。
 
クリスマスがイエスさまの誕生を祝う祭日なら、
聖霊降臨は教会の誕生を祝う祭日ですから大きな喜びですよね(^^♪
皆さんのブログを読んでいると、
どうやらカトリック以外の教派は聖霊降臨をあまり大きく取り上げていないようなのですが…
使徒継承教会としての誇りを持っているカトリックの性格を改めて感じたりします。
 
また、今日のミサで堅信の秘蹟を受ける人は多いでしょう。
堅信を迎えた皆さん、おめでとうございます!
 
この日、祭服の色は赤です。
赤は血の色、燃える信仰の炎の色のイメージで、
赤の祭服を用いるのは、主の受難、殉教者の祝祭日がほとんどです。
聖霊降臨に赤を用いるのは、
「炎のような舌が分かれ分かれに現れ」(使徒2・3)からのイメージだと思います。
 
 
 
説教を聴いてなるほどと思ったのは…
 
聖霊降臨は、教会の誕生です。
創世記で人間が生まれたときのことを思い出してください。
まず土で形を作り、それに神が命の息、つまり霊を吹き込むことによって、
人は「生きる者となった」とあります。
 
「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。
人はこうして生きる者となった。」(創世記2・7)
 
教会が生まれたときも、これと同じです。
教会の形となるものはもっと前からありましたが、
神の命の霊をいただくことによって、教会は生きるものとなったのです。
これが聖霊降臨のできごとです。
 
 
 
…という話でした。
 
確かに教会の原形のようなものは、聖霊降臨のできごと以前からあったようです。
使徒言行録1章を読むと、使徒たちを中心に、
イエスの兄弟たち、婦人たちが集まって熱心に祈っていたとあります。
 
しかし、それだけでは「教会」の誕生には至りませんでした。
神の命の力、真理をことどとく悟らせてくださる聖霊を与えられて始めて、
弟子たちはイエスの愛を、なりふりかまわず、殉教覚悟で証する者へと造りかえられ、
「教会」へと発展していったのです。
 
 
 
こころに留めておきたいことがもう一つ。
 
天の「御父」は、
わたしたちに一人一人に「聖霊」を与えて力付けてくださっているだけでなく、
「キリストの体」をも与えて養ってくださっているということです。
 
命のパンと聖霊とをリアルにいただいて生きることは、
何という恵みでしょうか!
 
来週は、「三位一体の主日」です。

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わたしを愛しているのなら

25日の金曜日。
お勤めされている皆さんにとっては、ワクワクな感じでしょうか(笑)?
わたしは、毎月のことながら、夫に感謝です…。
 
さて、今日のミサの福音書の朗読箇所はこちらです。
 
 
 
「食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、
『ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか』と言われた。
ペトロが、『はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです』と言うと、
イエスは、『わたしの小羊を飼いなさい』と言われた。
二度目にイエスは言われた。『ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。』
ペトロが、『はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです』と言うと、
イエスは、『わたしの羊の世話をしなさい』と言われた。
三度目にイエスは言われた。『ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。』
ペトロは、イエスが三度目も、『わたしを愛しているか』と言われたので、悲しくなった。
そして言った。『主よ、あなたは何もかもご存じです。
わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。』
イエスは言われた。『わたしの羊を飼いなさい。
はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。
しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。』
ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、
イエスはこう言われたのである。
このように話してから、ペトロに、『わたしに従いなさい』と言われた。」
(ヨハネ21・15-19)
 
 
 
誰よりも愛していたはずのイエスを裏切ったという経験で、
ペトロは自分という人間の弱さを、痛いくらいに思い知らされたことでしょうね。
それでもイエスに向かって三度「愛しています」と答えることができたのは何故なのでしょうか?
わたしだったら、裏切っておいて、「愛しています」なんて答えられないんじゃないかな…。
そんなこと言えた口じゃないと、完全に自信をなくしてしまいそうです。
 
しかしペトロはイエスの問いかけに、三度とも「愛しています」と答えました。
イエスなら、とんでもない大失態をやらかしたこんな自分でも受けとめてくださると、
こころから信頼して疑っていなかったからなのでしょうか。
 
主を愛していますと答えたペトロに、イエスは、わたしの羊を飼いなさい、羊の世話をしなさいと託します。
ペトロが主を愛している、その愛によって羊を世話しなさいということでしょうか。
そうすると、イエスが最も重要だと言った二つの掟とリンクします。
つまり、「神を愛すること」と、「隣人を愛すること」という二つの掟です。(マタイ22・34-40)
主を愛しているのなら、その愛で主の羊を世話することができるはずだと…。
 
やはり二つの掟は密接につながっていますね。
主を愛していると言いながら、主の羊をいじめているようでは、話にならないと思います。
わたしはその話にならないことをいつもしているサイテーなヤツですが(T_T)
 
少しずつ、かわっていきたいなあ…。
 
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鈴♪

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JRはしばしば観光キャンペーンをやっているのでしょうか。
 
写真の左のものは、
数ヶ月前、三鷹駅で配られていたのを、わたしが貰ってきたものです。
青森県のゆるキャラ「いくべぇ」の縁起鈴です。
善知鳥(うとう)神社という由緒ある神社でお清めしてあるみたい。
 
右のものは、
数日前、東京駅で配られていたのを、夫が貰ってきました。
岩手県のゆるキャラ「そばっち」の鈴です。
わんこそばのキャラクターですね。
 
(実は「そばっち」の兄弟、「うにっち」には会ったことがあります。
 
あ〜また東北行きたくなってきたよ!!(笑)
 
 
 
神社の鈴…ということで思い出しましたが、
どうやらユダヤ教の祭司は鈴を鳴らしながら働いていたみたいな記述があります。
祭司の上着のつくり方について、こう指示されています。
 
「上着の裾の回りには、青、紫、
および緋色の毛糸で作ったざくろの飾りを付け、その間に金の鈴を付ける。
金の鈴の次にざくろの飾り、金の鈴の次にざくろの飾りと、上着の裾の回りに付ける。
アロンが聖所で務めをするとき、この上着を着ける。
それは彼が中に入って、主の御前に出るときにも、立ち去るときにも、
鈴の音が聞こえるようにして、死を招くことがないためである。 」(出エジプト記28・33-35)
 
神によって立てられた正式な祭司だけが、
滅ぼされることなく聖所に入って神に奉仕することができますから、
そのしるしとして鈴の音が鳴るように、ということなのでしょう。
 
 
 
カトリックのミサでは、
パンとぶどう酒の聖変化のときに、鈴が鳴らされます。
 
大きな聖堂で、うしろの方の席にいると、
祭壇のようすは見えず、司祭の声は届かない場合がありますが、
鈴が鳴らされると、いま聖変化したなと分かります。
そして、イエスさまの御からだと御血に礼をするわけです。
 
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そういえば、
神社で参拝するときには、御賽銭を入れて鈴をガランガラン鳴らすと思いますし、
仏教には、ポクポクやったあとに、チ〜ンと鳴らすものがあったと思います。
(名前や意味を知らないので;)
 
鈴は、いろいろな宗教で用いられているようですね。

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イエスの名によって祈る、とは

わたしたちは日常的に、イエスの名によって祈っています。
「主イエス・キリストによって。アーメン」と唱えて祈りを閉じることをよくします。
わたしの名によって祈りなさいとイエスが仰った(ヨハネ16・23-24)通りにしているわけですが、
そもそも、イエスの名「によって」祈るとは、どういう意味なのでしょうか?
 
 
 
先週、おもしろい話を聞きました。
 
日本語で祈る場合にはイエス・キリスト「によって」と唱えていますが、
「によって」と言うと、イエスの名を使ってという「手段」を表しているかのように感じられます。
ところがここの前置詞は、言語によってさまざまに違っているのだそうです。
 
たとえば英語で祈る場合には、「in the name of Jesus Christ」のように「in」、
あるいは、「through Jesus Christ our Lord」のように「through」という語を用います。
in」ならば、イエス「の中で」祈る、
through」ならば、イエス「を通して」祈る、といったイメージでしょうか。
 
フランス語、スペイン語、ラテン語などの場合を見てみると、
英語の「by」とか「to」とかいう意味を持った語が登場するそうです。
によって」とか「のために」とか「に向かって」などといったニュアンスの語です。
 
一口に「イエスの名によって祈る」と言っても実際は、
一言に凝縮しきれないほどの広い意味を持っているのではないかと…
 
「イエスの名によって」祈ることは、
「イエスに向かって」「イエスの中で」「イエスを通して」「イエスの範囲内で」「イエスのために」祈る、
といったような、実に幅の大きな意味を持った行為であるということでしょうか。
 
 
 
もうひとつ、別のところでもおもしろい話を聞きました。
主の「名」とはどういう意味か、ということです。
 
聖書を読むと、「主の名をみだりに唱えてはならない」(出20・7)とか、
「主という名を宣言する」(出33・19)とか、
重要な場面に、「名」という言葉を使った独特の表現がよく登場してきます。
 
名には、そのものの本質が込められているのだ。
名を唱えるとは、自分がそのものの権威を利用することだ。
などと解説されますが、
 
正直、よくわからん。わかりにくい(T_T)
 
というのがわたしの本音でした。
しかし先週、以下のように説明されて、モヤモヤが吹っ飛びました。
 
「名という概念は、日本人には分かりやすいと思いますよ。
わたしの母にとって、『三越』という名は絶対でした。
必ずよい品を提供してくれるはずだ、という信頼だったのでしょうね。
『三越』という名に対する信奉ということですね。」
 
と説明されて、目からウロコ〜!!
 
別に三越じゃなくても、何でもいいのですが、
ブランドの名に対する信奉。信頼。
確かにありますよね。
○○の商品なら絶対大丈夫、と信頼して選んで買います。
実に分かりやすいと思いませんか。よく日本人はブランド好きだと言われますしね…
 
「主の御名を信じる」とか、
「主の御名によって祈る」とかいうことも、これと同じことなのでしょう。
この御方をあてにすれば絶対大丈夫だろうという確信。
それが、主の御名により頼むことだと思います。
 
 
 
三越のたとえ話には思わず笑っちゃいましたが、実に納得でした。
イエスの名によって祈る、とはどういうことなのか。
普段ロクに意識せずに慣習化してしまっていますが、改めて考えさせられる機会となりました。
 
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金環日蝕

横浜は、朝7時ごろまで雨が降っていました。
ミサのあと聖堂を出ると、雨はやんでいましたが、ドンヨリ重い曇り空。
 
あまりの曇りっぷりに、日蝕は完全にあきらめていましたが、
家に向かって歩いている途中、
足を止めて空を見上げている人たちが結構いたので、
「こんなに曇っているのに」と思いつつ、つられて同じようにすると、
 
金環になっている一瞬だけ、
雲が裂けて太陽が姿を現わしました!!
 
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※わたしが撮影した写真ではありません
 
バッチリ見ましたよ〜!!
金環日蝕!!
 
昨夜バッグに忍ばせておいた日蝕メガネを取り出して観察しました。
 
またすぐに雲が太陽を隠してしまいましたが、
いちばん重要な場面が見られたので大満足でしたヽ(^o^)丿
 
本当に太陽が黒くなるんですね!!
日蝕は生れて初めて見たので、感激しました。
金環日蝕のあとも、たまの晴れ間に、しばらく部分日蝕を楽しむことができました。
左下が欠けていましたね。
 
神秘的〜。
 
 
 
皆で立ち止まって空を見上げ、日蝕を見ながら、
わたしはつい、昨日のミサの聖書の箇所を思い出してしまいました。
 
「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。
あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、
天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」
(使徒言行録1・11)
 
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日蝕メガネ、あってよかった。
 
 
もう、すっかり、まんまるの太陽に戻ってしまいました。
次に日蝕が見られるのはいつかな?

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主の昇天(祭日)

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今日は「主の昇天」の祭日です。
 
早いもので、イエスさまのご復活から40日が過ぎました。
主は、いよいよ世にいる弟子たちの元を去り、
天に上げられて御父の御元に戻られ、その右の座にお着きになります。
 
 
 
実は「主の昇天」は、わたしにとって重要な祭日なのです。
 
わたしは洗礼を受けてすぐに、
引っ越ししなければならなくなってその受洗教会を離れました。
洗礼を受けた2日後に、県外の教会に移りました。
まあ、珍しい話ではないと思います。
洗礼式が行われる復活徹夜祭は毎年3月下旬〜4月上旬にあたりますが、
年度がかわる時期、引っ越しシーズンなんですよね。
 
しかし長い間お世話になった教会を、
やっと洗礼まで漕ぎ着けた、これからだ、というタイミングで去るのは、
非常に寂しいことでした。
 
それでも、復活節の間はまだ、よかったのです。
復活なさったイエスさまが、自分のすぐ近くに共におられるということを強く感じていたので、
寂しさはあっても、平気でいられました。
そこにやってきたのが、「主の昇天」の祭日です。
今まで、復活なさったイエスさまがすぐ近くにおられるから寂しくなかったのに、
あろうことか、そのイエスさまが、いなくなってしまった!
 
あのミサのときは…寂しくて泣くほどでした。
神父さまに泣きつくほどでした(苦笑)
 
その、次の年。
 
堅信の秘蹟を受けることになりましたが、
なんと、それが「主の昇天」の祭日におこなわれるということでした。
堅信式は聖霊降臨のミサにおこなわれるのが一般的ですが、
司教さまの都合でその一週間前になったそうで…。
前の年には「イエスさまがいなくなって寂しい」と泣いていたその祭日に、
今度は、堅信の秘蹟によって神さまとの絆を更に強めることになったのです。
神さまのお計らいを感じずにはいられませんでした。
 
堅信については、こちら。
 
 
 
…こういうわけで、
「主の昇天」の祭日はわたしにとって、個人的に思い入れが強いのです。
 
今年の「主の昇天」のミサは、
実は昨日の夕方、所属教会とは違う場所であずかってきました。
聖書講座のあとにその神父さまのミサがあるので。
 
「イエスの昇天は、弟子たちとの『お別れ』なのではなく、
『聖霊による、より深い一致』のため、高いところに上げられたのです。」
と説教の中で言われたことがこころに残っています。
わたしは身を以って体験させられたので、本当によく分かります。
世の時間・空間に縛られない霊的なあり方でこそ、わたしたちは本当に主と一致できるのです。
 
 
 
わたしが今回の聖書朗読箇所を読んで面白いと感じたのは、
復活なさったイエスが弟子たちに、
「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。 」(マルコ16・15)
と言っているのに弟子たちは、
「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか。」(使徒言行録1・6)
と尋ねている点です。
 
イエスは全世界の救いを考えているのですが、
弟子たちはまだ自分たちの国、自分たちの救いのことしか考えていません。
主が天に上げられ、御父の御元から「真理を悟らせる霊」を送ってくださったときにはじめて、
弟子たちは主のみこころを本当に理解し、そのために働くようになったのですね。
 
来週は、「聖霊降臨」の主日です。

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東京砂漠

今日は、聖書講座を聴きに、電車に乗ってお出掛け。
普段ヒキコモリ的な生活をしている身なので、
ちょっと疲れました(今眠いです)が、非常に充実していましたヽ(・∀・)ノ♪
 
長くなり過ぎるので内容の詳細は書けませんが、
ひとつだけ笑った話を。
 
 
 
マタイ14・13-21に、
イエスが「人里離れた所」で男5000人の飢えを満たす奇蹟が物語があります。
「人里離れたところ」という語は、「荒れ野(砂漠)」とも訳される語です。
 
昔イスラエルの民は神に導かれ、
神に食べ物、飲み物を与えられつつ荒れ野を旅しながら、
自分たちのいのちの糧をくださるのは誰なのか、
自分たちは誰に生かされているのかを、体験によって学ばされました。
 
マタイがこの奇蹟を通して伝えているように、
そこにイエスがおられるならば、
「人里離れた所」でも、人は飢えを満たすことができます。
普通は人間のいのちを寄せ付けない「荒れ野」という所であっても、
そこにイエスがおられるならば、わたしたちが生きることができる所に変えられるのです。
 
豊かな生活をしている現代のわたしたちは、飲食に困って飢えることはありません。
しかし心の中には、満たされない部分、飢えを感じている部分があるはず…
その飢えを満たしてくださるのが、イエスの愛なのです。
 
現代社会も、精神的には、「荒れ野(砂漠)」と言っていいでしょう。
かつて、東京砂漠という言葉がありました。
東京は物質的には豊かだけれども、人の心はどうかと…
 
 
 
…という話です。
笑えました。
 
東京砂漠とは何とも、面白い表現ですね。
 
確かに、現代社会に生きることは、精神的な荒れ野に生きることだと思います。
飲食には飢えないけれども、愛には飢えています。
自分を肯定してほしくて飢えています。
居場所がほしくて飢えています。
 
神さまが自分を愛してくださっていることに気づく者は、幸せです。
どんな厳しい状況にいても飢えませんから。
 
明日は主日。
東京砂漠を生き抜くために、神さまの御言葉を頂きましょう。
カトリックは「主の昇天」の祭日です。
 
(それにしても四旬節の40日は長く感じますが、
復活節の40日はあっという間!)
 
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イケメンヽ(*´∀`)ノ♪

きのう、
受洗教会の神父さまからお便りがありました。
 
(もう復活から40日も経ってるぞ〜
もう昇天だぞ〜)
 
なんて細かいことは気にしないことにして。
嬉しいじゃないですか♪
 
イースターカードの絵柄を見てビックリヽ(゚Д゚;)ノ!!
 
いつもの「普通にいかにもキリスト教という感じの絵柄」ではなかったのです。
それがこちら!!
 
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※写真をクリックすると拡大して見られます。
何故かデカ過ぎるのですが;
 
斬新です(*゚Д゚*)
 
現代的というか、女性的というか、先進的というか。
見たことのないタイプのイエスさまです。
 
カラフルでキレイですね。
 
わたしは普段、
古くからのイコンや伝統的なキリスト教美術ばかりに目が慣れていて、
今こういうイエスさまのイラストのカードが売られているとは、
まったく知りもしませんでした。
 
どこで手に入るんだろう?
 
わたしの教会には売店があって、
いろいろな種類のグリーティングカードが並べられていますが、
こういう斬新なタイプの絵柄のは見たことがありません;
「普通にいかにもキリスト教」なのばかりです。
 
顔をアップで。
 
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なかなか、
イケメンじゃないですか?
 
古くからの伝統的なキリスト教美術も好きですが、
こういう新しい雰囲気のイラストも素敵で、
いいものですね。

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「主よ、ごもっともです。」

今日は特別なミサにあずかりました。
 
カトリックでは伝統的に5月は「聖母月」と呼ばれています。
詳しくはこちらのページを。
 
今日のミサは特殊で、
実はわたしにはよく分からなかったのですが、、、
聖母を強く意識したミサのようでした。
 
 
 
「先程カレンダーで確認したところ、今日は主のご復活からちょうど40日。
海外では今日『主の昇天』の祝いをしています。
日本では日曜日に移していますから、今度の主日ミサが『主の昇天』の祝いです。」と司教さまは仰いました。
 
わたしの推測では、
キリスト教国ではない日本では、「主の昇天」は休日ではなく、
木曜日に「主の昇天」のミサをささげるならば多くの信徒は出席できないわけですから、
日本では日曜日に移しているのでしょう。
カトリックの典礼は各国の個性やら事情やらに柔軟に合わせることが可能です。
 
 
 
さて。
長い説教(司教さまの説教は長いことが多い)の中で、
わたしが特に大切なことだと感じたお話をひとつ紹介します。
 
 
 
わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、
わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。』
(一ヨハネ4・10)
 
あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。
(ヨハネ15・16)
 
信仰においては、主客の転倒が起きます。
人間は、自分を主体とした考え方になってしまいがちですが、
『わたしが』ではなく、『主が』という生き方に向かっていかなければなりません。
 
ところで、わたしたちは祈るときにも、自分が主体になっていないでしょうか。
自分の思い描いている通りに救いが実現されること、
自分のイメージ通りに願いが叶えられること、
ついそればかり熱心に祈ってしまうのではないかと思います。
 
カナンの女性の信仰を見てみましょう。
(マタイ15・21-28)
 
この異邦人の女性は、
『わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない。』(マタイ15・24)
と言われてイエスに自分の願いを拒絶されます。
そのあとに続く会話を読めば、
子犬だとかパン屑だとかいう表現に注目がいってしまうと思いますが、
本当に注目すべきだとわたしが思うのは、
この女性がイエスに願いを拒絶されたときにまず、
『主よ、ごもっともです。』(マタイ15・27)と答えている点です。
 
『救い主として、あなたにはあなたのお考えがあるのでしょう。』ということを、
まずは素直に受けとめているのです。
 
わたしたちも、祈るときには、
神さまには神さまのお考えがあるのだという点を忘れずに、
主の御心を受けとめられるようでありたいと思います。」
 
 
 
というお話です。
 
司教さまが仰っていた通り、
わたしもカナンの女の話を読むときは、子犬とかパンとか言う部分に気を取られて、
「主よ、ごもっともです。」という部分は完全に見落としていました;
実はここが、重要だったのですね。
 
確かに神さまに祈っても、願っても、思い通りに行かないことは沢山あります。
しかし、それでめげてしまってはいけません。
人間には神さまの御心は完全には分からないのです。
厳しい答えでも、「主よ、ごもっともです。」と受けとめられる信仰者でありたいと思いました。
 
さしあたっては苦しくても、
いつか必ず、
時が満ちれば救ってくださるのだと信じて…。
 
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「合理性」という誘惑

昨日の聖書の勉強会で、
こころに残っているお話をもう一つ。
 
 
 
イエスさまは宣教活動の初めにヨハネから洗礼を受けられ、
荒れ野で断食して祈る修業をなさいましたが、
飢えを感じられたイエスさまにサタンが語りかけます。
「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」(マタイ4・3) と。
 
腹が減ってるなら、食べればいいじゃん。
 
もっともなこと、当たり前のことです。
確かに、空腹なら食べればいいじゃないか、とは実に合理的です。
 
しかし、断食の意味はそういうことではありません。
神さまに苦しみをささげ、苦しみの中で自分と向き合うこと、苦しみを通して神さまと出会うこと。
そういうところに断食の意味があります。
 
現代人は、合理性にばかり走り過ぎているのではないでしょうか。
苦しみを避けたいと思うばかりに、
苦しみにだって何か意味があるということ、
苦しみの中にだって神のわざがあるということを、忘れているのではないでしょうか。
合理性という誘惑に簡単になびくと、危険ではないでしょうか。
 
 
 
と言うことです。
 
苦しいこと、面倒なことをとにかく避けたがり、
合理的なこと、便利なこと、ラクすることを夢中になって追及している…
現代社会には確かにそういう面があると思います。
 
「苦しみにも神のわざがあるはずだ」
「苦しみにも意味があるはずだ」
ということは考えず、ひたすら人間の都合を行っています。
 
思えば原発事故、終末医療の問題などは、
人間が合理性に向かって暴走し過ぎた結果なのかもしれません。
 
世の中、何もかも合理的に、効率的に、ムダのないように、自分の思い通りに、、、
なんて上手くはいかないものです。
ムダなこと、苦しいこと、イヤなことが多い毎日…
しかしすべてに神さまの働きがあり、意味があるのではないでしょうか。
 
合理性は、ときに、危険な誘惑になります。
非合理的な、不条理なできごとの中にこそ神のわざが隠れているかもしれません。
 
イエスさまが十字架の苦しみを耐え忍ばれたように。
 
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夫と散歩中、
公園の桜の木の下に、
かわいらしい赤い実がたくさん落ちているのを発見。
思わず拾い集めてしまいました。
甘酸っぱい香りがします。
桜の実。

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