La vita e bella

前のことを、たらり・たらりと書いています。ニューイヤー・コンサートのことすら書いていなかったこの怠慢さ…。

99年夏・スロヴァキア滞在記

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99年夏、スロヴァキアの首都・ブラティスラヴァに滞在しサマースクールに参加しました。終了後はブダペスト、ウィーンに寄って帰ってきました。
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ザルツブルク

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ブダペストに二日滞在したあと、ウィーンに宿を取りザルツブルクへ。

駅からひたすら街の中心へ向かって歩いていくと見えてきた見えてきた。
よくテレビで映るザルツァッハ河畔の風景だ。

川の手前にはまず一番目の要所、カラヤン生家がある。今では庭にカラヤン
の銅像が立っているそうだがこの当時は壁に「カラヤン生家」と書いた
プレートがあるだけだった。

川を渡りいよいよザルツブルクの中心へ近づく。途中、「サウンド・オブ・
ミュージック」でドレミの歌のシーンが撮影されたミラベル庭園を通る。
映画のままの花が沢山咲いた綺麗な公園だった。

ザルツブルクの中心の通りはすっかり観光地で、言ってしまえば土産物屋
ばかりだが活気に溢れている。ちょっと前、カラヤンの命日にベルリン・
フィルが「レクイエム」を演奏した大聖堂前の広場にも多くの人が集まり
談笑している。祝祭大劇場やモーツアルト生家にも沢山の人が来ている。

ザルツブルクで絶対に行きたかったところ、それがカラヤンの墓だ。

既にいくつかの記事で書いてきたがカラヤンは僕にとってクラシックへの扉
を開けてくれた恩人なのだ。

カラヤンに惹かれてクラシック音楽の世界に足を踏み入れた僕。一度でいい
からカラヤンの指揮姿を見てみたいと思ったのだが、既に亡き人だった。
本当に、わずか数ヶ月前に他界していたのだ。あと3年でも早く生まれて
いれば、カラヤンをリアルタイムで見れたのかもしれない。それだけに僕
カラヤンに対する思い入れは強くなったのだろう。

ザルツブルクからバスに乗り、郊外のアーニフにやってきた。ここの切り
たった崖のようなところに、小さな教会がある。聖堂の前を通り小さな
礼拝堂のそばにカラヤンの墓を見つけた。本人の遺志により名前の彫られた
墓石に十字架が立っているだけの質素なものだった。

この下にあのカラヤンが眠っていると思うと不思議だった。10年のあいだ
ずっとあこがれてきたカラヤンその人に、ようやく会えたような気がした。
ザルツブルクから持ってきた白いバラを供え無言でその前に佇んでいると、
70近い老紳士が通りかかり、”Zehn Jaren…”(=10年だね・・・)と僕に
囁いて通り過ぎていった。

これが遠くザルツブルクの地で経験した spiritual moment だった。


〜スロヴァキア滞在記・終〜


<写真>
1.ザルツァッハ川から見たザルツブルクの街
2.カラヤンの生家
3.ミラベル庭園
4.モーツアルトの生家
5.祝祭大劇場
6〜7.アーニフにあるカラヤンの墓
8.カラヤンが最後に住んだ家

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ブダペスト

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ブラティスラヴァ最後の晩の酒と「ラ・マルセイエーズ」が体に残ったまま
食堂で最後の朝食をとる。

朝食のあと、部屋に戻ると仲の良かったスーダン人・アヌアがお別れの挨拶に
きてくれた。毎朝声をかけてくれていたインドの連中も一緒だった。ガッチリ
と抱き合い最後の別れを告げた。アントニオやニコラとも最後のお別れを。

彼らがいなくなったあと、涙が止まらなかった。

みなそれぞれの思い出を土産に寮を出て行った。

僕らはブラティスラヴァから電車でブダペストへ向かった。着いてみると
ブラティスラヴァと街の大きさがあまりにも違って驚いた。小さな街にすっかり
なれてしまった僕には、ブダペストが大きく感じた。ブラティスラヴァの色
が「白」という印象だったのに対しブダペストは「灰色」という印象だった。
大きく発展したこの街はすこし空気が汚く雑然とした印象だった。それでも
とても活気があり、歩いていて面白い街ではあった。

街の端には市民公園があり、その中の英雄広場にはたくさんの人が集まる。
池の周りでは座って本を読む人、昼寝をする人、それぞれの時間を過ごしている。
友達と3週間を振り返りただただ話し込んだ。

城塞や国会議事堂のある丘の上からの街の眺め、ドナウ川がとても綺麗だった
のを今でもハッキリ覚えている。


<写真>
1.フランツ・リスト音楽院
2.英雄広場
3.市民公園
4.鎖橋
5.ドナウ川
6.ハンガリー国立歌劇場外観

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はじまりはブラティスラヴァ。

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大学2年の夏、スロヴァキアの首都・ブラティスラヴァに一ヶ月滞在した。大学の先生の紹介を受け
現地の大学のサマースクールに通うためだった。

コメンスキー大学の "Studia Academia Slovaka" というそのサマースクールは初心者から上級者まで、
大学の寮で生活をしながらスロヴァキアの言語と文化を学ぶというもので、ヨーロッパを中心に
アフリカ、アジア、アメリカと世界中から学生・社会人を問わず100人以上が参加する。

毎日9時から3時までスロヴァキア語の授業を受け、それからスーパーで買い物、街を歩いてカフェ
でおしゃべり、寮に帰って食事を取り、授業の復習をしてから夜遅くまで酒を飲む。

僕のルームメイトはドイツ生まれのイタリア人・アントニオとフランス人・ニコラ。アントニオは英語
もドイツ語もイタリア語も話し大学で日本語もやっていたので簡単な言葉は日本語でも分かる。なに
よりホントに馬が合うのでここで初めて出会ったというのが嘘のように毎晩毎晩、外でワインを飲み
ながら自分の生活、勉強、恋愛、将来のことなど語り合ったものだ。ニコラはフランス語訛の英語が
独特。彼もいいヤツでよく酒や食べ物を持ってきてくれた。

アントニオの彼女・バーバラはブラティスラヴァの出身で、アントニオの大学の同級生。彼女は英語
が話せないのでコミュニケーションには苦労したが、彼女とも馬が合いもっともっと語り合いたい
友達だった。

スーダンとインドの連中はいつも「ジャパン、ジャパン、ハイテク、ハイテク」。

韓国の連中からはよく日本のアイドルのこと訊かれたり、ちょっと微妙だけど過去の話も…。
でもお互い親しみは強かった。

笑顔が素敵な台湾の大学の先生もいいひとだった。

スペインの連中は「ハイジ!ハイジ!」。スペインでは「ハイジ」が有名で僕を含め日本人はいつも
彼らのリクエストでハイジの歌を歌わされた。

一ヶ月のあいだ寮で寝食を共にし学校に通った仲間たち。こういうところに来るほどだから、みんな
時間がいくらあっても足りないくらい語り合った。本当に色んなひとがいた。みんなそれぞれの国が
あって、お互いの国のことにもの凄く興味を持って話をするんだけど、どこかで「同じヨーロッパ人」
みたいなものを感じていた。

最後の夜のパーティーで、みんなで肩を組んで「ラ・マルセイエーズ」を大合唱した。それがまさに
人のつながりとして「ひとつのヨーロッパ」を感じた瞬間だった。

みんながどこかでつながっているような、そんな感じがしたヨーロッパ。そんなところに妙な魅力を
感じたのだった。

そしてそれが、僕のヨーロッパへの入り口だった。


<写真>
1.アエロフロートの機材。「ラフマニノフ」と名前が付けられている。
2.学校の帰りにいつも寄っていた「カフェ・マイアー」
3.カフェのある中央広場
4.ルームメイトのアントニオ(中)とニコラ(右)
5.クラスメイトたち。インド・オランダ・スーダン・コンゴから
6.郊外にあるディェヴィン城
7.さよならパーティーで世界中からの参加者100人以上を巻き込んでの「炭坑節」
8.卒業式

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