あれから1年
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戦後○○年という言葉は死語になり、震災後○○年という言葉が、使われていくことでしょう。 あの日、偶然にも、ガソリンを満タンにして戻り、新事業に携わっていた。その話をしていたところで、地震に遭った。 今もなお、あの時間はよみがえってくる。 これまでの地震とは、はるかに違うことを感じた私は、社内にいた方々が屋外に避難するように、声を張り上げたと記憶している。 若い女性が、駐車場でうずくまっていたのを思い出す。 幸いにも、茨城県中央部では、津波の被害もなく、建物も屋根の一部が壊れたり、ブロック塀や墓石が壊れたりしたくらいであった。 けがなどをしている住民はいないかと、車で市内を走って声をかけた。幼なじみの母親は、 「一人で自宅にいられない」 と、道路をどこへ行くということなく歩いていた。 家族とも連絡がとれず、カーラジオや、車のテレビ(アナログ)を見て、情報収集をしていた。 自宅では、冷蔵庫の中身も飛び出していたのが、印象的であった。もちろん、本棚や食器類も飛び出していた。 薄暗くなってきた頃、食料などを確保していた。 茨城県涸沼湖岸にて撮影 茨城も被災県であったが、メディアでは、東北地方ばかりがとりあげられていた。 視点に茨城は、あまりあたらなかったように感じている。 そして、茨城は、福島原発の隣県である。 今なお、その3番に、
の文字がある。 「生気を閉ざす、原子の火」 正気でもいいかもしれない。 21世紀に生きる子供達に希望ある未来をつくってあげたいと思うのだが。
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