小豆島拾遺(十七)
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うがった見方があるものだと、彼は語り手の膝に結んだ手に視線を落としたまま聞き入っていた。
「解脱なんてそう易々できるもんじゃありませんからね」 彼女に同調するように言った。 「そうなの。川を思い切って跳び越えるような気持ちでないと、だめなんですね」 それを跳び越えて見せてくれたのが彼女であると言うことができた。 「初めは空々しいと思っていた大師の御名を唱えることも、最も大切な信心なのですね」 「なるほど。僕みたいな口先だけの称名では聞き届けてもらえないと言うわけですか」 「そんなことはないと思います。手を合わせ南無大師・・・と称えるだけでも願いは聞き届けてもらえると思いますよ。おすがりし、救いを求める庶民の心を踏みにじったりはしないはずです」 「僕はとても欲が深い人間なので、あれもかなえてもらおう、これもお願いしようと思う、それはいけないんでしょうね」 春尼はにんまりした。焦点はそこだというふうに見えた。 「いけないことはないと思います。すべてを大きく温かく受けとめてくれ、どんなに欲深い凡夫にも優しいまなざしを注いでくれると思います。すべてを投げ捨てること、現身の人間には至難なことでしょうし、せめて御名を称え、合掌することで心は安らぐと思います」 「それならいいんですが、やっぱり僕など自我が強すぎて、慈悲にあずかろうとはしないところがあるので、遍路はしても似非遍路でしょうね」 自嘲的なもの言いだった。春尼は聞き流していたが、はっきりした口調でこう言った。 「三十年も前のことを掘り起こしたって、どうなるものでもないし、若気の過ちとして悔いるほどの悪業を働いたわけではないでしょう。先生の言う美しい誤解じゃありませんか。このことばは今になって初めて実感されることばですのに、あのときすでに先生は先取りして使っていましたね。ちょっとあのことばは早く使い過ぎましたね。先が見え過ぎて、わざと思わせぶりな演技をしていたのと違いますか。いや、いや、これはちょっと口が過ぎましたね」 「いえ、けっこうなんです。そんなにはっきり言われた方が僕には薬になるんです」 とは言いながらも、ちくりちくり刺される。かつての冴子の積年の恨みが変形して、ことばの端々ににじみ出ているようだった。 「狭苦しい所より境内の樹蔭に行きますか」 誘われて見晴らしのいい外の真柏の樹下に腰を下ろした。 「ここからは見えにくいですが、あの山の向こうに私一度嫁したことがあるんです。こんなこと自分から言い出すの、初めてです。過去は語らない、問わないのが私どもの掟みたいなものですのにね、でもいいですよね」 もちろんいいですよと言わんばかりに、彼は大きくうなずいて見せた。 「脳病院で知り合った人と結婚したの。子供も出来たわ・・・」 そこまで言って、声が詰まってきた。 「語れば長くなるものね。先生とは別の人生歩んだものな。先生のことは何も聞いてないんだけれど、私の人生って、初めから狂っていたのです。狂っている人は狂っていると自分で分かるんです。それだから病気じゃないと言ってくれるんだけど、やっぱり世間の人様からすれば、変だったんですね。それに親戚や取り巻き連中が、私たちを別れさせてしまったんです。光太郎の智恵子は狂っても一筋の愛に包まれて清く生きられたけれど、私はずいぶん淋しかったわ」 「旦那さんには大事にしてもらったでしょう」 「そう。大事にされたわ。愛し合っていたものな。二人とも躁鬱が繰り返す中で、熱の塊みたいなもので結ばれ、すぐ子供が生まれたの。先生、ご存知?狂った者の子供への熱愛 。今は人ごとみたいに思い起こせるんだけれど、当時はもう偏執的に愛撫を続けていたんです。今でもここにわが子がいれば、そうするかもしれないわ」 筋立てて話すところが少しも狂人とは思えないものの、話す口元とか手の震えなどには、不気味な、後遺症のようなものが見受けられた。 「今のままの方が、やっぱりいいんですかね」 彼は消極的なことしか言えなくなっていた。 「本当に先生はいい時に来てくれたわ。私のなんとか立ち直った時に 」 心配顔の彼をかえって慰めているかのように、優しい視線をじっと注いでいた。 麓の方から鈴の音がして青葉越しにお遍路さんの白装束が見えてきた。島の風景は今日も優しい。 |
