甲斐國13番札所 津金山海岸寺
いつも御訪問ありがとう御座います
今回は料理でも音楽でもなく、地元山梨のお寺さんの記事です。
今回行ってきたのは 甲斐國13番札所 津金山海岸寺 です。
沢山の石造仏があると聞いて前から来たかったお寺さんです。
少し地味な記事ですが写真を沢山撮ったのでアップします。
もう大分雪は解けましたが、この時はまだ田んぼに雪が残っていました。
写真に説明は省略しました。
ご覧頂くだけで、参拝した気持ちになって頂けると思います。
海岸寺 (北杜市)
歴史
さらに 新羅三郎義光が京から玄観律師を迎え 鎮護国家の道場とし、子の 武田義清も寺領を寄進し、義光の菩提を弔ったという。また 応安年間には武田信清の孫清武が鎌倉の 建長寺から石室善玖和尚を招き、 律宗から臨済宗へと改宗した。
しかし、山火事により堂塔は全焼した。その後、 寛文7年( 1667年)に即応宗智和尚が中興し、臨済宗建長寺派から妙心寺派に改宗した。
境内
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■ 海岸寺は須玉町上津金の海抜1,000mの山中にある妙心寺派臨済宗のお寺です。
奈良時代の養老元年(717)に 行基菩薩(ぎょうきぼさつ)が庵(いおり)をかまえたのが海岸寺の起源だと伝えられています。行基菩薩が彫った2体の千手千眼観世音のうち1体は海岸寺へ、もう1体は長野県の海岸寺に奉られました。
737年には聖武天皇から『光明殿』の勅額を賜り国の祈願所となりました。その後11世紀には甲斐源氏の祖として知られている 新羅三郎義光が京より玄観律師を海岸寺に迎えて国家鎮静の大道場としました。
14世紀の武田氏の支配する時代には鎌倉の建長寺から石室善玖和尚を招いて臨斉宗に改宗し海岸寺の開祖としたと伝えられています。
1582年( 天正壬午の乱)に織田信長が甲斐に侵攻した際に寺は焼き払われましたが、翌年、徳川家康によって再興され、1603年に天下安寧の祈願所として定められました。
| | | 《海岸寺発行のパンフレットより》 | | | | | ■境内は夏でも涼しいくらい杉の巨木が生い茂る山の中です。春には桜、秋には鮮やかな紅葉、冬の雪景色など四季折々の風情が味わえます。資料館から車で10分ほどです。 | | | 行基? 全国をまわって仏教を広めたり人々を救った奈良時代のお坊さん。745年日本で最初の大僧正(だいそうじょう・一番偉い坊さん)になった。 | | | 海岸寺の名前の由来 | | |
■海岸寺の名前の由来はいくつかありますが、一つは経文からきているという説。「観世音の本所、補陀落山は天竺南海中にあり」という新華厳経第68説話があるのですが、この補陀落山は海岸孤絶山とも言われることから海岸寺の名が付けられたというもの。もう一つは、大昔、甲斐の国の盆地一帯は湖水であったからという説です。後者は俗説のように思われますが…。
■海といえば八ヶ岳のふもとを走るJR鉄道も小海線と言います。沿線には小海や海ノ口など「海」の字の付いた地名がいくつかあります。不思議ですね。なにか意味があるのかも知れません。
| |  | | イチョウの落ち葉が黄金色に彩る海岸寺の庭園 |
| 百番観世音石仏(百体観音) | | ■海岸寺の境内には西国三十三ヶ所、坂東三十三ヶ所、秩父三十四ヶ所の各札所の観音像や延命地蔵尊などを移した百番観世音石仏が安置されています。これらの石仏の製作者は長野県高遠の出身で江戸時代後期の名工であった守屋貞治(もりやさだじ)(1765‐1832)です。百番観世音は貞治の生涯の全作品のうちの約3分の1にあたり彼が50歳をすぎた頃に8年を費やして彫ったと伝えられています。 | |
≫≫海岸寺の石造画像が豊富なKAWAMOTOさんのウエブサイト
ページタイトル「海岸寺の百観音」 | |
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海岸寺にまつわるエピソード
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観音堂(大悲閣)
| | ■『津金むかし話』によると、韮崎市に穴観音の雲岸寺というお寺があるのですが、この雲岸寺と津金の海岸寺は名前が交換されて付けられたという言い伝えがあります。昔、津金と韮崎の二つのお寺の名前を書いた紙を託されて京の都から使者がやってきました。ところがこの使者がお寺の紙を間違って渡してしまったのだそうです。そんなわけで、津金の山の中の雲の上みたいな所にあるお寺が海岸寺。韮崎の釜無川ちかくにある穴観音さんが雲岸寺になったというわけです。本当なのでしょうか…。 | 
海岸寺観音堂 | 
粟とウズラ | ■海岸寺の観音堂は慶長8年(1603)建立、入母屋作りで向拝付茅葺きの建物です。現在の建物は江戸時代の1810年に再建築されました。正面軒下を飾る粟(あわ)とウズラの彫刻は信州諏訪出身の名工立川和四郎の作です。1845年着工、約20年の歳月を費やして竣工されました。その特色は細部が優れた彫刻によって満たされ、且つ全体的に均衡のとれたデザインにあります。日本の木彫史をかざる江戸時代の代表的な彫物の一つとしても貴重なものであります。百番観世音石仏と共に町の重要文化財に指定されています。 | | 全国の札所のリスト(木村叡さんのサイト) |
| | 守屋貞治についてのノート | ■江戸時代後期の明和2年(1765)に(現)長野県高遠に生まれた。上諏訪の温泉寺の住職だった願王和尚に帰依して仏道の教えを修得したと言われる。この出会いが貞治を石仏師の道へ導いたのであろう。生涯に彼が彫った石仏は336体にのぼり、その3分の1ほどが海岸寺にある。68歳で亡くなったがその晩年には眼病のため視力を失いながらも手探りで仏を彫ったという。
■下の写真は須玉町の見性寺にある貞治の作による延命地蔵。海岸寺以外で町内に残る守屋貞治作の石仏である。蓮座の下の石には「文化十三竜舎丙子」とあり1816年以前の作であることがわかる。
■その後の聞き取り調査で、津金にはまだ貞治の彫った石仏が3体あることが判明した。それは津金地区の古い家に関係していて、貞治が海岸寺の石造を彫っているときに当時の村人達との交流があったことが伺える。 |
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海岸寺・百体石仏・守屋貞治
辺りにはひとけ、はありません
山の静けさとひんやりとした空気が漂ってます。
ここまで写真をご覧頂きありがとう御座います。
お寺さん巡りをしていても、その宗派や経緯について詳しく述べる事はとても出来ませんが、その場所に立つと感じる空気感とか印象はお話し出来ると思います。
本当に昔の人の信仰心を肌で感じた石造仏の数々でした。
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