林正樹のブログ

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ゴッホのデッサン

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ここさいきん、ずいぶんと久しぶりに、ときどきゴッホの画集をぱらぱらとめくるようになった。なぜだか分からないが、きっと、ベルグソンやユングやドストエフスキーやニーチェやという風に、哲学系の世界に触れることが多くなったせいだろう。一種の現実逃避なのだが、思えば、自分が若かったころとて同じようなノリで一面文学的な生活を送っていたわけで、スタンスは変っていないとも言える。

むかし買った画集のかなりは売っぱらったり捨てたりしてしまったのか、でも、ゴッホの画集だけは捨てられずに残っている。わりと立派な装丁本をいくつ持っている。ゴッホの最後の土地、フランスのオーヴェールので描かれた絵を集めた本をよくながめている。本にはいろいろ解説も書かれているがフランス語なのでまったく読めない。

ゴッホについて評論エッセイのようなものを書き、それを自費で出版してから十年以上がたった。あの本では、一応、ゴッホがその短い生涯に渡り歩いたいくつかの土地と、そこで描かれた代表的な画布を選んでその絵に的を絞って書き進めて行ったのだが、当時の僕が一番書きたかったこと、そして一番明らかにしたかったことは、彼が死んだ最後の土地オーヴェールで描かれた七十点ほどの特異な画布に隠れた秘密についてであった。

さて、それから十年たった今、こうして画集の上で改めてオーヴェールで描かれた絵画をながめてみると、当時の自分の目とはさすがにいくらか違っていることに気付く。ただ、違っていると言っても、ここに明快に書けるほど大きな差異ではない。いや、と言うか、彼の絵を目の前にして、自分の心に入ってくるものは昔とほとんど変らないのだが、それへの心の対処法が変ったような気がする。

絵に相対すると、相変わらず素晴らしい、本当に凄い画布の数々で、それでむかしは心が騒いだものだが、今ではずっと落ち着いている。前述の本にほぼ自分が言いたい言葉は書き切ってしまったので、それ以上に言葉を発想する必要性を感じない、というか、余計な理性を働かす必要がないというか、いわゆる無心で見入る感じになった。

そのせいだか、ひょっとするとここに来て、ようやく自分は彼の画布のディテールを見るようになったのかもしれない。昔の自分は画布の上の物理的なディテールなど目に入らなかった。あるいは、ディテールを軽蔑していた、とまで言えるかもしれない。世間の人間たちが彼の驚異的な画布の表面だけをひたすら詮索しているのを苦々しく横目で見ながら、自分はひたすらその画布の向こう側にある本質を見ようとしていたのである。

今、画集をぱらぱらめくると自分に親しい画布がいくつも出てくるわけだが、昔の自分が掴み取ったその本質は、もうすでに十分自分の血肉になりきってしまっているわけで、今さらもう一度掘り起こす必要もない。なので、何も考えずに、言葉を忘れて、画布の隅から隅まで、飽きもせず、ずっと見るようになった。

そんなさいきんの自分が一番惹かれたのが、この、オーヴェールの市役所を写したデッサンである。

いくら見ていても見飽きない、不思議な絵だ。これを見て、すぐに口をついて出てくるのが、どうしてこんなものが描けるのだろう、ということ。絵の感想じゃないのである。ただただ、こんな風に描くことができる、ということが不思議で不思議でならない。まるで、子供のように、なんで? なんで? と繰り返すだけ、といった風なのである。

で、実は、その答えは気が抜けるほど簡単なことで、なぜこんなものが描けるかといえば、ゴッホという人間がこのデッサンが描けるようになるまでに、ひたすら何千枚、何万枚と描いてきたからだ、ということに尽きる。しかし、その描かれた「絵」が何を表しているか、という詮索になると、これはたくさん言葉を費やして論じることができる。僕は十数年前、それを行って文章にしたのである。

しかし、それら発せられた言葉は、自分がこの絵を見て感じる不思議さとは違う次元のところにある。いまの自分が、これをひたすら見ているときに見ているものの中には「言葉」のかけらも見当たらない。そういう意味で純粋視覚と言いたくなるが、それもなんだか違う。「視覚」などという専門語を書くと、何となく「知覚」というその場限りの物理刺激に近いイメージを結び付けたくなるが、それとはおよそ正反対のものだ。

このデッサンを見ていると、なんだかその錯綜した、線や、塗りや、空白や、塊の配置や、流れや、曲がりや、リズム、といったものの全体に、古い樹木の「年輪」のようなものがオーバーラップして見えるような気がする。長い長い時間の進化の記憶のようなものが目に見えているような気がする。生命を時間軸の方向から見ずに、ぜんぜん別の次元から見ている眺めのように見えるような気がする。

いやいや、こんなことを書き始めると切りが無いし、結局はまた一つの評論だか何だかの言葉になってしまうので、何だか元に逆戻りしてしまう気もするのだけど、そう思ってみると、たしかに十年前の自分はほとんどしなかった見方であるようにも思える。

このへんで止めるが、とにかく、この絵が一枚あれば、ほかに何もいらないじゃないか、と言いたくなるようなデッサンに自分には思えるので、もう何度目かわからないが、そんなものを与えてくる彼に、またまた本当に感謝する。

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こんばんは。これ広島にあるデッサンですかね?

2010/12/13(月) 午前 0:05 [ nshikishouten ] 返信する

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