林正樹のブログ

思いついたことなど適当に書いてます。 HP: http://hayashimasaki.net/

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電子出版と文体など

さてと、とうとう一ヶ月も開いてしまったこのブログだが、どうしようか。

あるときMixiを始めてそちらに気軽に書くようになり、さらにtwitterも始めて書き飛ばしが面白かったり、文章を書く、という行為もほんとうにいろいろなバリエーションが出てきて、なんだか楽しいよね。しかしながらこちらのブログにまとまった文章を書くことがあまりなくなってしまったことは確かで、なんとなく少しだけ焦ったりもするが、まあ、焦っている暇があるならMixiでもtwitterでもたらたらと文をつづっている方がいいよな、ということで気ままな文章ライフを送っている。

ただ、Mixiもtwitterも完全公開ではないので、やはりブログの存在は大事だ、と共に、当然ながらホームページの方も同じく。今の自分としては、ブログとホームページは一種、作品発表の場みたいな扱いでいる。そのせいで、日々の生活が忙しいと作品制作が滞ってしまい手が回らなくなり、どうしても発表が遅れることになる、というわけなのだ。

それで、さいきん思うに、自分がこれらブログとホームページに抱いている感覚が、さいきんにわかに巷で云々されるようになった、いわゆる「電子出版」の感覚に接近しているような気がしてきた。実は、ここついさいきん、次は本気で電子出版に手を出してみようか、と漠然と思い始めているのである。

これは誰でもそうだと思うのだけど、いろいろ文章を書き散らしていると、発表する媒体によって文章のスタイルにあれこれの区別ができて来る。少なくとも自分は、そうだ。それで思うに、電子出版というものが面白そうなのは、いわゆる物理的に紙に印刷して装丁された書籍で発表される「文」とは異なる、「電子書籍の文」という新しいものが現れそうな予感がするところではないか。

実は自分は、電子出版が現れることによって、電子流通による購読の便利さとか、電子的であるが故の検索やらなにやらの拡張機能や、メディアミックスや、表示ハードウェアの可搬性とか、などなどについてはあまり興味がない。それらはただ「文」の周りに配置されているものにすぎない。つまり、自分にとってはこれらは「読み手」にとっての改革であって、「書き手」にとっては直接には関係しない。結局、これらの拡張された発表媒体というものの特性を生かした文を作成することに、実は自分はまるで興味がない。きわめて古典的な意味での「書く人」なのである。

こんな風に考えてみると、自分は仕事で最先端のメディアに関わり続けているにもかかわらず、きわめて頑固に古風な思考スタイルにとどまっていることを再認識してしまう。

さて、実は、文章に関してついさいきんこんなことがあった。

仕事関係での話なのだが、会社主催で、とあるアカデミック系な集まりを年に一回開催している。これは、大学の先生数名と企業の人間数名が合宿形式で参加して、めいめいが自分の仕事のことなどについてプレゼンテーションをして、それをネタにフリーにディスカッションする、というなかなかのびのびとして自由な雰囲気の集まりなのである。特に、大学側の専門が数理科学、そして企業側がインターネットなので、微妙に異分野になっていて、そのせいでなかなか緊張感もあり、面白い。

さて、今回、この集まりの様子を書籍にして出版しようという企画が持ち上がり、出版社の人も加えてその作業が始まった。集会に参加した人はめいめい自分のしたプレゼンの内容を文章に起こして出版社へ送り、これらが編集されて本になる。僕は、たまたまこのときちょっと毛色の変ったプレゼンをしており、それは、西洋古典絵画から現代美術までを概観して、そこに現れている「作者」と「内容」と「表現」の関係がどのように変化して行き、そしてそれがどのように現代のインターネットを使った表現世界へ最終的に行き着いたか、みたいな感じの内容であった。ちなみに、今ここでしようとしている話は、この僕のプレゼンの内容とは関係はない。

僕は結局、20ページ分ほどの原稿を起こして出版社に送った。先の合宿でのプレゼンでは、プロジェクターを使ってたくさんの古今の美術作品をこれでもかと見せながら漫談調にやったので、その内容についての文章もいくらかエッセイ調にして、なんとなく気軽な読み物風、しかし仮りにも芸術について論じているわけなのであるていどの品は保って書いたつもりであった。

さて、しばらくたって、著者校正用のゲラが出版社から送られてきた。活字になった自分の文章を、数ヶ月ぶりに改めて読んでみたのだが、読んでいてあれっ?と思った。なんだかずいぶんと平板でつまらない印象を受けたからである。自分としては、その内容についてはそれなりに面白く書いたつもりだ、と、いくぶんは自負していたのだけど、ゲラを最後まで読んでもなんだかその内容がぜんぜん印象的に見えない。「オレってこんな文章を書いたんだっけ?」という感じだったのである。

それで送付されてきた書類一式をよく見てみたら、僕のオリジナルのワープロ文章の打ち出しに編集部の方で赤入れ校正をしたものが同封されているのに気づき、見てみたら、なんとほとんど全面真っ赤に修正されていたのである。つまり、オリジナル文を編集部の方でまず校正し、その校正後の文章がプリントアウトされてゲラとして上がってきた、というわけだった。編集部赤入れのゲラを見てみたら、なんと、文体の大半が修正されていて、ほとんど別の文体に直されていた。ただ、さすがそこは文章のプロだけあって、内容は二,三を除いてほぼ正確に保存されており、文体だけがものすごい勢いで整理されている。

実は、これは僕だけではなく、とある大学側の人の書いた文章もそうであった。彼の文は自分にも関係していたため、僕は彼のゲラも読んでおり、この文章についてもまったく同じことを感じた。ちなみにその彼はとてもユニークな人で、対象に向かって有り余る情熱で一気に突き進み、その本質にまともに激突してしまうような感じの、最近なかなかお目にかからないタイプの人がらなのだ。その彼が書いた文章の文体もユニークなもので、いくらか混乱しているように感じる筆運びではあるが、その文章の全体から彼の対象に対する情熱や愛情がじかに伝わってくるようないい感じの文章なのだ。しかし、これも編集部校正のあとの文章は残念ながら抜け殻のような文章に変更されていたのである。

編集部の文体は、きわめて平板なもので、正確で読みやすくはあるが、大切なものが見事に欠けている感じなのだ。それは、この文を起こすにあたって、「筆者」がその当の内容を巡って伝えようとしているときの、感情の動きや、わくわくしたような臨場感や、相手に伝えたい情熱の動き、といった、いわば文章の「心」である。

ところで、編集部に腹を立ててこんなことを書いているのではない。

編集部がやったことはある意味、共著により一冊の本をまとめるときに必要な作業で、統一された一冊の本というものを責任を持って読者に提供しなくてはならない立場にいる人にとって当たり前のことだというのは理解できる。なので、僕は、結局、ゲラに修正はほとんど入れなかった。ただ、二、三箇所、あまりに大所高所からモノと言っているように感じられる部分があったので、それを、なぜ直すかの説明付きで修正して送り返しただけである。文章について、編集部で文体を修正し過ぎではないか、ということについて、少しは伝えておくべきだったかもしれないが、結局なにもしなかった。

この事件をきっかけに、文章というもの、そして、それを書籍にするということ、そして、それを読み手に提供する、ということについて、けっこう考え込んでしまった。特に、先に書いた大学側の情熱の人の書いた文が校正された後の抜け殻のような文章を読んでいて、文章の「内容」とはいったい何なんだ、と本当に思った。

やはり、「内容」は「文体」と一体となって「文章表現」になる、という文章作成上の古風な基本は今もこれからも変らないのかな、と思う。そしてこれが正しいとすると、内容と文体を完全に分離することは不可能だ、ということにもなる。ということは、きっと文章というのは、文体からあるていど切り離される内容、そして、内容からあるていど切り離される文体、というのがあり、そして、内容と文体がほとんど見分けがつけられない「あるモノ」という、大きく分けて3つのモノが考えられるのではないだろうか。この3つを仮に「純粋内容」「純粋文体」「あるモノ」と名前をつけておこう。もちろん、実際にはこれら3つのモノは連続していて分け目は無い。

そうすると、今回、編集部の人がやった校正は、純粋内容を保存して、純粋文体を総とっかえした、ということになる。ではそのときに、「あるモノ」はどうなってしまったかというと、当然ながら不整合を起こしたため、元あった「あるモノ」は消えてしまった、あるいは混乱してなんだかわからなくなった。さて、消えたものは何だっただろうか。これは、実際に読んだときの感触でわりとはっきりと把握できる。それは、先にも書いたように、筆者の感情の動き、高揚感、人が動いているさま、伝えたいという情熱、などなど、これも先に書いたように「筆者の心」としか名づけようのないもので、結局のところ、「筆者という生きて活動している人間そのもの感触」としか言いようのないものではあるまいか。

そういうわけで、内容と文体が不可分な「あるモノ」の正体は、「生きて動いている筆者」ということになる。

ここ最近、ブログ、そして、Mixiの日記、そして、twitterという場でいろいろな人が書いた文に日常的に接していて感じるのが、そこに現れ出ているもので一番にはっきり見えているのが、やはり「人間」だ、ということだ。上述の論で言えば、内容でも文体でもなく「あるモノ」、つまり「心」つまり「生きている人間」の姿で氾濫しているように見える。実は、これは、それまではあまりなかった光景ではないだろうか。先の、文体を改変した編集部の人は、いくら仕事だとは言え、書籍という「固いもの」に執着し過ぎたがゆえに、生きた心を除去してしまったと言えると思う。できあがった書籍はある一定のクオリティと書籍の体裁を立派に取るだろうが、筆者として集まったいろいろな人たちの心の動きの面白さは伝わることはないだろう。なぜこういうことが起こるか、というと簡単な話で、書籍というものに対する固定観念から来ている。

そこで、最初に戻って、「電子出版」なのである。

ここさいきん、以上に書いたようなことなどが身の回りで起こったり、いろいろなメディアでこれまでにない文章ワールドが展開されるのを見るにつけ、たぶん電子出版にはこれまでまだ誰も気づいていない可能性が隠れていることは、間違いないのではないかと思えてきたのである。

とはいえ、これらは自分にとってつい最近の感触で、まだまだ自分がどうしたいか、とか、どう関わろうか、とかぜんぜん先が見えていない。もう少し時間がかかるかもしれない。もっともこういうことというのは考えたり調べたりしていてもダメで、かかずりあってみることが必要な気もするので、当面はホームページやらなにやらで自分が書き飛ばしてきた文章を、電子出版の土壌で再生できないかやってみたいな、などと思う今日このごろである。

ひょっとすると、これがオレの次にやるべきことなのかもしれないな、と、楽観してみるとワクワクするね。

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