林正樹のブログ

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疑うということ

ちょっとメモ的に書いておこうか。

きょう、ひさしぶりに自転車で遠出をして、蒸し暑い中ずいぶん走って久しぶりに体を動かして汗をかいた感じ。それで、自転車って結局は周りを見回すぐらいしかできず一人なので、なんとなくあれこれ考えごとをするのに向いていたりする。ニーチェも、動きながら考えた思想以外を信じるな、と言っているしね(笑)

さいきん哲学に興味を持つようになった、と言う元同僚がいて、少し前、一緒に酒を飲みながら哲学のことをけっこう率直に聞かれ、自分は、たぶんいい加減なことをいろいろしゃべり散らしただろうが、後で聞いたら、自分が、哲学の基本は疑うことだ、とか何とか言ったらしい。

それで、もう一度、この言葉を反芻してみると、これはまったく正しい言葉で、古今の多くの哲学者が言っているすでに確立している基本である。しかしながら、自分を振り返ってみると、実は自分はものを疑うことをあまりしない人間だということに思い当たる。自分がやってきたのは、ひたすら「信頼できるもの」を探すことで、それはなかなか見つからないのだが、いったん見つけてしまうと批判精神がまったく働かず、およそ「疑う」ということを放棄してしまう。

そんな自分は、哲学にはやはり向いているとは到底言えず、どう考えても文学系である。

さて、それで、信頼するものはなかなか見つからず、しかしいったん見つかると夢中になってしまうので、自分にとっては、前者のときは「ゼロ」、後者のときは「1」ということになってしまう。それにしても日々の生活の中で出会うものの大半はゼロや1ではなく、かならずその中間なので、それに対してどうするかというと、大部分が無関心のままやり過ごしてしまう。興味がない、で一蹴してしまうまったくみもふたもない状態である。

自分も、さすがに、40になったぐらいのときに、「大半のものはどうでもいい」という態度はかなり改めざるを得ず、ずいぶんとまともになった。それにしても性格の基本は昔から変っていない。

さて、自分のことはこれぐらいにして、それで先の「懐疑」についてなのだが、元同僚の彼は、この「疑う」ということについて、「常識を疑う、慣習を疑う、前例を疑う、権威を疑う、マスコミを疑う」といういろんな例を出して、たしかにこれらを疑うことは大切なことだ、と言っていたのを読んだ。それを読んで、たしかにその通りなのだが、なんだかこれは哲学で言うところの疑うとは少し違うぞ、と漠然と感じた。

オレはいつもこういうとき、漠然と「違うな」で済ませてしまい、「では具体的にどこが違うのか」と明確に自問しないのがいけないところで、しかも漠然と感覚的なくせしてそれを判断根拠にまでしてしまうことが多い。しかしながら、哲学を仮にも勉強しようとしているならば、「自問する」態度こそが重要なはず。

それで、今日、自転車に乗りながらそのことについて何だか色々思いついたので、その話なのだ。

人はみな生活の中で様々なものに囲まれ、それらから発せられるものを受け取って生きている。自分以外はみな他人なので、これらはいわゆる「他者」と言われるもので、この他者がもう、これでもか、と言うぐらいの情報を常に自分に投げつけてくる。しゃべりであったり、文であったり、テレビだったり、なんらかの行為であったり、その形態はさまざまだけれど、すべて自分に投げかけられた何らかの「情報」である。そして、この「他者」は必ずしも一個の他人という人間である必要もなく、マスコミというグループだったり、政府というものだったり、さらに、前例や常識、前例というものを言葉や行為として発する人や集団もあるわけである。

人はこの大量の他者情報を常に、取捨選択しながら生活している。あるものは無視し、あるものは保留し、あるものは対処する。対処することに決まったらその対処の方法を考えて、他者と関係を持ち、そこから対処のプロセスが始まったりする。これらの他者に対する「判断」というのは、社会生活をしている人間であれば必ず、常に行っている行為である。それで、その判断をするときに、他者からの情報をまず「疑う」という態度はきわめて自然なもので、ほぼみなが持っている基本的な社会本能のようなものではないだろうか。なので、疑うことの必要性をいまさら言うこともないんじゃないかと思えるのである。

でも、よくよく、たとえば自分自身のふつうの社会生活の時間に自分がやっていることを振り返って反省してみると、他者からの情報を「疑う」ということを確かにしているのだが、それは大半が「他者からの情報のうわべや見た目」を疑って判断しているに過ぎないことが分かる。ここでややこしいので「情報」をちょっと狭くして「言葉」とすると、言葉のうわべの意味だけを疑ったり、信頼したりしていることが大半であることに気付かないだろうか。

なにせ、生活の時間はどんどん過ぎていくのに対して、自分めがけてやってくる言葉の量は大量で、いちいち深読みして判断していたら対処しきれず、生活が成立しない。なので、言葉のうわべで判断することは一種の生活の必要でもあるはずだ。さらに、この事態というのは人間、寝ていないで起きているときは(夢でも、そうだが)常にさらされているものなので、当の昔に習い性になってしまっていて、いわば生活習慣に染み付いてしまっている場合が多いのではないだろうか。少なくとも、自分について反省しても、その通りである。

それで、このように習慣化すると、今度は、「言葉のうわべの意味」によって疑ったり、信頼したりすることを「批判精神」と勘違いするということがどうしても起こってくる。

たとえば、なんでもいいが、ネット上である文章を読む、そしてそれに対して点検の目を向ける、そしてその言われている内容についての矛盾点や納得できる点、愚かな点や価値の認められる点などなどを列挙し、これを批判する、そしてそれを自身の態度として表明する、ということはいたるところで見られる人の基本行動である。しかし、そのやり方は、その文章で使われている言葉の、つじつまや、論理矛盾や、一貫性や、妥当性などなどのうわべの意味の操作に終始するさまはいたるところで見られる現象ではないだろうか。

しかし、それをやっている当人は、いわば「言葉の意味だけ」を疑っているにも係わらず、自分は本質を批判している、と思い込んでいるもので、それは、恐らく、先に言ったように、言葉を疑う、という行為があまりに生活に染み付いてしまっているせいで、それを単に延長しているだけだからじゃないだろうか。

さて、ここで、哲学で言うところの「疑う」という態度は、実は、この「言葉のうわべを疑っている自分自身」を疑いなさい、ということじゃないだろうか。すなわち、他者の発する言葉を疑うという生活の習性のようなものをいったん捨て、それをやっている自分自身をまず疑うことから始めて、自分自身をいちど白紙に返しなさい、ということじゃないだろうか。

なので、たとえば先の例で言えば、マスコミを疑う、権威を疑う、慣例を疑う、などといったことをしている「自分」をまず疑え、ということになるわけだ。

実は、マスコミでよく見られる批判の垂れ流しというのは、その大半は、そういう批判をやっている「自分自身」を決して疑うことがない、という態度から出るものなのである。そして、昨今の、このインターネットによる民意のオープン化が手伝って、この事態はさらにものすごい勢いで拡大している。人というのは弱いもので、自分を疑わなくなる時間が長く続くと、もう戻れなくなるものなのだ。

そんな、特に現代情報社会でエスカレートしているエゴイズムを反省するきっかけを、哲学は与えてくれる。

哲学では「まず自分を疑え、なのだ」と書いたが、これはソクラテスの昔から言われている「無知の知」というものだ。自分は何も知らないということをまず知りなさい、ということだ。これをするとどういうことになるかというと、ある「対象」が発している「言葉」の、その言葉を発している当のものである対象が見えてくるのである。そして疑うときはその対象の方を疑う、ということに変って行く。単純に言えば、うわべではなく本質を疑いなさい、ということになる。

そうするとどうなるかというと、本当に信頼できる対象に出会ったときに、一見、相矛盾するかに見えている言葉の背後に、しっかりと統一された本質というものが見えてくるものなのである。逆に、疑わしい対象というものは(世の中、こちらの方が大半なのだが)、一見、きれいにつじつまが合っているかに見えている言葉の背後に、小さくて臆病で取るに足らない本質というものが見えてくることにもなる。

前者のようなものに出会えることは幸せなことだ。さらに言うと、そういう貴重なものというのは、その本質そのものも多彩なうわべや時空を超えた広がりを持っていて、その本質の場でもさらに相矛盾しているように見えてくる。そして、その本質の本質を疑っているうちに、さらにその背後の本質が見えてきたりして、このプロセスは繰り返し、実は終わりがない。最後の最後は、なにか途轍もなく純粋な裸形の天才のようなものが微妙に震えている様が見えたりする。この辺まで来ると、どうも「悟り」に近い事情になってくる。いや、まあ、しかし、これはこの辺にしておこう。

逆に、先の後者のような下らないものは、前者のような無限のプロセスは無く、一発終了である。哲学をやると世の中のバカバカしさが見えたりする、とどっかに書いたが、これがそれに相当する。

しかし、これは「ただし」付きだ。世の中のバカバカしさが見えてしまっているのは、幸せな社会生活を送るためには、あまりよくない状態だと思う。哲学も文学も芸術も、夢中になってしまうと確実に諸刃の刃になる。人の生活っていうのも難しいものだとつくづく思う。

以上、ほとんど書き飛ばしだが、まとめるとこんな感じか。

ここでマスコミには悪いがマスコミを例にとると、マスコミの言葉を疑っている人はごまんといる。そしてマスコミを偉そうに批判している輩はごまんといる。しかし、その輩たちの大半は習性と惰性と習慣に従ってマスコミを批判しているだけだということになかなか気付かない。すなわち、その輩たちはそういうことをしている自分というものを疑う方法を知らないのだ。哲学はまず、自分を疑うことから始める。そうすると、たとえばマスコミの言葉を直接批判するんじゃなくて、そういう言葉を吐いているマスコミそのものの姿が見えてくる。そのマスコミの本質を疑うことが大切だ。それをしていると、そのマスコミの本質が、自分にとって信じて一緒にいるべきものか、拒否するものか、というのが分かってくる。

と、まあ、ちょっと偉そうか(笑) 自分は、生半可に哲学を勉強しているだけで、上記のようなことはぜんぜん出来てないんだけどね。

あと、対象と言葉とか、うわべと本質だとかいう二元論的なものの言い方自体に哲学的問題があるけど、その話は、ここでの話しよりずっと高級な話になっちゃうよね。

以上、疑うってことについて、自転車に乗りながら考えたことでした。

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こんばんは。ご無沙汰しております。m(__)m

僕もこちらのYahoo!ブログを開設したので、挨拶にやって参りました。m(__)m

僕は占いなどの「適職診断」などをやると、かなりの確率で「哲学者、思想家、芸術家」と言う答えが出てきます。。。(;==)

一体、その職業と言うのは、「どこで免許を取るんだい?」、「どこの会社に入ればいいんだい?」、「何を持って、何をすれば、そう呼ばれるの?」と困惑してしまいます。(;^_^A

あと、ニュースなどで「軍事評論家」などの「○○評論家」と言う人が出てくるんですけど、『一体、君達は普段なにしてん?』と思ってしまいます…。

2010/7/26(月) 午後 9:36 [ fak*u*cie* ] 返信する

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