林正樹のブログ

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ゴッホ展の感想2

より続く)

今回の展示会のアルル時代の絵で、自分的にお勧めなのは「玉葱のある静物」である。これは、またまた見事な画布だ。この絵は、彼がアルルで耳切り事件を起こし、一時病院に収容され、そこから自分の家に戻って来てまもなく、まだ精神の動揺が収まっていなかったであろうころに仕事を再開し、そして塗った画布の一つなのである。

イメージ 1

そう思って見ると、光景がなんだか寂しげに見えたり、芽の生えた玉葱と本や蝋燭などの取り合わせがいわくありげに見えたり、するだろうか? 

いやいや、でも、そういう先入観なしに見てみると、これほど、いわゆる洒脱な、軽いタッチの、さりげない色彩の調和、そして何より、まるで内側から光を発しているような色彩の美しさはほとんど稀有のものだということが分かるはず。なんだか、これを見ていると、このまま照明を消してもこの画布は光り続けているんじゃないか、と思えてくる。あれほどの不幸があった後でも、彼がアルルの労働の中から掴み取った芸術的境地はまったく無傷だったということがよく分かる絵だ。

この作品は、決して有名な大作ではなく、むしろ習作に近いのかもしれないけど、アルルの絵の中では自分は一番好きな絵かもしれない。いつまで見ていても見飽きないんだ。

さて、この後は、アルルの次の土地であるサン・レミで描かれた何枚かの絵がかかっているが、いずれも素晴らしいものだ。

この展覧会のサン・レミの絵で、特に僕がお勧めなのは「渓谷の小道」である。これまた呆れるほど見事だ。さきの玉葱は小品といった味があったが、こっちは大作だね。この大きな絵の隅々まで、特に近寄ってみると、どこをどのように切り取って見てみても、筆触の色彩の調和は完璧で、ただの一箇所も傷がない。そして、それら色彩と筆触が、プルシアンブルーの輪郭線の畳み掛けるような曲線の作る空間を埋めている。少し離れてみると、このデッサンの線と色彩の面が作り出す風景の全体が、なんだか夢の中の光景のように、奇妙な、実に奇妙なリアリティを持って心に残るのである。

イメージ 2

近くに寄って筆触の色彩の調和を楽しんで、遠くに離れて奇妙なリアリティを楽しむ、と、一枚で二度楽しめるのもゴッホのいいところだね。

この絵は、たしか、当時の中央で行われた展示会にかけられ、ちょっとしたセンセーションを巻き起こしたらしい。ゴーギャンも素直にこの絵の素晴らしさを賞賛した言葉をヴィンセントへ書き送ったはず。ただ、これを描いたヴィンセント本人は、孤独のうちにサン・レミの療養所におり、今の自分には中央へ出て人と交流する自信がぜんぜん無い、と、賞賛を喜びながらも書いていたはず。時代はこのころ徐々にゴッホの芸術を理解し始めていたのである。

そして有名な花瓶に挿したアイリスの絵がある。これもお見事。

しかし、僕のお勧めはその次にかかっている風景画である。これは2本の木の幹が並んで生えている地面を書いたまったくに平凡な絵だ。ゴッホはよく、こういうへんちくりんな構図を使う。地平線が見えてなくて、ただ下を向いて地面を描いている。しかも地面には、土や雑草や野花が乱脈に生え落ち葉がその間を埋めているような、とにかく乱雑なもので、それを筆触と色彩でめったやたらと埋めている。それがまず見事。

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そして、この絵には見どころがある。それは画面の左側を占める、地面から突き出た2本の太い木の幹である。この幹の描き方は、ちょっと近寄ってみると驚異的である。茶、白、青、オレンジ、といった色を縦に樹皮を裂いたように乱雑に並べていて、何と言うか、近くに寄ってみる限り、とてもとても木の幹の色とはほど遠く、どっちかというとたとえばピカソのキュビズム時代の「泣く女」みたいな、ああいう色の並べ方なのだ。それが少し離れて見ると、リアリティのある幹に見えてしまう。これはほとんどマジックだね。

それではっきり思ったのが、この幹の部分だけ取り出して、大きな画布に引き伸ばせば、そのまま現代美術になる、ということだ。もう、これはほとんど抽象画なのだ。それなのに、ゴッホにあっては、まだかろうじてこれは風景画なのである。しかし、ここからジャクソン・ポロックやロスコーへは、あとほんの一歩である。

それにしてもどこをどうしたら、ああいう色の並びがああいう風な視覚効果に見えるのか不思議である。ゴッホはどうやってこれを発明および発見したんだろうか。まあ、その回答は、絶え間ない絵画技術についての研究の果てだった、という単純なものにならざるを得ないだろうが、それにしても、やはり天才だったのだろうか。

天才に決まってるだろ、というかもしれないが、ゴッホをわりと隅々まで知っている自分としては、天才、という言葉がゴッホからちょっと遠く感じられるんだな。率直に言って、この人、あんまり天才っぽくないのである。彼の行動を見ていると、どう考えても努力の人である。ただ、その努力の仕方が尋常ではなく、ほとんど脅迫されているように努力するのは確かだ。

まあ、天才とは1パーセントの才能と99パーセントの努力である、という言葉は誰が言ったものか知らないが、これは「天才は努力するから成就する」と解釈すべきじゃなく、「天才は努力を強要されている」という意味だよね。で、努力を強要されているうちに天才として花開いて何かを成就するってわけだ。1パーセントていどの才能だったら、まあ、どこの誰にだってあるけれど、努力を強要されるように行動する人はほとんどいないものだ。

努力してラクになる人や、ラクしたいから努力する人や、努力そのものが努力になっちゃう人や、努力が中毒になっちゃう人は山のようにいるけれど。小林秀雄もどこかで、凡人は努力してラクになるだけど、天才は努力して苦しむものだ、みたいに言っているしね。

さて、と、このゴッホの場合、以上の事情のまるで典型的なお手本みたいな人生を送った人だ。

彼の1パーセントの才能は、オランダで農民や炭鉱夫ばかり描いていたころから確かに見えているが、これが晩年に花開くようにはあまり見えない。彼のデッサンは独特で、ヘタ一歩手前、というかヘタかもしれない。少なくとも絵画の学校においてはそうだっただろう。案の定、ひところ絵画塾みたいなところへ通っていたそうだが、先生の批評は情け容赦ないもので、ほどなくして辞めてしまっているはずだ。

ただ、その当時から、見間違えようのないゴッホ独特のデッサンの癖があることは確かで、それは確かにきわめて大切なことだろうね。まあ、なんだかゆがんでいるんだ。ただ、このゆがみが後年、ああいう歴史に残る独特なスタイルに変じることは、恐らく誰にも予想できなかっただろうし、ゴッホ本人にも予想できなかっただろう。生きているものの不思議である。こういってよければ生命の進化の不思議そのものだ。

以上のような想念が自分にあるので、ゴッホの晩年のデッサンに自分は生命進化みたいなものが見えてしまう。ベルグソンの言う創造的進化がそのまま紙の上に見えているような印象を受ける。今回の展示会では、サン・レミで野良仕事をする農夫のデッサンと、オーヴェールで描かれた変哲ない茂みのある道を歩く女のデッサンが展示されていたが、あまりのすばらしさと不思議さに、しばらく見入ってしまったよ。

イメージ 4

どこをどうしたら、こういうデッサンの形態が生まれるのか、本当に不思議に思う。労働者を描いたデッサンでは、野良仕事の際にいろいろな格好で体をくねらせる人々が描かれているのだが、それが、いくつかのボールとチューブの連結によって単純化されて表現されている。本当に奇妙なデッサンである。このあたりの人体変形の様子は、これまた容易に後年のキュビズムなどなどの現代美術と通じている。

見ているとなんだか、時間軸というものがなくなっちゃって、長い長い進化の歴史を、時間軸とぜんぜん違う方向から眺めているような気分になる。僕らは進化論というものをほとんど常識として身に付けている。それは、時間を追って、生命体が変異と淘汰と適応によってその姿を変え、新しい形態を作り出して行く、という構図である。逆に、僕ら現代人の脳は、そういう時間順の因果律でものごとが進行して行く、という偏見を振り払って追い出すことが、ものすごく難しいようにできている。

しかしだ、そういう進化論的な見方とは、また、ぜんぜん全く異なる生命の風景というものは、絶対にあるはずで、特に古今東西の宗教はそれを色々な形態で表現している。科学的事実というものに囚われてしまっている人には、そういうものは見えない。見えないのを通り越して、それらを軽蔑して排除するようにすら、なってしまう。これは悲しむべき現代の軽薄と驕りだと思うが、いまのところ仕方のないことだ。

それで、そんな時代に生活して、それで、このゴッホの奇妙なデッサンを目の前にすると、まるで、進化論など噂にすら知りません、とでも言いたげな形態が紙の上に定着していて、生命や進化の神秘そのものが、くねくねとした線や、ボールとチューブでできた奇妙な生き物になってそのまま見えているような気になるんだ。

展示会はオーヴェールで描かれたこの奇妙なデッサンと、医師ガッシェを描いた小さなエッチングで終わっている。

やはり、来てよかったな、いい展覧会だった。今回、こんな文章を書き飛ばすにあたって、主に、さいきん自分が哲学をやたらと勉強しているせいでそちら寄りの感想ばかりになってしまったが、ゴッホというこの類まれな人物の、美と芸術に対する度外れた憧憬と情熱について、本来はもっと感じるところがあっていいはずだ。

今回僕は、ここに書いたように、奇妙な解体を垣間見せるゴッホの芸術、という視点をことさらに取り上げた。しかしながら、これとまったく同時に、人間社会の芸術による現世的調和を恐ろしいほどの情熱で希求したゴッホというかけがえのない人間がいた、ということに対する憧憬と尊敬の念だけは常に感じている、ということだけは言っておきたい。

そうしてみると、いろんな意味でゴッホという人は、共同体の解体とそこからの開放という現代的成り行きへ至る、近代の最後に位置した、最後の古典的人間のなかの一人だったようにも思えてくる。

ゴッホ展は、12月で終わってしまうが、このあと地方へ行くそうだ。六本木の中心から少しだけ外れたところにあるこの国立新美術館はなかなかにすばらしい立派な建物で、あたりの空気も素敵なので、それだけでもふらりと立ち寄る価値はあると思う。


(ミクシィと同文です)

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