勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり

除夜の鐘は迷惑ではない!

除夜の鐘、鳴らすのやめました。えっ?

除夜の鐘を鳴らすのを自粛している寺があるという。東京小金井市の八幡山千手院や静岡県牧之原市の大沢寺などがその典型で、鳴らすのをやめたり、あるいは「除夕の鐘」として夕方に鳴らしたりしているらしい。自粛理由は単純で、周辺住民から苦情が出たからだ。「深夜に鐘をガンガン鳴らすのは迷惑」というわけだ。しかし、これ、ちょっと違うのでは、いや、自粛するのはむしろおかしいのではないだろうか。

「弱者こそ強者」という矛盾

権利意識の増大に伴って、現在、妙な逆転現象が起きている。「弱者こそ最強の強者」という状況がそれだ。平等がいわば「機会」の平等ならぬ「結果」の平等となっていて、弱者の立場にいる側がクレームをつけると、それがデフォルトとして採用されてしまうような現象だ。たとえば小学校での授業。児童の間では、当然ながら学力には優劣がついてしまうが、この時、成績のかんばしくない児童の保護者が「教育が不平等に行われている」とクレームをつけると、今度はこの児童のためにクラス全体のレベルを下げるといった対応が行われたりする。この場合、今度は成績のよい児童が犠牲になるのだが、それはもう「言った者勝ち」なので、割を食うのは成績のよい子どもとなる。弱者の勝利だ。ただし、もし成績のよい子どの保護者がこれについてクレームをつけたりした場合、学校側は、今度はこちらへも対応することを余儀なくされ、その結果、教員負担、そして教育費用の膨大化という事態を生む。当然、ここには税金が投入されるわけで。

弱者が強者となるメカニズム

この「弱者こそ最強の強者」という図式はネット社会によって一層拍車がかかったとよいだろう。匿名で何らかのクレームをつけ、それを他の人間も興味本位で煽り立てることで炎上が発生する。で、ここで留まっていればよいのだが、炎上したものから今度はマスメディアが安易にピックアップして大仰に報道する。こうなるとクレームをつけられた側は、つけられた内容が事実であろうが難癖であろうが対応を余儀なくされることになる。典型的な事態はオリンピックのエンブレム事件で、採用された佐野研二郎の作品は、その疑惑が立証されることもなく採用を取り消された。ネット上での炎上→メディアのピックアップ→JOCがビビった→採用取り消しという流れ。そう、これこそがいまどきの弱者による強者叩きのメカニズムに他ならない。この循環によって、弱者は時に最強の強者となることが可能となったのだ。「除夜の鐘ヤメロ」というクレームもまったく同じ構造だ。匿名の弱者=超マイノリティに属する一群のクレームによって、大多数の人間が期待しているイベントが中止されるのだ。

文化の否定と消費の肯定

但し、除夜の鐘の中止に関しては、事態は深刻と考えた方がよい。超大多数が支持する行事、つまり1000年以上も続く文化に対する否定だからだ。これまでが否定されてしまうのは、はっきり言って異常事態だろう。自らが拠って立つ文化の恩恵を受けている一方で、自分にとって都合の悪い文化を否定するのだから。そのくせ、こうやってクレームをつけている側が、ハロウィーンだクリスマスだと言って、街中で大騒ぎして平気という事態も、ひょっとしたらあるかもしれない。だとすれば、これは明らかに矛盾している。ちなみに、今、同じような例としてあげたハロウィーンは大々的にイベントを開催している地域の近隣住民にとっては大迷惑の可能性が高いのだけれど、こちらについてはあまり触れられることはない。むしろ大々的かつポジティブに報道される(迷惑であることが報道されることもあるが、これはきわめて小さく取り扱われる。事の構造はこれも同じであるのだが)。これもまたメディアのせいだろう。こちらは「儲かるので、あまり騒ぎ立てない方がいい」といった認識が無意識理に働いている可能性が高い。しかも、これは本来の文化ではなく、あくまで商業主義に基づいたメディア・イベントにもかかわらず、である。

メディアは、時には「黙っている自由」を行使する方がよいこともある。

メディアが取り上げるネタの原則は「人が犬を噛んだ時」。つまり、常識外のことが起こり、それが世の耳目を集めるというパターンだ(逆に「犬が人を噛む」のは常識=日常なのでネタにならない)。今回の「除夜の鐘ヤメロ」は超マイノリティに属する出来事だが、この非常識=常識外が「人が犬を噛む」となるのでメディアは取り上げる。ただし、そうなると、次に例の「弱者による強者叩きのメカニズム」が稼働する可能性が高いことをメディアは自覚しておいた方がよいだろう。同じようなクレームが後続する可能性は十分に考えられるのだから。言い換えれば、メディアは時には勇気を持って「黙っている自由」を行使することも大切なのだ。あるいは取り上げる場合には、メディアは見識を持って、つまりこれをかき立てるとどうなるかを十分踏まえた上で取り上げるべきなのだ。場合によっては「こんなことはバカバカしいから止めた方がよい」と主張するくらいの責任性を担う文面にすべきだろう(これって、かつては”きれいごと”の言葉だけれども「ジャーナリズム魂」と呼ばれていた)。

今年、来年、そしてこれからもずっと、除夜の鐘を聞きつつ新年を迎えられることを、僕は節に希望している。

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