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1960年代後半から70年代初頭の新聞や雑誌の記事などを紹介します。また、私も参加している明大土曜会の活動を紹介します。
一昨年の5月28日、「ベ平連」の元事務局長、吉川勇一氏が逝去された。No390で吉川氏を追悼して、「週刊アンポ」第1号に掲載された「市民運動入門」という吉川氏の記事を掲載したが、この記事は連載記事なので、吉川氏の追悼特集シリーズとして、定期的にブログにで掲載を続けてきた。今回はいよいよ最終回。「週刊アンポ」第12号に掲載された「市民運動入門」最終回を掲載する。
 この連載記事のブログへの掲載を通じて、「ベ平連」の運動を改めて見直す機会となった。一昨年の安保法制反対の国会前抗議行動にシールズが登場して、「今までにない新しい運動形態」と話題になったが、実は、50年近く前の「べ平連」の運動は、シールズをはるかに超えるユニークで革新的な運動だったと思う。その運動の遺産を今の時代にどう伝えていくのか。10・8山博昭プロジェクトが昨年開催した「ベトナム反戦闘争とその時代」展は、その一つの答えだったと思う。
 「市民運動入門」の連載は終わるが、引き続き「週刊アンポ」の様々な記事を掲載していく予定である。
この「週刊アンポ」は、「ベ平連」の小田実氏が編集人となって、1969年11月に発行された。1969年11月17日に第1号発行(1969年6月15日発行の0号というのがあった)。以降、1970年6月上旬の第15号まで発行されている。

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【市民運動入門 最終回 運動の中での資金づくり 吉川勇一】
(週刊アンポNo12 1970.4.20発行)
 こういう形で発行される「週刊アンポ」は今号で終わるので「市民運動入門」も今回で打ち切りとなる。これまで12回にわたってこの欄を書いてきたのだが、私は題が気に入っていない。元来、市民運動に入門も免許皆伝もないので、いつまでたっても毎日々々が入門の連続のはずなのである。おそらく各地に私以上に経験豊かですばらしい運動の知恵をもった人びとが沢山いるにちがいない。各地の反戦グループの機関紙を手にするたびにそこにのせられている報告に関心させられ、教えられる。次号からの「週刊アンポ」にはぜひそうした方がたからの投稿をたくさんお願いしたい。

<苦労の種の資金づくり>
 さて、今回は最終回ということで、お金の話をしてみたい。どこの市民運動グループでも一番悩んでいるのが警察の圧迫とお金の二つだ。ベ平連ではどうしているんですか?よくお金が続きますねという質問も時々受ける。ベ平連はいいですね、小田実みたいな作家がいっぱいいるからお金には困らないんでしょうといわれることもある。とんでもない。作家一般はともかく、ベ平連でつきあってる人たちは、作家でも評論家でも大学教授でも、なにしろ金のない人が多い。そんなことをいう人は税務署の回しものか、原稿料の相場のひどい安さを知らない人である。もちろん、そういう人びともお金は出すが、べ平連に直接差出すというより、ベ平連運動のために個人で使うお金がべらぼうに多い。たとえば毎週火曜日夜ごとにやるベ平連のいわゆる「閣議」はいつも午前2時〜3時までつづく。値上げしたタクシーで帰る。ベ平連関係の仕事のタクシー代だけで月に1人2万円近くになる場合もある。こういう金はもちろん個人負担だ。それ以外のベ平連の費用は「ベ平連ニュース」に決算が出ているが大体1ケ月15万円前後。これらの家賃、電話代、印刷費、文房具代などは、すべてニュース代や自発的に送られてくるカンパでまかなわれている。しかし、それは恒常的な費用なので、臨時の集会やデモなどの行動はすべて独立採算でやる。その苦労はどこのグループとも同じく大変なものである。

<デモ費も全員で支える>
 お金のことでは、まずみんなで自分たちの運動を支えているんだという考えをもつことが第一に大切なのだろう。たとえばデモに行く。いろんなパンフを売っていたり、さまざまなカンパ、たとえば弾圧救援カンパなどが訴えられている。そういう訴えにはお金を出すが、デモ自体にお金を出すということはあまりないのではないだろうか。デモは参加するだけならただみたいな気がしている人が多いように思う。しかしそうではない。東京の例で言えば区役所から公園を借りるのには、一人につき2円のわりで使用料を払わなければならない。デモに加わる宣伝カーの自動車だってただで動くわけはないし、スピーカーの電池だって買わなければならない。デモの届けのため警視庁や警察署にも何度も足を運んでいる。最低1人10円くらいデモ参加カンパをデモのたびごとに訴えることが必要だろう。4月の定例デモは大泉市民の集いや反戦ちょうちんデモの会と共催してベトナム留学生の無条件在留を認めるよう法務省に要求するデモとして行われた。この時は、以上の趣旨を訴えて出発前に会場に徹底的にカンパ袋をまわしたが、16,446円のお金が集まりデモの費用のほか、デモの際にまくための留学生問題のビラ五千枚の印刷費も完全にまかなわれた。デモの参加者がデモの費用も分担するーこれは当然のことなのだけれども、人数が多くなったり、度重なったりすると、次第にデモを準備し、よびかける事務局機能を果たす側と、よびかけにこたえて参加する側とが分離して、運動を全ての面にわたって全員で支えているんだという根本のところが薄らいでゆく傾向があると思う。デモでも集会でもただでは出来ない以上、常にその費用が参加者で分担されるように訴えることが忘れられてはならないだろう。先日、大阪の北摂ベ平連が主催する「アンポ大学」に出席した。司会者がこう訴えていた。「今日の大学の諸費用は5万円かかりました。出席者は約250名ほどですから、1人の分担は大体200円ということになります。お帰りの際ぜひそのていどの参加分担金を入口でお払い下さい」と。
 労働組合のデモでは、動員費というお金が参加者に支払われる場合が多い。交通費とか弁当代という名目だそうだが300円くらいがデモに行く組合員に渡されるのだという。これ自体は悪ではないのだろうが、私たちには考えられないことだ。60年安保の時、デモが連続したため組合の動員費の枠の資金が底をつき、そのためあとになるとデモの回数を減らしたり、あるいは割当動員数(こんなものは労働運動の堕落を示す以外のなにものでもない)を削ったりした組合があったというが、こうなると動員数という制度は粉砕すべき対象となる。(労働運動の中でも反戦青年委員会のデモはもちろんこんな考え方を粉砕するところから出発している。)
 私たちの市民運動は、出発当初からこうした考え方をひとかけらももたずにデモを行ってきた。当然といえば当然だがこれをもう一歩進めたいのだ。集会やデモに行き、しかも費用を分担するのだ。

<カンパの結果の報告を>
 カンパがわれわれの運動の基礎であることはその通りだが、カンパのやり方にも工夫すべき点が多々あるように思う。ベ平連の場合、カンパは何のためのカンパかを必ず具体的に明らかにしてよびかける。「ベトナム留学生支援のため」とか「小西誠氏の反軍裁判の費用のため」とか。「ベ平連にカンパを」というような一般的なものでないほうがいい。そしてその結果は必ず報告することが大切である。街頭募金でも、募金帳に住所氏名を記してもらったならば、あとでそれらの人びとに領収書をかねた決算の報告とその人の出したお金が実際に何のためにどう使われたのかということを知らせるはがきが出されるべきだろう。私たちベ平連がやった「ニューヨーク・タイムズ」や「ワシントン・ポスト」紙などに全ページの反戦広告を出そうという募金運動には、それぞれ250万円、150万円というお金が集まって成功したが、私たちは住所氏名が判かるかぎり、50円以上カンパをよせられた人びと全員に、広告ののったその新聞の実物を送って報告をした。それは大変な数で、宛名書きだけでも容易ではなかったが、一人ひとりの出したお金がどのように有効に使われたかをお金を出した人びとに知らせることは、募金した側の義務であろうし、運動への信頼を強め、ひきつづく運動への参加を求める上でも重要なことである。
 街頭募金の時は、単に画板に袋と募金簿をつけ、ボールペンをもつだけでなく、人々に渡すビラが用意されるべきだろう。少なくともお金を出してくれた人には、募金の趣旨とそのお金の使途が明確に記されたビラ(もちろん連絡先も書いてあるもの)が渡されなければならないだろう。運動は俺たちがやっている、お前たちは金を出せ、などという傲慢な募金の態度は自分たちの運動の腐敗を示すものだろう。お金を出すということ自体が運動への参加である以上、その人びとが運動との結びつきを強めうるような何らかの手段―少なくともビラが考えられるべきだと思う。

<運動と結びついた資金づくり>
 多くのグループが資金を捻出するためにいろいろ苦心している。事務所の入り口に箱を置き、そこに出入りする人が必ず1日に1回は10円以上入れることを決めているところ、団地を月曜ごとにリヤカ−でまわって廃品回収をやって資金づくりをしているベ平連、手製のものや不要品をもちよってバザーを定期的に催しているグループなど、さまざまだが、基本は運動と結びついた募金運動の中での全員による資金づくりなのだろう。
 運動と結びついた資金作りという点からいえば、その「週刊アンポ」の拡げ方にも反省すべき問題点があったと思う。
私たちは、これまでの運動の手が届いていないところでも安保フンサイの人間の渦巻をつくりたいと考え、そのためにも取次店を通じ、本屋さんの店頭で本誌を売ることを計画したのだが、それは一面では「週刊アンポ」が出たら大いに売りまくり、運動を拡げようと待ちかまえていた全国の多くの人びとの期待をはぐらかす結果にもなったと思う。これは私たちの自己批判である。第13号からは、本誌は内容も形もまったく一新し、すべて運動を担っている人びとの手を通じて送りとどけられるようになる。発行部数は一挙に2倍以上、値段は5分の1程度となる。なによりもその形は、どんどん大量に配布されるような、集会やデモや街頭で手渡しうるようなものに変わる。
 定価は未定だが、とにかくそれを売るグループと個人の売上金総額の半額をアンポ社に送金ねがう(あと払いで可)ことになるだろう。あとの半分は人間の渦巻をつくるために、本誌を売ったグループの資金にしてもらう。それで採算がとれるかどうかは判らない。しかし、取次店の驚くべき面倒くさい手続き、前近代的契約・支払い関係にたよるよりは、こうした運動と結びついた配布のやり方の方が、さきにのべたような運動の基本的あり方にずっとかなったものであることは確実だと思う。
 4・28から6・15へ向けて、私たちはこの新しい「週刊アンポ」を安保の渦をつくるための強力な武器にするよう努力するだろう。そして、その運動とともに、財政面においても、運動の発展を保証しうるような基礎をつくってゆきたいとねがっている。
(おわり)

【お知らせ】
今年から、ブログ「野次馬雑記」は隔週(2週間に1回)の更新となりました。
次回は3月31日(金)に更新予定です。

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映画監督の鈴木清順氏が先週亡くなった。享年93歳。
ご冥福をお祈りする。
鈴木清順氏は私の好きな映画監督の一人である。
最初に観た監督作品は「けんかえれじい」。
1972年7月、当時銀座にあった映画館「並木座」で観た。2本立てで、もう1本は藤田敏八監督の「八月の濡れた砂」だった。
この2本ともとても印象に残る映画だったが、「けんかえれじい」はDVDを買って持っている。

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鈴木清順監督作品は、あと2本観た。「ツィゴイネルワイゼン」と「陽炎座」である。「夢二」とともに浪漫三部作と言われているが、これも3本入りのDVDボックスを持っている。

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この3本の中で特に気に入っているのは、泉鏡花原作の「陽炎座」(1981年)。この泉鏡花の小説は読んだことがあるが、独特の文体とも相まって、泉鏡花の夢幻的な世界が繰り広げられる小説である。鈴木清順監督がこの「陽炎座」を映画化したということで、有楽町の映画館に封切りを観に行った。小説の核心となる芝居小屋の場面をどう映像化しているのか、それを楽しみにして観た。映画の後半の芝居小屋の場面は正に泉鏡花の世界。「清順美学」の映像に背筋がゾクゾクしたことを覚えている。

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(「陽炎座」パンフレットより)

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(「陽炎座」パンフレットより)

今回のブログは、朝日ジャーナル(1971年7月30日号)の「現代歌情」という欄に掲載された鈴木清順監督の文章である。
内容は、歌手の北原ミレイが歌った曲「ざんげの値打もない」について、曲のイメージを基に書かれたもので、歌が上手いとか下手とかの評論的な内容ではない。
鈴木清順監督の映画作品を観るように読んでもらえればと思う。

北原ミレイのデビュー曲「ざんげの値打ちもない」(1970年)
作詞 阿久悠 作曲 村井邦彦 

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(朝日ジャーナル)

【現代歌情「ざんげの値打ちもない」 恐怖が似合う少女幻想 鈴木清順
 朝日ジャーナル 1971.7.30
<青い少女・色のない少女>
少女の印象は青い。桃の実の青さである。明るい太陽の光にすかすと、うっすらと金色に輝く柔らかいうぶ毛にさす青さである。硬い青ともいえるが、また濁りのない赤い血をひそませた静脈の恥じらい多い青にも似ている。少女のうしろは無限に広がる曠野である。曠野にはタンポポが一つ、二つ、三つと咲き、あとは一面の牧草である。これは是非なく濃い緑の牧草でなければならない。あのいがいがした雑草は少女には気の毒であり、牧草の刃のような葉の方が、先鋭的な少女の精神にぴったりする、それとも色をさけた方がいいかもしれない。それは空との釣合いからだ。青い少女は群青の空を独占する。一点のしみも縞目も許さない澄明な青い空である。少女の気位がそうさせるのだ。だとすれば少女の立つ曠野は、ぎんねずの砂漠である。あらゆる自然の感情、恐怖、凶暴、生、死、憧憬、希望、愛を隠蔽した砂漠である。あとは少女の左手か右手に一束の花を持たせればいい。
 少女は鉄道の柵にもたれて遠ざかる汽車をみつめている。陽が落ちてもまだ真っ青な空が残っていた。今日が過ぎ明日が来ても、日が月に変わり新しい年が来ても、汽車の煙が散って行った地平線をみつめたまま、少女はいっこうに動く気配を見せなかった。
 その日少女は、白いセーラー服に真っ赤なネクタイを結んでやって来た。大勢の父兄や僕たちに一礼すると、少女はピアノに向かった。大きな磨きこまれた黒いグランドピアノだった。うしろ向きになった少女の顔がピアノの裏に映っているのが、僕の席からよく見えた。少女は軽く息を吸うと、やがて「乙女の祈り」を弾き出した。
 それっきり少女は学校に来なかった。少女は国境を越えて遠い国に行ってしまった。僕は学校が終わると毎日鉄道の柵のところに行った。あたりを見廻し人のいないのを見澄ますと。それでも大きな声は出せず、小さな声で少女の名を呼んだ。そして少女の声が返って来はないかと、いつまでもいつまでも、レールの上に耳をつけて待っていた。
 白い少女の像である。岸田劉生の「村娘於松之像」や「麗子の像」のふっくらと可愛さをつつみ込んだ、今にも風邪をひきそうなふくら雀の暗く落込んだ雪雲を呼ぶ景色とはまるで違っている。暗い赤や紫や茶を一切よせつけない緊張を持続する細い琴糸のように鋭敏に音を響かせる青い皮膚を持つ像である。小麦色や桃色や緑色の少女も私の前をよぎって行ったが、いずれもぼんやりと不透明で、私の少女はえもいえぬ青だ。少年から青春時代に、そして壮年に、私はこの青い少女に牡蠣みたいにしがみついて来たし、これからもこの青を犯す者があれば、必死に抵抗するだろう。
 本堂の改修にあたって、それに付属していた小さな応接間を鳶職が壊した。むき出しになったコンクリートの土台石を見て、かって私が結婚したいと思った少女がそこにいたのを思い出した。和尚の孫の初節句の日で、私も少女も招かれ人だった。私と少女が顔を合わせたのは、さよならを言う別れの時だった。私は私の親戚の輪の中にいたし。少女は少女の親戚の輪の中で好き勝手なことをしていたからだ。一度少女はすすめられて踊った。恥ずかしがる素振りも、嫌がる気配もみせず。ごく自然に立上がった少女が気に入った。しかしこの少女に色はなかった。踊っている間も、さよならを言う時も言ったあとも、少女には微塵も色のかんじがなかった。直截的な色をかんじさせない少女は悲しいものだ。それ以後私は二度と少女に会っていない。結婚をしたいという思はゆい気持ちだけが、あこがれのようにいつまでも残ったが、ついに少女の顔も姿もあぶり出しの絵のようにはかなく消えた。
 青い少女も色の無ない少女も歌はなかった。私も少女のために歌った覚えはない。ただ一刷けの青い色が、私の顔から胸にかけて斜めに私の体を斬りさいていた。

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<黄色い厭な少女の靴>
地下鉄の車両の箱の向こうの方で、髪を長く垂らし緑の紗に同じ色の花模様をぬいとりしたミニを着た少女が、前にいる同じ年恰好の少女に見えすいた表情をつくりながらさかんに話かけている。少女の目の大部分は車内広告に行ったり、まわりの男たちに行ったり来たりしている。その間ものべつまくなしにしゃべり、申しわけ程度に相手の少女の顔を見る。顔立ちはそう悪くはない。箱のこちら側にいる私には、少女のよく動く口だけが見える。

 「あれは二月の寒い夜
  やっと十四になった頃
 窓にちらちら雪が降り
 部屋はひえびえ暗かった
 愛というのじゃないけれど
 私は抱かれてみたかった」

あれは二月の寒い夜・・・覚えたばかりの歌を少女の口に合わせてみた。
やっと十四になった頃・・・歌はテレビのアフレコのようにぴったり少女の口に合った。
愛というのじゃないけれど・・・少女の両手がそれらしい動き方をした。
私は抱かれてみたかった・・・とうとう少女は含み笑いをしたー私は気持ち悪くなって歌をやめた。同時に突然少女の靴がうつむいた私の首を闇討ちのように襲って来た。地下鉄の少女の靴ではない。見たこともないやっと十四になったばかりの少女の靴である。私は女の靴が大嫌いだ。女の足に似てくずれた形はよこしまで、きたなく、おそろしげである。その先のとがった黄色い厭な少女の靴が、ひえびえとして暗い部屋のたたきに並んでいる。ささくれだち皺のよった皮が淫らである。地下鉄の少女も歌った。そして黄色い靴の少女も歌う。これが新しい時代の少女の像なのか。抱かれてみたいと歌う少女たちは、受け身の恥じらいもおののきもなく、きわめて能動的即物的である。
 「あまり見たさにそと隠れて走(は)して来た 先放さひなう 放してものを云はさいなう そぞろいとうしうて 何とせうぞなふ」
 駆けて来る女の素足の白さ、胸のときめき、息づかい、「何とせうぞなふ」という甘い切なさ、うれしさ。放して、放してといいながら抱かれていたい気分、みやこの騒々しさ、広がる空―室町以来わび、さび、えんといった情緒を美しく引きずって来た日本に、遂に色を必要としない少女がとび出して来た。 
 少女はさらに自分の筋書通りに事をはこぶ。言葉も流れもますます説明的に聞こえてくる。

「あれは、五月の、雨の夜、
  今日で、十五というウ、時に、
 安い、指輪を、贈られて
 花を、一輪、かアざられて、
  アーアイとオ、いうのじゃ、ないイけれど、
  ワータシは、捧げて、みイたアかアった。」

 とうとう来るべきところに来てしまった北原ミレイちゃん。それもミレイちゃんは十五の少女だという。あの小面憎いまんまるの樫山文枝がおはなはんか、おはなはんがあの小面憎いまんまるの樫山文枝か、ミレイちゃんがあの黄色い靴の少女か、あの黄色い靴の少女がミレイちゃんか、ファンはかんたんに黄色い靴の少女の側に立ち得るものである。それは盆踊りのくりかえしの輪の中にだれでもついと参加出来るのと同じ具合に、くりかえし、くりかえしミレイちゃんの歌を歌っているうち、ミレイちゃんもファンも黄色き靴の少女もそれぞれの性格を失い流れてゆくところに、流行歌の新しい性格が決められてゆくのである。

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<白いセーラー服があれば>
 処女喪失という謎めいた悲しい十五歳の経験が、ミレイの体にかんじられない。十四から十五へと余りに早い時の流れである。安い指輪の色、一輪の花の色を不安と希望のうちに歌いこめてこそ、ミレイの喪失の無常がそこはかとなく漂うのだ。詩や曲が説明的であるからといって、ミレイまで説明的であっていいはずはない。色を必要としない少女におぼろな色への憧憬をかんじさせてこそ、歌は歌なのである。アテレコ式に口の合うのは、地下鉄の少女ばかりではない。ごうつくばりの皺くちゃ婆にもミレイの歌はぴったり合ってしまうのだ。皺くちゃ婆が「捧げてみイたアかアった・・・」と歌えば都合が悪いだろう。

 「あれは八月暑い夜
  すねて十九を越えた頃」

 ミレイは女になって捨てられた。そして男を刺し殺した。絢爛たる堕落者ミレイがようよう姿を見せ始めた。ちらちらと降っていた雪やかざられた一輪の花が、急に青い少女と青い少女の悔恨となって思い出されてくるのである。ぎんねず色の砂漠に封じ込められていたさまざまな情念がうねりながら、かって目に見えた印象を感情の大波に変えてしまうのである。降っていない雪が窓に降り、花のない部屋に花があり、とうに捨ててしまった安い指輪が細い指に光り、ミレイは全裸で殺しの時間を待つのである。あるいはもし白いセーラー服があればそれを着たろう。時間はかってない程美しく、悲哀のかげをはげしく落として流れる。平凡なミレイの顔はたちまちのうちに古楽面の、若女(にゃくにょ)に変わる。彫りの深い面である。色も美しい。そして何よりものびのびとしたほほえみの表情の額から小鼻にかけて、鼻から口、顎にかけて走る二つの亀裂が、破滅的ドラマの主人公であるミレイの心情をより凄面たらしめる・・・・・。
 ・・・・・といっても言葉は常に孤独である。同じように流行歌も孤独である。孤独の線を越えてあれこれ詮索するとバカらしくなる。流行歌は心の隙間に吹く風である。
 ミレイが絢爛たる堕落者だろうと、黄色い靴の少女だろうとかまわない。ミレイはミレイだ。また「愛というのじゃないけれど」が愛の反語だといっても始まらない。反語だからミレイが男を殺し、刑務所に入って再び男のもとに帰って来る徒な心を、「話してみたかった」という短い言葉に表現したと語る作詞家もいないだろう。ただ私は十四や十五で男に体を捧げる少女がけがらわしいのだ。それでなくても色を必要としない少女が多過ぎるのだ。

<彩色刷の艶冶な挿画は>
 夢二の「丘の上の少女」は、たとい将来の堕落者であろうと、目も絢に堕ちてゆく女の危険を感じさせぬ甘美な清冽な少女である。少女は女から女へと移ろって行った夢二が犯してはならない最後のあこがれの女だ。
 「まてどくらせどこぬ人を
  宵待草のやるせなさ
  こよひは月もでぬさうな」
 夢二の詩が流行歌になると、早速映画になるのは、昔も今の変わりはないが、夢二はこの詩のポスターを書いている。「芸術家はもう沢山だ」といい切った夢二にしてみれば、当り前なことかもしれないが、流行歌に似合った絵を探すことは容易ではない。
 「潮来出島のま菰の中で、あやめ咲くとはしをらしや
  女郎いたこぶし何をいふてもまだ年若でョ、ぐわんぜないのがわしゃかはい」
 江戸で流行った流行歌の潮来節に似合うのは浮世絵であり、葛飾北斎の彩色刷の艶冶な挿画が残っている。そして江戸の浮世絵師は、しばしば川柳や狂歌とタイアップして絵の素材としている。
 最近もっともぴったり似合ったのは「泣いてくれるなおっ母さん」の東大五月祭のポスターだが、詩の方が流行歌とならなかった。ミレイちゃんの歌を聞きながら、つげ義春や林静一や池上遼一の漫画をみていたが、どれもぴんと来なかった。そのうち「あれだ」と思い当たってその雑誌を探したが見つからなかった。少女劇画である。描いた人の名も覚えていないが、少女受けのする例の目のぱっちりした女の子と祖母の話である。悪漢に追われた二人が焼場のかまの中にかくれる。祖母の方には既に屍体が入っている。それとは知らぬ隠亡が火をつけ、祖部は生きながら焼かれ、悪漢が来たので少女は出るに出られぬ恐怖が続く絵だ。流行歌に余計な詮議だてが不必要なように、この絵とミレイちゃんの歌がぴったりする理由を挙げる必要はあるまい。ぴったりのかんじがする。恐怖の上にミレイちゃんの歌がうまく乗るのである。
 ミレイちゃんは今刑務所でキリストと話をしている。男ののろけだろうと、男への恨みだろうと構わない。ミレイちゃんは神を信じたのだ。歌謡は古来神への賛歌から始まったのだ。私の神が青い少女である。
(すずき せいじゅん 映画監督)

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以前、重信房子さんを支える会(関西)が発行していた「さわさわ」という冊子があった。この冊子に、重信さんが「はたちの時代」という文章を寄稿し、連載していた。「はたちの時代」は、重信さんが大学(明治大学)時代を回想した自伝的文章であるが、「さわさわ」の休刊にともない、連載も中断されていた。
この度、「さわさわ」に掲載された部分と、未発表の部分を含めて、「1960年代と私」というタイトルで私のブログで公開することになった。
目次を付けたが、文章量が多いので、第一部の各章ごとに公開していく予定である。
今回は、第一部第六章である。
なお、今回掲載の第六章は未発表のものである。

【1960年代と私*目次 重信房子】
第一部 はたちの時代
第1章 「はたちの時代」の前史として (2015.7.31掲載済)
1 私のうまれてきた時代
2 就職するということ 1964年 18歳
3 新入社員大学をめざす
第2章 1965年大学入学(19歳) (2015.10.23掲載済)
1 1965年という時代
2 大学入学
3 65年 御茶ノ水
第3章 大学時代─65年(19~20歳)(2016.1.22掲載済)
1 大学生活
2 雄弁部
3 婚約
4 デモ
5 はじめての学生大会
第4章 明大学費値上げ反対闘争(2016.5.27掲載済)
1 当時の環境
2 66年 学費値上げの情報
3 66年「7・2協定」
4 学費値上げ反対闘争に向けた準備
第5章 値上げ反対!ストライキへ(2016.9.23掲載済)
1 スト権確立・バリケード──昼間部の闘い──
2 二部(夜間部)秋の闘いへ
3 学生大会に向けて対策準備
4 学費闘争方針をめぐる学生大会
5 日共執行部否決 対案採択
第6章 大学当局との対決へ(今回掲載)
1 バリケードの中の闘い
2 大学当局との闘い
3 学費値上げ正式決定
4 裏工作
5 対立から妥協への模索
6 最後の交渉─機動隊導入
第7章 不本意な幕切れを乗り越えて
1 覚書 2・2協定
2 覚書をめぐる学生たちの動き
(以降、第2部、第3部執筆予定。)

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(写真 本校記念館前バリケード)

【1960年代と私 第一部第六章】
六 大学当局との対決へ 66年〜67年
1) バリケードの中の闘い
 大学当局は私たちがスト権を確立し、バリケードを築いた頃、どんな動きをしていたのか、宮崎学生部長の本から、追ってみました。11月26目には生田校舎でも又、神田の大学院でも大学評議会の開催が学生側に阻止されて流会となっていました。30日の団交を控えていた頃です。
 先述したように、66年10月から11月の学生側の要求に対して、進歩派と言われた小出学長は学費値上げを再考していました。「どうだろうねえ、こういう状況になっては、学費値上げは、もう取りやめようじやないか」と、宮崎学生部長に切り出したのです。それに対して、宮崎先生は即座に、反対をとなえて、その考えを封殺してしまいました。
 そして、ストライキになって評議会開催が出来ないままの事態に対して、大学側は、「臨時連絡協議会」を設置したそうです。(構成は、常勤理事、一・二部教務部長と学生部長で、「その性格は、法人と大学(教学)の間の連絡・調整機関とされ、学長が中心となって運営し、学長に事故があるときは、教務担当理事が代わることとされた。」)そして、学生の昼間部夜間部のスト権確立とバリケード封鎖に対して、12月1日付で、休講を告示しました。「11月30日、記念館において、理事会と学生会の間で行われ教職員も参加した『学費問題全般』に関する話し合いは、午後9時15分ごろ学生側から、話し合いが打ちきられ引き続き一部学生は、大学を占拠する実力行使を行うに到った。午後、10時25分、学生側は、大学院、小川町校舎を除き、一号館二号館、四号館五号館七号館九号館十号館十一号館および図書館を障害物でもって封鎖して、教職員の出入りを拒否する状態に立ち到った。12月1日、学長は告示を発し大学の正規の授業を力によって妨害しないよう要望したが、学生側がこれを聞き入れないので、やむなく休講の措置をとった。昭和41年12月1日 明治大学」と告示されました。又、バリケードによって、大学構内に入れない分「昇龍館」という神田の大学近くの旅館を学生部臨時本務所兼宿舎としていたようです。ここで、学生側の昼間部全学闘争委員会の大内義男(工学部)副委員長福島英昭(経営学部)小森紀男(政経学部)書記長は菅谷俊彦、夜間部全二部共闘会議議長は酒田征夫(政経)岡田征昭書記長(研連委員長 文学部)と、コンタクトをとっていたとのことです。そして、昼間部が主導権を握っていると思われたと、宮崎先生は記しています。当初は、昼も夜も基本的に共通した学費値上げ白紙撤回を求めていたので、恒常的連絡は昼間部がとっていたのでしょう。
 私たち二部の新しい学苑会執行部は、まず民有の高橋中執との引き継ぎを求めました。当時は新執行部を認めずに、印鑑や会計なども引き継ぎを拒み妨害活動に出てくることも、私たちは想定しましたが、整然と多数決で学生大会が行われたのは衆知の事実だったので、潔く、日共側も引き継ぎに応じることになりました。
 66年に学生が管理運営権を持っていた学生会館には、これまで三階に私たち研連執行部と高橋学苑会が隣り合わせにいました。その新しい学苑会室から、日共民青系の人びとに替わって、私たちが執行する役割につきました。私たちは、民有執行部と誠実に引き継ぎを行いました。歴史的な各議案や決議、備品に学苑会の財産日録、それに会計。私は民青の財政部長から、学苑会の残高確認の上、帳簿も引き継ぎました。彼らは、バリケード封鎖に対して「学苑会民主化委員会」をつくりましたが、後に党内の中国派内部抗争で、力を失っていきました。私の知る限り民青の中心をなしていた社研は、中国との友好を訴える人びとが多かったのです。彼らは、後に活動から身を引いたのか、大学でも見かけなくなりました。
 二部の私たちの砦は、バリケード封鎖した大学の学生会館に隣接した11号館が中心でした。学生会館全体を学生が掌握していたし、その三階に神田地区の昼・夜間の執行部がいました。この執行部と別個に、学費闘争の機関をつくっていました。二部は、学苑会の他に、「全二部共闘会議」として、学費闘争を闘うことにしていました。
 当時、学校当局・学生部や学生課とはパイプもあり、私は、財政として学生課の担当と予算決議にそった預かり金(入学時、学費納入時、大学側が徴収している学生自治会費や助成金)の、受け取りなどで、頻繁にやりとりをしていました。又、大学当局の備品の使用持ち出しや教授の研究室への立ち入りは禁止し、執行部が安全管理するという方式で、昼間部がその責任を負っていました。私は二部共闘会議執行部に加わらず、学苑会の仕事に集中していたので、学館に居ることが多かったのですが、学館前の広場に面した商学部などを中心にして多くの学生が、バリケードの中に泊まり込み態勢をとっていました、夜間学生は、そこから会社に出動する人も多くいました。当時の学生やバリケードの様子を考えると、69年以降、東大闘争を経たやり方とは違っています。66年の私たちは、学生大会の決定に自らを制約されることを大切にしていました。反対派と同じ学内や学生大会で、論争しながら妥協点を見つけていくような闘い方です。学生大会などの決議機関を無視して、力の論理で占拠し闘おうとする党派的な活動体制は、全共闘運動の流れに乗って東大闘争への党派的支援の方式の中から、68年秋以降強化されたと思います。
 明大の66年の私たちのバリケードストライキ闘争は、自らがバリケードの中で、秩序を自主管理としてつくり出さなければならないという考え方に立っていました。当時の明大の政治的環境は、第一に出来たばかりの学館の管理、第二に60年代から日共系職員と党派闘争を繰り返しながらブント系が維持していた生協活動もあります。第三に再建大会途上の全学連の主力をなす明大社学問の役割。そうした社会的条件に規定されていました。
 バリケードの中の日常活動は、自主管理カリキュラムに基づいて講演会や学習会、討論会、又、サークルの発表会などが盛んに行われていました。初仕事は直ぐ貸し布団屋から、確か200程の布団を借りたのを憶えています。これらは、自治会費で支払うのですが、バリケードの中に布団をトラックで運び込んで宿泊に使うためです。その後も私の財政部長時代(66年〜67年)必要に応じて、よく貸りていました。もう、値段もすっかり忘れてしまいましたが、神田にあった貸し布団屋とは、私が一番なじみだったでしょう。学館前の11号館に200の布団を運び込んでも、足りなかったと思います。
 夜間部は、夜、バリケードの入口にドラム缶で焚き火をしながら、監視門衛のローテーションを組んでいました。見回り組、他は学館前広場で大きな立て看を、いつも誰かが書いていました。又、当時は鉄筆とガリ版でビラを作り、それを一枚一枚謄写版で刷り上げる作業も、あちこちで行われていました。大学は休講でもサークル活動やその為の活動の場は、狭い部室のみならず、バリケード中の広い教室の空間で、軽音楽やジャズ研や空手まで、広々と練習出来たし、各研究部の発表会も自主講座に組み込みました。明大二部の演劇部は、GちゃんH君と、ヒッピーの始まりをつくったと称する人びとがいて、彼らも自主管理に参加し、不思議なパフオーマンスをやったり新宿西口や風月堂へと、ヒッピーを広げていくころです。唐十郎とか寺山修司が語られ、キューバのゲバラとカストロのどちらが革命的なのかを論争し、朝鮮文化研究の展示会や、ごった煮のよさがありました。民青も反対しつつ、共同しています。学館二階には、「談話室」と呼ばれるロビーのような空間があり、自動販売機も置かれてコーラとフアンタを売っていました、又、生協の食堂も学生の要求で開いていました。冬の寒い中、ジグザグデモを一日2〜3回はやって、気勢をあげ、お茶の水駅で市民や店主への呼びかけやビラを撒いたりしていました。
 バリケードの中には、いろいろな人が来ていました。講演に呼ばれてその後、気に入ったと、左翼評論家で泊まり込みに加わる人もいました。近所の文化学院の学生や高校生も、バリケードの中で、人生相談に来て、居心地がよいのでずっと加わっていました。サイケ(サイケドリックから採った)と呼ばれた家出してきた高校生の少女は、バリケードの中で、抽象圓を描いては、学生たちの演説アジテーションや討論をじっと間いていました。みんな、お互いに興味を持ち、悩みを聞き合い、又、次々と当局との闘争方針を打ち立てては、交渉し又、闘争し会議する、という日々を12月から年末年始1月中ずっと続いていました。
 寒い冬、学館のプラタナスの木の下には、いつも屋台が留まっていてお金のある人はラーメンを食べることが出来ました。又、直ぐそばにスナックも、ストライキの後に開店していて、3時過ぎまでやっていました。これらは公安当局に関わりのある者たちだという噂でした。当人の一人が「公安に頼まれて情報収集している」と打ち明けたとのことです。それ以来、そうした店は、行かないようにしていました。又、お茶の水の学生会館の側の店に学生たちの主張を伝え、協力をお願いします、と訴えかけていました。おかげで、後にも、学館にガザ入れがある時には荷物を預かってくれる店もありました。
私の生活は、当時アルバイトで、2万円くらいだったのだろうと思います。当時は時代としてまだ、ズボンを履く習慣がなく、学校に泊まるようになって、スラックスを履くことがありましたが、通常はスカートでした。もちろん、ヘルメットも被りません。そんな時代です。、
当時の私は、研連の岡崎さんに替わってMLの酒田さんを推して学苑会中執の委員長に人事案をつくったように、ML派とは親しくやっていました。ところが、当時、バリケード闘争が始まると横浜国立大闘争のMさんが頻繁に明大に訪れて指図をするようになつてきました。私はこのMさんの押し付けがましさに我慢ならず、反論すると「君の意見は社学同の意見だ」と批判されたりしました。はて、社学同?そうか、私の意見って、そうなのか?レッテルを貼られて、社学同の教育政策を読みましたが、どこが同じか分かりませんでした。でも、尊大なこのMさんが嫌いで、ML派と距離を置くようになりました。

2)大学当局との闘い
こうしたバリケードの様子は、常に当局との激しいやりとりと対峙のなかにありました。
12月2日には、宮崎学生部長を先頭に、神田駿河台正門の前で、バリケードを撤去せよと、呼びかけていましたが、その時には直ぐ正門の91番教室では、「学費値上げ阻止総決起集会」が聞かれていて、二部の学苑会もバリケード闘争に入ったことで連帯の挨拶を共同して行なっていました。宮崎学生部長によると、12月2日には、臨時連絡協議会を開いたのですが、小出学長が「このような緊迫した情勢になりましたが、多数の方から意見を出して頂き、皆で円満に会議を進めていって下さい。」と挨拶されたのだそうです。それに対して、宮崎先生は「円満とか言っている湯合ではありません、まさに異常事態なのです、このような場合意見が衝突して当然です。大勢を集めればいいということではありません。秘密にわたることもあり人数をもっとしぼるべきです」と、突き上げたようです。会場はシーンとしたと、宮崎先生の話。ここでは、学費改訂を理事会は早くしたいというのに対して、学生部長は、決定は出来るだけ遅くすべしという意見であったということです。
12月3日には、全学闘争委員会の大内委員長、菅谷書記長と学生部長は大学院の木村研究室で会い、学生に必要な教務事務が行なえるように職員を立ち入らせることを確認し、立て看板を道にはみ出さないとか、机を燃やしたりしないなどを確認しています。もちろん学生自治会側は研究室を占拠したりしない点は、自主管理として徹底していました。一方、12月5日には、「学生との話し合いについて、a理事会は、当面学費改訂案発表まで学生との話し合いを続けていくが、これまでのような形式では、会わない。b理事会の意志を伝える場を持つために、学生部を通じて、理事会の希望条件を付して話し合いの申し入れを行う。その期日は、12月8日とする。 c話し合いの場については、第一案は学外の適当な場所、第二案は記念館講堂とする。d全専任教員を招集するよう措置する。一般学生への通知方法は、掲示およびビラを用いる。」などを秘密厳守で確認したとのことです。もちろん、私たち学生は、そうした動きは知りませんでした。
この12月5日には、中大でも学生大会でスト権が確立されました。私たちは、すぐ側の中大にみんなで見に行ってお互い喜びあったものでした。中大に駆けつけると、偶然中学時代のクラスメートの女性に遇いました。でも、喜んで抱き合ったのもつかの間、「あなた!味岡自治会の方ね!」と睨みつけて行ってしまいましだ。 「味岡自治会って何だろう?」その時には、わかりませんでしたが、反日共系のことを、なじっているのはわかりました。彼女は民青になっていたのでした。
12月6日には、5時から評議会が開かれる予定と聞いて学生200人が大手町の会場を占拠して、流会させました。この8日に、学生と理事会で記念会館で話会うことを決めました。ところがその後、理事会が話し合いの条件としてバリケードを正面は撤去せよ、というのを出してきたため、学生側 は、それは出来ないとこたえました。そのため、当局は朝日や読売新聞に8日話し合い中止の広告を出しました。学生側は、理事会のー方的なやり方に抗議して又、10日に記念会館団交を申し入れました。理事会と学生側は、こうして交渉や応酬を繰り返し、13日、又、大手町の会場で開かれる評議会で学費値上げ決定が緊急動機される恐れありと、再び200名が会場になだれこんで、三たび評議会を流会させました。
12月15日付の明治大学新聞は次のように書いています。
「11月24日から相次いだ和泉・生田・神田の三地区施設(大学院・小川町校舎・和泉教職員研修館を除く)の学園封鎖にともなう学生の自主管理は、その後、平穏に続き、バリケード内では、クラス、ゼミナール、サークルなどの単位による討論会。講演会(講師として福田善之(劇作家)丸山邦男(評論家)石堂淑郎(シナリオライター)津田道夫(政治学者)氏らがよばれた。)が自主的に行なわれている。また、全学闘争委員会(委員長大内義男 工3)や文連・研連なども連日集会やデモを行なっており、また執行部の交代でやや立ち遅れていた二部学生自治機構学苑会(委員長酒田征夫 政4)も、ようやく活発な動きをみせ始めた。今までのところ、学園封鎖をめぐるトラブルはみられない(中略)この間、教職員側も各教授会をもつなど事態収拾に取り組み、二、三の学部では、声明文を発表するなど、問題解決への積極的姿勢をみせている。5日には午前11時から本郷の神田中央ビルで、武田孟総長、小出学長による各紙記者会見が行われ、(1)学費値上げの基本方針は変わりない。白紙撤回は考えていない。(2)学生と主体性もって話し合ってもよい、(3)専任教員の増員と質の向上、奨学制度の拡充、課外活動の助成増加など、学生への還元を考えていると語った。一方学生側も同日5時から、駿河台学生会館の四階和室で、斎藤克彦反日共系全学連再建委員長(商4)などが出席して、各社記者と会見し重ねて、現計画の白紙撤回を要求した。席上、学生側は、記者側の質問に答えて『現在は、各大学など外部からの支援は、すべて断り明大の学生だけで闘っている。しかし、法人側が官憲を含めて、学外協力を介入させたら、われわれも外部からの支援申し入れを断らないだろう』という注目すべき発言があった」と記事で述べています。 。
 この頃、各教授会から、学園封鎖解除と理事会との話し合いを求める声明が続きます。「昭和42年度の、学費改訂は、理事会と学生会との間でとりかわされた7月2日の確約書」を尊重して、値上げ決定以前に学生と十分に話し合うこと」を、各教授会は求めていました。そして、外部介入(警察導入)を行わないように訴えています。又、田口富久治・木下信男・永田正ら進歩的な教授は、私学危機は抜本的な再検討を行うこと、又、一大学内においては解決しえないので、国庫助成運動を行うようにと、呼びかけていました。それに対して、学生側は反対し、日共系学生サークル、学部自治会のみ賛成しています。

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(写真 和泉校舎正門バリケード)

3) 学費値上げ正式決定
そして、理事会は学生側の話し合いに応じないまま、12月15日、束京プリンスホテルで、理事会を行って学費改訂を決定しました。そして夜、記者会見でそれを発表。宮崎学生部長にも、そのことは事前に伝えず、決定後、「昭和42年度以降の入学生に学費等の決定について」という文書を学生側に渡すようにと、昇龍館旅館に届けてきただけだったのです。理事会は、誠意がなく唯、学生を恐れていました。
結局、宮崎学生部長が学生会館に出向いてその決定書を、昼聞部と夜間部の大内、酒田両委員長に、学館前の路傍で渡し、値上げ決定通知を行いました。二人は、その楊でその文書に目を通した後、受領を拒否して、直ぐ文書を返却したと、宮崎学生部長は記しています。その長野国助理事長名の12月15日付の理事会の文書は、「昭和42年度以降の入学生に対する学費等の決定について」という文書です。それは、これまでの経過を自己弁護的に述べて、「やむを得ざる事情を諒らんとされんことを望んでやみません。」として別紙に、学費改訂額表を添付しています。主旨は、入学金授業料の改訂で、二部の学費は改訂しないとしています。入学金3万円を4万円に、授業料は文科系5万円を8万円に、工学部を7万円を11万5000円とするなどが記されています。このように、12月15日、理事会側は、正式に値上げを通告しました。
一方で、12月18日、記念会館で、「全日本学生自治会総連合会再建大会」行われています。「全日本学生自治会総連合会再建大会」明治大学新聞(12月29日付)では、「三派系・全学連が誕生」という書き出しで、当時の再建大会の様子が書かれています。
「今回の全日本学生自治会総連合会再建大会は、東大、早大、中大、同志社、三重大、和歌山大、広島大など35大学、171自治会が参加、『支配体制への攻撃』をテーマに徹底的な討論が展開された」としています、第1日日は17日正午から大田区区民会館、1500名。18日、2日日はバリケードの中の明大記念館。19日、最終日は再び大田区区民会館で、賛成178、反対なし、保留2(代議員182名)で可決しました。そして、21人の中執委員と、その互選によって明大からは斎藤克彦委員長と中沢満正組織部長が選出されています。こうした、全学連再建は、全国の模範として、明大学費闘争の勝利がかかっていました。冬休みを迎えつつ、バリケードは死守され、ローテーションを組んで神田地区だけで数百人の学生が泊まり込んでいました。こうして、66年は越冬闘争として、闘われて、新年を迎えます。

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(写真 生田校舎バリケード)

4)裏工作
明大学費闘争は、12月からストライキ自主管理闘争に入ったことで、丁度、再建された全学連党派の思惑も作用して、個別の大学の闘争の実情はどうあれ、非妥協性へ非妥協性へと運動が流されていく傾向にありました。
後に知ることですが、ブントは党派的利害からも、徹底抗戦で持久的に闘うことを主張し、中核派は一切の妥協を排した闘いを主張してブントの方針を批判していました。又、ML派は横国大のMら外人部隊が、明治の二部のML派を拠点として、党派的活動をしはじめました。バリケードの中の67年正月、私が財政部長をしている学苑会中執の隣の会議室を開けた時のことです。横国大のML派のMら外人部隊が中心となって赤い毛沢束語録をそれぞれが持ってお経のように唱和しているのに遭遇し、仰天してしまいました。ちょうど日本共産党は日共内の中国派との対立から、中国人留学生などの住む「善隣会館」の管理運営を巡って、暴力的対立となっていました。ML派はその「善隣会館」闘争支援から毛沢束思想に染まっていったようでした。以来、私はML派、ことにMを毛嫌いするようになりました。その分、文連や昼聞部学生会の社学同の人々とは、近しくなっていったと思います。
バリケードの自主菅垣の一方で、理事会は学生との話し合いは正門のバリケード撤去がなければ応じないとしつつ、12月15日、一方的に値上げを正式に表明しました。そして、それ以降、呼応して体育会の「学園正常化運動」も、日共民青系の「学園民主化」も、教授会の「理事会当局と学生双方の話し合い封鎖解除」も、激しくなり煮詰まっていました。
こうした中で、革命を求めて徹底的に抗戦せよというような乱暴で無責任な論理を押し付けられるように聞こえて、非党派の私達は悩みました。ノンセクトラジカルや研連、文連など昼間部執行部で話し合いました。全学生への責任を負う立場から言えば卒業したり学生たちの単位はどうするのか。白紙撤回以外の収拾はないのか?よその大学の党派介入は、当局の体育会のみならず、警察の介入をまねくのではないか?と、研連、文連など、いわば「良識派」の人々は危惧する意見提起をしていました。今からとらえると、情勢は民主的に学生大会で、収拾を諮る時が来ているのに、逆に、全学連再建大会を経て、断固非妥協に闘うという党派の競合と介入が、闘争方針をつくっていきました。このまま行けば自治も失う、というわたしたちのそんな考えは党派の者たちからみると、「学園主義」です。こうした妥協主義は日帝の帝国主義的再編に組み込まれるものだと批判されます。しかし、党派の要求通りにすすめば、権力の介入の力で学費値上げと入試は強行されてしまいます。逮捕者・退学者などを大量に出し、自治は奪われてしまうでしょう。
これまで、当局と対峙し、責任を負ってきた明大学生会中執は活路を求めていました。学生たちに責任を負わなければならない。又、一方、明大社学同のトップのものたちは、再建全学連委員長として全国的な闘いの先頭に立ちつつあり、明大の面子ある闘いの砦として、ブントの拠点として維持したかったでしょう。ブント以外の党派のものたちML派や徹底抗戦の中核派は断固主義でバリケード死守、入試粉砕まで闘うことを主張しています。今になって、当時の学生部長の考えや、資料から分かるのですが学園闘争を収拾したい、党派や外部の介入で右派や警察権力に粉砕される前に自治の場を取り戻し、妥協すべき点をみつけるべきだという勢力が、こうした12月の局面で動き出していたのでした。
私も全学意志をもって徹底抗戦することが可能なのか、悩みつついた頃です。「断固闘う」方向を問い「民主的に」学生を動員するために臨時学生大会でもやるべきか…、と考えていましたが、それ以上深い方向も考えていませんでした。私は引き維いだばかりの学苑会中執として体制を整える役割や研連のひきつぎも負っていました。
学費闘争の組織体「全二部共闘会議」には、中執の主要メンバーが中心になって構成し、私は、それに加わらずに学苑会固めの役割分担していたためでもあります。二部共闘会議議長はMLの酒田さん、副議長は研連の岡田さんもいましたが、政経学部の中核派の花田さんは、徹底抗戦派です 。全学連大会後は外部のML、中核派も来て徹底抗戦の主張が強くなっていました。
こうした時期、「裏工作」が始まったのを、2000年以降、逮捕後に当時の宮崎学生部長との話や本で知りました。右翼体育会や学生の正常化圧力の中で当時、他の党派の介入に対して自分たちブ ントの党派利害からか、又は純粋に責任感のためか個別明大の自治を守ろうとする人びとの動きです。
宮崎先生の本から「裏面工作」。が、浮かびあがってきます。宮崎学生部長によると、どのように紛争を解決していくのか先がみえなかったので、従来の学生部長経験者の先生方を昇龍館に招いて、お知恵拝借を、願ったそうです。新羅一郎、永田正、和田英雄先生らです。その中で、名案は見つからなかったのですが、新羅教授の言葉が後の宮崎先生を動かすことになったようです。「『宮崎君。戦争でもそうだけれどね。正面から向き合って対抗していたって埓はあかないんですよ。紛争のときには常に正面作戦と一緒に裏面工作を進めなくちや駄目なんだ。裏面工作やっているの』と、言うのだった。『裏面工作』?どうやって進めたらいいのだろうか?」と考えたそうです。直情径行の宮崎先生の頭にはなかった方針でしょう。その後、新羅先生が道筋をつけてくれたようで、新聞部OBのKから「先生、全学閥の大内君と会う気持ちがおありでしたら手配しますが」と、連絡があり、お茶の水駅から本郷三丁目の方の喫茶店で、始めて大内委員長と会ったとのことです。「二回めからは、千鳥ケ淵のフェアモントホテルの喫茶店。最初は情報交換で、双方ともその主張は公式見解に近いものだった。(中略)しかし、何回も話しているうちに、次第にお互いの苦労や気持ちもわかってきて、何とか打開の途はないものかと思った時、立ちはだかっている固い岩の中にわずかだが解決への可能性の細い割れ目の薄日のようなものが見えてきた。『大学をよくするために学費値上げが必要なのだよ』と言ったのに対し、大内君は『学費を上げても、大学の体質は変わらず大学は良くなりませんよ』とこたえたのだ。(中略)『それでは、学費を上げなければ大学は本当に良くなるのかね』『学費を大学の体質を変え、大学
を良くするために使用することを理事会側に確約させ、それを学生側もできるシステムにすることはできないか』」こんな風に話し合っていたようです。大学も又、迫ってくる卒業で、学校教育法による四年生の必要授業時間不足など、現実的問題が問われていました。バリケード封鎖のために卒業できない一般の学生たちに責任を持てない自治会でよいのか、大内さんも悩んでいたのでしょう。
こうして、双方の話し合いを重ねた上で「神田小川町校合の学生相談室で、予備折衝を行った。全学闘争委員会側からは大内君をはじめ、何人かの代表、学生部からも宮崎学生部長の他、副学生部長が話し合った。白紙撤回に学生は固執しつつ、妥結の方向に向かっていった。話し合いを公式の場に乗せるために1月20日に理事会と学生側が話し合うことになった。」(「雲乱れ飛ぶ」より)と書いています。

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(写真 アジビラ)

5)対立から妥結への模索
学生が学費値上げ白紙撤回を主張し入学試験阻止闘争を検討しているとして、1月に入ると、体育会の「学園封鎖抗議集会」が91番教室で開かれました。以来、理事会の動きと連動するように、学生自治会側に対抗して体育会の暴力リンチが始まりました体育会は1月14日「学園封鎖抗議集会」で宜言文を採択しました。一触即発の緊張が続いていました。理事会側が、値上げを公表してから、黒龍会の幹部と噂される右翼やくざの島岡野球部監督が動き出しました。体育会を動員して、団交でも前方座席を体育会に暴力的に振り分けるなど采配をふるい始めたのです。12月から1月にかけて、この動きが激しくなります。
1月18日に、全学闘争委員会と、学生部長による覚書きがかわされて、1月20日に記念館で、話し合いをもつことが決定されました。学生は教授たちに共闘を呼びかけました。「私たちは、教授会内の学費値上げに反対する良心的先進的教授諸氏に訴えます。腐敗・堕落した教授諸氏を弾劾し、私たちの共通の目的である『白紙撤回』獲得の為に、私だちとの固い連帯のスクラムの中で、最後まで闘って行こうではありませんか。」と。67年3月5日「朝日ジャーナル」によると、「定刻の3時間前に、記念館講堂は満員、まわり500入から1000人入れる4つの教室にはスピーカーで流したが、そこも一杯。お茶の水駅から長蛇の列、消防庁から抗議まできた。団交では、学生が教育のビジョンを要求すれば、理事会は経営の困難さを訴え議論は、かみあわない。この日もむなしく空転」と、記事になっていました。
この日は、恐怖の団交だったのです。島岡監督の指令を受けた体育会、柔遊郭や相撲部や野球部、レスリング部などが、前方座席に座る学生を暴力的に追放して、数百人分の席を占拠しました。そして、壇上で、学生側の発言が始まると「ウルセー・バカヤロー」「だまれ」などと妨害します。敗けずに学生の多数は、拍手して、壇上のみならず座席もゲバルト合戦となっています。そして、学生側も棒で徒党を組んで対抗措置をとりました。
その後、体育会側は、大学に要請文をつきつけ、「20日の記念館での混乱でおわかりになったように我々は、会場警備にあたっておりましたが学生一般及び体育会員の異常な熱気は、現状については、もはや体育会本部にしては制しきれない様になりました。この事に関し、大学側の今後とられるであろう処置についてどうお考えか、明らかにするよう要請します。1月24日 体育会本部」と、暗に警察の介入を求めています。
25日再び団交が行われましたが、600人収容の91番教室には、体育会ゲバルト部隊が集まりました。学生服の腕を白い紐で縛ってこれからのゲバルトに際して仲間同士の印をつけています。樫棒が運び込まれ、島岡監督が激を飛ばして一触即発の対峙状態でした。この時は学生会の全学闘争委員会も学苑会の全二部共闘会議も流血を避けて挑発に乗りませんでした。
再び、1月21日、26日、大内秀員長と学生部長は話し合いを持ち、打開を求めて、学生部長が個人的に「案」を提起して大内委員長も個人として、この筋でまとめていこう、と話し合ったようです。
この「案」をもとに話し合おうとしたことが、後の「2・2協定」妥結につながるものになるわけです。
その内容は、異常事態を解決するために双方努力すること。理事会は、学生の要求と話し合って、学内改善方針を67年3月までに決定すること。学費値上げ分は、別途保管して、3月方針の決定を持ってから予算計上する。それが同意されれば、1月30日から、授業再開が可能となるようにする、という内容です。
そして、「1月30日に学園が正常になった際は、報道機関を通して、大学と学生会との連名でもって、本学の新しい出発を声明するものとする」と、原案は述べています。この妥結実を、宮崎先生は「理事会側も学生側も、大筋において異論が無いようだった。ようやく、妥結への灯がほのかに見えてきたように思われた。しかし、この妥結案の内容を公開の場で確認する必要があった。学生側は、1月28日に和泉校舎で理事会側と学生側との公開の話し合いを行い、その場でこの妥結案を公表して妥結の方向にもっていきたいという意向だった。話し合いを行うことには、理事会側も同意した。朝日ジャーナル記事の中に『このころ、すでに斎藤克彦三派系全学連委員長と武田総長との間に裏交渉が進んでいた』(67年3月5日号)とある。学生部長・大内委員長の線とは、別に武田総長・斎藤委員長にも交渉があったようである。しかし、全学闘争委員会の委員長は、大内義男君であり、学生部長と大内委員長の話し合いが非公式交渉の主流であったと言ってよいだろう」と宮崎先生は書いています。
斎藤全学連にばかり目を奪われていましたが、大内さんは、学園正常化に集中していて、斉藤さんに同調していたというよりもむしろ、反発すら持っていたようです。歴史的にみると、こうして、妥結案をめぐって話し合いが行われました。大内さんの出身、工学部生田校合では、妥結を受け入れました。しかし28日和泉校舎では妥結反対の大衆団交と化していき決着が着きませんでした。決着は再び、29日、神田校舎に持ち越されました。
この宮崎・大内作成の妥結集は、各党派、ブントを含めて明大社学同批判が席捲していきました。値上げを前提としているからです。そうした中で、1月29日生田校舎ではバリケードは撤去されて、和泉では、妥結反対、神田の29日の団交は流会となりました。「学生部報・号外(1月31日付)」では、「1月29日午後4時記念館講堂で行われる予定であった学費値上げ問題についての会合(全闘委側回答をめぐる)が開かれる前に全闘委の学生たちと、体育会を中心とする学生たちとの間に乱闘が生じ、後者に13名の重傷者を含む負傷者46名を出す異常状態が現出されたので、記念館での会合は中止となった。」と述べています。二部共闘会議の学生たちが、二百数十人、棍棒ヘルメットで武装して、乱闘が行われたと、外人部隊を中心とするそれら勢力が、体育会を中心とした団交の前列に占める学生らを襲撃したと、号外は述べています。この号外では、その前段で、体育会が暴力で、座席占拠して、団交から、学生会支持の学生たちを追放した結果起こったことでしたが、それらは触れられていませんでした。
こうした、暴力流血に対し、打開にむけて理事会と学生側で湯所を移して話し合うことを学生部長の仲介で合意しました。そして、午後になって、大学院第一会議室で話し合いが持たれました これから、機動隊導入「2・2協定」に一気にすすんでしまう流れに突き進んでいきました。

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(写真 アジビラ)

6)最後の交渉一機動隊導入
流血の後、29日緊急に場を大学院に移した話し合いは、司会に宮崎学生部長と学生側長尾健。理事側:長野理事長、武田総長、小出学長他7名、全学闘争委員会:大内義男委員長、菅谷書記長他8名、全二部共闘会議:酒田征夫議長、花部利勝副議長他7名の参加です。
ここで、28日理事会提案に対して、全学生側の回答を得る場として当局は設定しました。しかし、学生側は白紙撤回を求めて 座り込み部隊300余名が、会議終結を許しません。十数時間後の30日朝、学校当局側(学部長会議)は、警察の出動を要請して、理事たちを「救出」しました。その直前までは、全学闘としても学園の正常化をしたい。次のことが認められれば、理事会提案を受け入れ授業再開のため、即時バリケードを解くというところまで合意が進みました。(1)理事会が教育・研究財政問題を根本的に解決する姿勢で努力すること、(2)値上げに関しては、実質的に白紙の状態に付しておく様希望する、というところで妥結に近づいていました。結局、「白紙撤回」という字句を認められないとするやりとりや、学生部長からの妥協案などのやりとりが続いていました。95番教室1000入、150番800入、140番1000入、各教室にはこのように、体育会を含む数千人の学生が膨れ上がって、成り行きをスビーカーで報じられつつ待っていました。1月29日夜10時前、妥結点と未解決点を確認して、会議を終えて、140番教室で学生・理事会双方が説明会を行なうことになりました。宮崎教授によると、二部の全学共闘会議と他校外人部隊が移動を阻止して缶詰状態になってしまいました。そして、「大衆団交をひらけ」「理事会は学費値上げを白紙撤回せよ」と、出室を拒否して、バリケードを築き、「つるしあげ」が延々と続きました。「機動隊がきた!」のデマで、浮き足立ったり混乱が深まって、夜が明けました。この頃学部長会議が、警察隊に30日朝7時、理事救出の要請を行なったのです。このことが会議場にも通告されました。昼間部の菅谷書記長は「退場してバリケードを再構築しよう」と、呼びかけました。それに対して二部の側が、継続を要求して対立し、昼間部は会議室から退場しました。しかし、機動隊が来ることがわかると昼間部の大内・菅谷全学闘執行部も会場に戻って、二部の学生だちとスクラムを組んで、インターナショナルを歌いながら機動隊をむかえました。大学当局は、理事救出の要請のみだったので、7時15〜20分、警察機動隊は窓を破って理事を救出し、撤収しました。こうして、結局、警察の介入に結果したわけです。30日、その日すぐ透かさず、理事会の意を受け島岡監督らが中心となって体育会を動員し、バリケード撤去に動きました。そして、その日のうちに神田校舎のバリケードはすべて解除されてしまいました。その上で、『学園は理性の場であり、大学内に棍棒などの凶器を持ち込むことは、大学に対する重大な侵害行為である。ただちにこれらのものを、大学外に持ち出し、所持者および明治大学教職員学生以外の者は、ただちに学外に退去するよう命令する。1月30日 明治大学学長』『本日、明治大学のストは、学生の手によって解除されました 1月30日 明治大学長』『全学闘争委員会、全二部共闘会議の解散を命じる 明治大学長』正門に通告告知がなされました。
 こうして、学生大会によって、決定された学生の闘争機関の解散を当局が命令するという異常事態に至りました。大学当局の暴挙にはげしく対立したのは、和泉と二部の学生指導部とブンドを含む党派の外部勢力でもありました。私のようなレベルの人々も、この機動隊で、逆に闘争の継続を強く主張するようになりました。
(つづく)

【お知らせ】
今年から、ブログ「野次馬雑記」は隔週(2週間に1回)の更新となりました。
次回は3月3日(金)に更新予定です。

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 重信房子さんを支える会発行の「オリーブの樹」という冊子には、重信さんの八王子医療刑務所内での近況などが載っている。私のブログの読者でこの冊子を購読している人は少ないと思われるので、この冊子に掲載された重信さんの近況をブログで紹介することにした。
当時の立場や主張の違いを越えて、「あの時代」を共に過ごした同じ明大生として、いまだ獄中にある者を支えていくということである。
 
今回は「オリーブの樹」136号に掲載された重信さんの獄中「日誌」の要約版である。(この記事の転載については重信さんの了承を得てあります。)

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独居より 8月15日 〜 11月9日
 
8月15日 オリンピックで新聞はスポーツ新聞のような記事満載のこの頃です。アラブの人々のエピソード。レバノン選手団のバスに後からイスラエル選手が乗ろうとして騒ぎとなり、別々に開会式に送ったとか、エジプト柔道選手がイスラエル選手に挨拶を拒否とか、きっともっと多くのことが起こっているのでしょう。アラブの人々からすると「良くやった!」と考えるでしょう。そうしなかったら「恥ずかしい行為」と非難されるでしょう。そういうのが一般的な意識です。「シオニズムに反対しユダヤ人に反対しない」と考えていても感情的には敵愾心が出てしまうのでしょう。
アラファトのオスロ合意の時の演説の一説にこんな言葉があります。「不当な扱いを受け歴史的な不公平に苦しんで来たという感情に終止符を打つことで、ふたつの民族と次世代の人々の間に共存と開放性が達成されるでしょう」と。でも「歴史的不公平」の苦しみが過去ではなく現在進行形ゆえに不信と許しがたいという感情が一般化したままです。パレスチナを支えるBDS運動(ボイコット、資本引き揚げ、経済制裁の頭文字で、イスラエルによるパレスチナ占領に抗議する国際的なパレスチナ連帯運動=編集部)が世界に広がれば広がるほど、連帯に反比例してネタニヤフ政権はBDS運動破壊に乗り出しています。外国人のBDS関係者の入国禁止や。クリントンはBDS運動反対を表明してシオニストに迎合中です。
 
8月16日 丁度受け取った資料で米黒人権利擁護グループ「ブラック・ライブズ・マター(BLM)」が最初の綱領を発表し、その中でイスラエルの占領政策を厳しく批判しBDS運動を支持すると表明したとのこと。日本の中にいてはパレスチナ連帯が見えないけれど、あまりの不条理なシオニスト・ネタニヤフ政権に対抗するパレスチナの人々への連帯は様々に広がり続けています。8月7日にはバルセロナ発の女性のみのガザ支援船アマル(希望)号とゼイトゥーン(オリーブ)号の二艘24人の乗務員は北アイルランド紛争解決でノーベル賞を受けたマイレッド・マグワイアーら女性たちです。ネタニヤフ政権は「我々はBDS活動家の入国を阻止し彼らが嘘をまき散らしイスラエルの評判を落とすことから防衛する必要がある」と内相が声明。ガザ支援の米キリスト教慈善団体「ワールド・ヴィジョン」のガザ責任者まで拘束中です。日本には届かない激しい攻防が次の中東の新局面を様々培養しているようです。
トルコとロシアの新しい関係、イランとロシアの新しい動き、ヌスラ戦線のアルカイダ脱皮の試み、IS陣地のイラク、シリア、リビアでの後退、様々絡み合って中東の変化がゆっくり進行しているようです。
(中略)
 
8月22日 台風9号で八王子は1時間200ミリ以上の大雨。午前中「千葉に台風9号が上陸しました」と言うラジオの放送の頃が最大で大雨。午後のコーラスは中止。
新聞に小さく「脱原発テント強制撤去」の記事。やられた! 21日未明、テントに5人居たところ強制執行。勿論、法律に守られた国家権力が、そろそろ攻撃壊滅を行うことは、皆覚悟していたことでしょう。それにしても、テント発生の根拠も責任をとらぬままに、「賠償金」まで奪い、「なかったこと」にして、再稼働・輸出へと原発政策の安倍政権。このテント撤去には、新しい主体的反撃の携帯が必要に思います。
(中略)
 
8月28日 台風接近中とかで雨の週末です。昼食後「のど自慢」の流れるラジオを聞きつつTV番組欄何気なく目を通していたら、TV朝日の夜7時「トリハダ㊙スクープ!!日本の事件スペシャル」で「日本赤軍の実録映像世界同時革命の全真相16年で9件の凶悪テロハイジャック航空機を爆破&空港100人乱射大使館占拠50人人質&犯人5人を釈放奪還&16億円を支払わせた超法規的措置VS政府」とあります。又一方的な話が語られているのでしょう。「新共謀罪」に向けてあれこれ、今後「日本赤軍凶悪テロ事件」も利用されそうです。(中略)
 
9月11日 再び9・11もう15年。あの直前の8月27日PFLP議長アブ・アリがラマッラ―でミサイル暗殺され、私の公判も本格的に始まろうとしていた頃でした。「反テロ」戦争が如何に誤りであったか。二十一世紀の方向を暴力に導いた結果、現在の空爆、IS退治、難民、排外主義の蔓延を直視すれば明らかです。一つ良い記事。当時3才だった911で父を亡くした息子がこうした暴力の連鎖に「テロ遺児」として自分だから出来ることもあるはずと今年京大法学部に入り紛争解決手段として国際法を学ぶとのこと。コーランを原語で読めるようにアラビア語、イスラーム思想史を授業で取ったところにこの人の非凡さがみえる。「将来、家族を亡くした中東の子どもたちに寄り添う活動をしたい」と。もう一つ嬉しいニュースはみんなの応援していた広島カープの優勝の記事。この親会社のない広島市民のチーム性が良いです。86日にも市民と同じように黙祷する心もあって。「読売株式会社巨人課課長原辰徳」みたいな独占は好みません。私も小学校の頃は兄の影響で紅梅キャラメルの巨人カードを集める巨人ファンでしたけど。そんなことを思い返しつつカープ勝利に祝!
 
9月17日 サブラ・シャティーラ虐殺の起きたベイルートの当時を思い返しています。激しい空爆下、パレスチナ解放闘争の生き延びる思想の実践の場にしよう!と、各々が現場や部署に分かれて活動した包囲下のベイルート。そして、米・イスラエル連合に、ついにベイルートからの退去を余儀なくされた82年夏。そして必ず、イスラエルの虐殺行為が起きるからと警告していたにもかかわらず、PLOの部隊を追い出すと、イスラエルに任せてさっさと退去した米・仏ら「多国籍軍」。イスラエルのシャロン国防相のゴーサインの下、パレスチナ難民キャンプに殺しにきたレバニーズ・フォース。その司令官ホベイカが、レバニーズ・フォースの権力闘争でイスラエル派に敗れてシリアに逃げて亡命。シリアに、当時の事情をイスラエルとの関係を含めてすべて告白。その後、90年代、国際刑事裁判所だったか、証人として出廷予定が迫ったところで、ベカーに出てきたところを暗殺されたホベイカ。新聞にはあまり扱われない事件が次々と起こるのがレバノン。今もレバノンやシリア、イラク、トルコと、権力闘争・陰謀がうずまき、何の落ち度のない人々が様々な理由、空爆や誤爆や戦争で殺されています。サブラ・シャティーラのキャンプの住民とは無関係な大統領就任式直前のレバニーズ・フォースの司令官、ブシール・ジャマイエルが爆殺された報復で殺されたのです。爆殺したのは、レバノンの彼らのライバル勢力であったのに。
りんどうの花はまだ元気です。
 
9月21日 久しぶりに雨が上がりました。ベランダ運動は滑らないようにゆっくりウォーキングして、走らないことにしました。足下は水で滑りやすいので。彼岸花の季節。今日から城崎さんの公判が始まります。裁判員裁判で、まったく無理な事件を裁かせようとの公安事件公判です。裁判員裁判では実質的審議は不可能でしょう。その分、裁判員に「常識」「良識」の無罪を期待したい第一審公判です。関西・東京で不当拘留・不当裁判に抗議し、反弾圧・城崎さんに連帯する集いが開かれてきましたが、その勢いを川村弁護団に託し、城崎さんの闘いに託して勝利の第一審を!と願っています。丁度届いた友人の便りにも917日の集いの様子も記されています。
(中略)
 
9月27日 庭のトラックの草ぐさは抜かれて新しい土を盛り、整地していますが、もうトラック一周分の修理が終わりつつあります。男性囚たちの元気のよい運動会練習も盛んです。来週は運動会です。
シリア情勢は、シリアでそしてニューヨークの国連の内外で緊張の度合いを強めています。エルドアンに仕掛けられたクーデターが、米情報機関は黙認していた(仕組んだという声もある)結果、エルドアンはロシアに活路を見出していこうとしているようです。米国は、クルドを切り捨ててでもと、エルドアン引き止めにトルコのシリア侵略に支援と共同。かつてから、トルコと米国の主張していたシリアの国境地帯に「緩衝地帯」を作りあげて、難民、兵士を育て、反アサド政府軍の拠点にする構想に向かっているのでしょうか。
その延長上には、トルコとヒラリー・クリントンの主張する、シリア領域内に「飛行禁止地域」を設定すること。こうしてシリア政府打倒へと、米・トルコが方向を定めたことに対する逆襲として、アレッポでのシリア・ロシア軍の強襲があるということのようです。アサド政府は、アレッポを制圧してから停戦に持ち込みたいのでしょう。危機のウクライナとも連動して、「反ロシア包囲網」は、かつての「反ソ反共戦略」並みに激化緊張しています。好戦的なエルドアンと、引かないアサド政府軍に示されている国際対決。少し力関係が流動すれば小康するでしょうが。この繰り返しが中東を超える戦乱とならないことを祈ります。NATOは好戦的ですから。
今日は古希70歳最後の夜です。50歳過ぎた時、「えー!? 50歳超えたのか!?」といいつつ60歳になり、「えー!?私60代なんだ……」と思っているうちに古希でした。さて、70代と思って、どこまで生きられるかなー。
 
9月28日 今日はパレスチナのインティファーダ記念日。そして又私のバースデイです。今日はベランダに出ると初のキンモクセイの香りの日。又、久しぶりに姉が、バースデイだからと体調を押して面会に来てくれました。親族のあれこれの話に大笑い。元気でいてほしい姉です。面会室へ行く道に窓の外にキンモクセイがたくさん花をつけていました。姉と、とりとめのない話ができて嬉しい誕生日になりました。
看護師から「明日は胃カメラ検査です」と告げられました。「明日のグラウンド運動なしですね……」病気より、そちらに頭が行ってしまう私です。
誕生日になると父を思い、私も「チャレンジャー」として学ぼうと励まされます。70歳になって、父は鍼灸学校に通いました。(2年か3年かかります)そして、国家試験を受けて鍼灸師の資格を取りました。父は常に前向きだったのを思い出します。苦境でも愚痴や悪口を言わない人でした。見習いたいと、年を取る度に思い至る事、多です。「好奇心をもって学ぶこと、謙虚に」という父の声が聞こえてくるような71歳のバースディです。父の鍼灸を学んでいた71歳に到達し、それがどんなに大変か記憶力・体力が衰えている自分と比べて改めて敬しています。
(中略)
 
10月6日 夜来の大雨風が収まって、秋晴れ運動会日和。昨日、私の大腸の内視鏡検査は今週ではないのを知っていたので、運動会に参加(見学ですが)できます。午前中に診察があり、大腸検査は19日と知りました。又、胃のポリープは、生体検査の結果、良性であったことを確認しました。ホッ! 
午後は昼食後、12時半から1520分までグラウンドの運動会。青空にすじ雲、羊雲の風も心地よい日。木陰の下のブルーシートに座って観戦です。懲役の男性、赤・白・緑の3組に分かれて競います。女区は点数のある競争はしませんが、サッカーボール蹴りとか綱引きとかあります。応援合戦とリレーがいつも盛り上がり、私も声をからして声援。とても良い気候の中、時折キンモクセイも香り、楽しいひと時でした。
 
10月8日 「快晴の108」が今年の八王子は雨です。108を思いつつ、先頭でアジテーションをしていた成島さんを思い出します。すでに逝去されたのですね、合掌。資料を読んだり、校正したり、書いたりの三連休の計画はいっぱいです。
(中略)
 
10月18日 青空に羊雲の秋晴れ。(中略)
届いた「救援」紙に城さんの公判の様子と泉水さんの公判の事が載っています。
9月から連日の裁判員裁判として始まった城公判は、どうなっているのだろうと思っていたところです。私の公判の行われていた104号法廷になって、傍聴人希望者は傍聴できたとのこと。昨年8月の勾留理由開示裁判の時には、わずか10名しか傍聴席がなく、77名が並び、救援関係者はひとりも傍聴できなかったのです。異常な法廷警備で、金属探知機ばかりか、さらにボディチェックを手で行うなど、傍聴人排除のような布陣とのことです。何のための検査かと、権力側の思い込みの激しさと「反テロ」の名で、管理強化を企てている現状がよくわかります。川村弁護士らの鋭い追求と検事のシナリオ、裁判員を「反テロ」に動員する警備法廷の日本。無罪を願いつつ……。111日が論告求刑、最後の弁論とのこと。
泉水さんのは、刑の執行順序変更を求める岐阜地裁の報告です。ダッカ闘争前の無期刑と、ダッカ闘争後の有期刑2年の刑について、無期刑のままでは永遠に有期刑も終えられず、当時仮釈放間近だった泉水さんの無期刑を、政治的報復のごとく恣意的に永続化させているのを断ち切る意味でもあります。有期刑2年を終えて、改めて無期刑に戻ってはじめて仮釈放の可能性が出てくるとのことです。弁護士の追求に不誠実な対応の検事。裁判長まで「そういった態度はいかがなものか?」と述べたとのこと。多くの傍聴と弁護団の追求という緊張が、そういう裁判長に反映しているのではないかとの記述に、そのとおりと思います。傍聴監視と共に、被告席から見ると友人たち、多くの人が瞳を光らせて、こちらに連帯してくれるのは、心強く勇気を与えられるものです。
(中略)
 
10月26日 70年代のライラの本を読み返しつつ、当時の勢い、革命への真摯な溢れる情熱、今も新鮮に心を打つこと多です。あれこれの作業の手を止めて思い返しつつ、改めて、米・イスラエル・ヨルダンの武装勢力つぶしを読み取っています。ファタハの役割も。
午後、久しぶりにメイの面会。仕事で、撮影などスタッフと明日から動き回るようです。今回も短い滞在。私の病気の事、腸にカメラが入らなかったことは、もう知っていて、ひとしきりその話。主治医と11月に話ができると思うので、帰国前に会えたら伝えるからと。会いたい人など、会う時間も取れないみたいです。でも元気そう。仕事に熱中するタイプのメイです。いっぱい話ができた気分です。
 
10月27日 今日も晴天。走るとやっぱり汗びっしょりとなります。広島カープアウェイではまだ勝てないけど、友人たちは気をもんでいるでしょうか。もう十分戦っているので勝ち負け抜きにOKでは?そうもいかないか……。
今日受け取った「山岡強一虐殺30年 山さん、プレセンテ!」には知っている方々の名前も出てきて意義深く読みはじめました。75年にはPFLPのジョーも山谷交流に訪問していたのも始めて知りました。70年代80年代の私の不在だった時代の熾烈な戦いの場の様子が少しわかるような気がします。
私が山谷に行ったのは69年の夏のことです。赤軍派の7.6事件が発生した前後、多分後の8月初めか。68年の国際反戦集会でブントが約束した69年の再集会のためにブラックパンサーが訪日したのです。なぜ中止しなかったのかわかりませんが、当時多分小俣クンとうい京大全共闘一時議長を名乗っていた人も一緒だったか。「中央派やさらぎ派に渡すな」とかなんとかで、私と小俣クンと誰かが羽田にそのブラックパンサーの人を出迎えに行って、あちこちのフィールド視察ということなのでしょう。引き回した記憶があります。その時山谷に行って「再度来たくないところだな……」と思ってしまったのです。誰の紹介か、梶大介さんの事務所に行ったら、さんざん訳のわからない他のグループの非難を滔々とされてしまい、ブラックパンサーにどう説明すべきか……と戸惑いました。やっと終わって次に行った事務所の田村さんといったか、梶さんに輪をかけて梶さんらを批判していました。「闘争現場まわり」の筈が、何もブラックパンサーに共通の底辺の人々の立ち上がりを示せないし、赤軍派も何の準備もなしに引き回して何よ!と私はプンプン怒ることしか出来ない無知でしたし……。そんなことを読みつつ思い返しています。本当は梶さんも田村さんも大切な問題提起をしていたのかもしれないと反省しつつ読んでいます。
(中略)
 
11月2日 新聞を開けたら城公判昨日の結審で「ジャカルタ事件懲役15年求刑」の記事。重刑攻撃甚だしい。証言が(インドネシア人)変遷している上に、法廷通訳も未熟で200カ所の誤訳もあり、公判週四日で裁判員に負担であると記事から読みました。「ジャカルタには行ったことはない」という城さんの訴えは裁判員に届くのだろうか。職業裁判官らの志向がどちらを向いているかで決まりそう……。今月24日判決とのこと。レバノンでやっと大統領が選出されたようです。あのアウン将軍が!彼は15年間のレバノン内戦終結調印後もシリアのレバノン駐留反対を掲げて(当時臨時首相だったか)「ハフェズ・アサドの頭を靴でふんづけてやる!」などと反シリア急先鋒。アラブでは屈辱的ことばをはいていました。でも当時の彼は反シリアでもイラクと組んだナショナリストのキリスト教徒。当時シリア軍に包囲され陥落、仏に助けられて仏に亡命。その後のイラク侵略を経てイラク侵略戦争後はシリアと協力関係に転じていました。そしてヒズブッラーと共同戦線でシリアアサド政権を支持して来ました。81才の意欲満々のアウン大統領。狙っていた大統領になれて、また転じますか。ヒズブッラーとの同盟は続くと思いますが。
(中略)
 
11月8日 “十六年獄に暮らして今もなお夢携えて逮捕記念日” 今日は118から十六年目。もう近頃はあの日の感情と分離して、記憶の中に刻まれています。16年前に予測した危惧は、現実化していくことが多かった……。パレスチナしかり、中東情勢しかり。でも闘いの継続性の偉大さをまた実感します。パレスチナの再会を約した何人かの友人も近頃亡くなっていますが、その子供たちや家族・親族が、友人たちの闘いや苦労や失敗を生命の中に引き受けながら闘っているのは嬉しいことです。逮捕記念日を、謝罪と感謝としていつも立ち止まり、振り返っています。支え励ましてくださる友人たち、家族たちに改めて謝罪し、感謝します。
今日は仕事を終えて、日本から又ベイルートへ戻るメイが丁度面会に来てくれました。同年輩の甥と一緒に。昨日まで仕事だったとのこと。とても元気のよい二人に圧倒されつつ楽しい時間となりました。
“生きのびて闘い続けて良かったと吾子を見詰めつ逮捕記念日”
 
11月9日 (中略)今、この日誌を書いているところで、トランプが米大統領に確実になったとスポットニュースです。え?!という感じですが、やはりエスタブリシュメントのやり口に、それだけアメリカ国民が不満を持っているということでしょう。すでに9月に「ヒラリー・クリントンとイスラエルロビー」の原稿を「情況」に書いていたのでした。前から、対トランプ選にはクリントンは負ける、バニー・サンダースは勝てるという世論調査はありましたが……。
世界はこれで益々統合秩序や協調よりも、無謀な自国エゴイズムと分断。寛容よりも弱者切り捨ての道が加速しそう。すでに壊れている秩序です。これをチャンスに変え、きっとサンダースたちが次の民主党のヘゲモニーを持つでしょう。欧州も中東も又、新しい変革の潮流の形成につながるでしょう。トランプはネタニヤフのパトロン、アデルソン(カジノ王)と同盟しているので、ネタニヤフ路線の占領継続と米大使館のエルサレム移転、和平拒否にBDS運動潰しが進みそう。でもトランプ登場は、ラジカルな民主主義の高揚の前兆です。日本も又、世界の高揚の一角を担っている沖縄は、前進の時!と期待しています。変化を人民運動の力に!
 
(終)
 
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今年から、ブログ「野次馬雑記」は隔週(2週間に1回)の更新となりました。
次回は2月17日(金)に更新予定です。
 

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「週刊アンポ」で読む1969−70年シリーズの7回目。
この「週刊アンポ」という雑誌は、1969年11月17日に第1号が発行され、以降、1970年6月上旬までに第15号まで発行された。編集・発行人は故小田実氏である。この雑誌には1969−70年という時代が凝縮されている。
1960年代後半から70年台前半まで、多くの大学で全国学園闘争が闘われた。その時期、大学だけでなく全国の高校でも卒業式闘争やバリケート封鎖・占拠の闘いが行われた。しかし、この高校生たちの闘いは大学闘争や70年安保闘争の報道の中に埋もれてしまい、「忘れられた闘争」となっている。
「週刊アンポ」には「高校生のひろば」というコーナーがあり、そこにこれらの高校生たちの闘いの記事を連載していた。
今回は、「週刊アンポ」第12号に掲載された都立青山高校闘争のその後である。前回のブログの続編として読んでいただきたい。

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【上昇志向を喪失した彼らはいま 週刊アンポNo12  1970.4.20発行】
昨年秋の全国高校学園闘争から7ケ月あまり、各校とも一応平穏に新学期をむかえた。
 昨年の闘争主体であった当時の3年生は、ほとんどが卒業してしまい、現在は各校とも新3年生を中心にして活動を行っている。
 昨秋の闘争の火付け役ともいうべき、東京青山高校でも、全共闘の大部分を占めていた3年生がほとんど卒業したため、現在は、新3年生を中心とした新生全共闘がいわゆるシコシコ型の闘争を行っている。
 しかし、現在の彼らには昨秋のようないきいきとした姿は見られない。顔を合わせるたびに、「疲れた、疲れた」を連発する彼ら、彼らにとって昨秋の闘争とはいったい何だったのだろうか。彼らはこれからどのように生きてゆくのか。
 「高校生のひろば」では、“上昇志向を喪失”したといわれる彼らのその後を、青山高校の場合をみながら、4−6月闘争を目前にひかえた今、あえて追ってみたい。

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「闘争?僕にとって闘争とは何だったんだろう。自己の確認だったのだろうか。」
 卒業していった全共闘のN君は闘争をふりかえってこう語っている。
「僕たちの闘いは原点を求めての闘いだったのかもしれない。」
一学友の処分問題に単を発した青山高校闘争の中で、“原点”を求めて闘っていた彼らに対して、当然多くの弾圧、障害がのしかかってきた。
 彼らの闘いは、処分撤回、教師弾劾などと同時に、いかに生きるかの闘いでもあった。彼らは全生徒に、全教師に、そして自分自身にその問いをつきつけた。 
 数ヵ月あまりにわたる闘争の中で彼らは多くのものを得、また多くのものを失った。
 「教師との断絶は前から感じていましたし、『教師なんてあんなものだ』と思っていましたが、闘争の過程で特に校長なんかとの断絶を感じました。それは、結局卒業するまでついてきちゃって、クラスの謝恩会にも全共闘メンバーだけ呼ばれませんでした。
 やはり、ちょっとさびしいですが友だちなんてあんなものかもしれませんね」と語るS君の表情は心なしかどこかさびしそうだった。
 「バリケードは一個の“理想社会”だったなんて思わないけれど・・・。3年間の高校生活の中でそれだけが頭に残っていることは確かだ。でも、僕の場合、それが単なる想い出としてしかないような気がして・・・。そりゃあ、たしかに楽しかったかもしれない。でも、今の僕にはむなしさばかりが残ってしまった。」
 こう語るY君は。今はずっと土方仕事をしているが、彼は仕事をやっている時が一番楽しいという。

<その後なにがどうかわったか>
 これら全共闘のメンバーたちは、現在はほとんどばらばらになっているが、ときどきふらりと学校を訪れる。そして、校内をちらっとのぞいては前のボーリング場へと消える。
 彼らのほとんどは現在働いている。
 職場は土方からトラック運転手、自動車セールスマン、雑誌記者まで多種多様だが、主に肉体労働者が多い。
 「何とか夢中になりたい。」と異口同音に語る彼らは闘争のことをあまり話したがらない。
 一般生徒、シンパ層は、闘争をどうみているのだろうか。
 シンパと自己規定するIさんは「全共闘の闘いを見て、あらためて自分自身を考えるようになった。私自身も途中から参加したが、それは自分に対する反撥からだと思う。」と言っている。
 青山高校は闘争によって何がかわったのだろうか。
 4月からまた新しい校長が赴任した。教師も、例年の倍以上いれかわっている。また、カリキュラム編成にも変更があり、選択科目の中に独語、仏語、中国語(うち中国語と独語は希望者が少ないためとりやめになった)が新しく加わった。
 しかし、本質的には何も変わっていない。
 それよりも、新二、三年生の中で転校していく生徒が例年にくらべて非常に多いことに注目したい。
 その中のひとりS君は転校の理由を次のように語っている。
 「闘争の中で、いろいろ考えなければならないと思った。1年間ゆっくり考えたい。」
 転校生徒の大部分はたしかに、「青山では勉強できない。」という理由かもしれない。しかし、それらの中に多くのシンパ層がいることも事実である。
 これは何を意味しているのだろうか。
 彼らにできる唯一のプロテストなのかもしれない。

 <彼らはこれから>
 卒業していった全共闘メンバーはこれからどう生きてゆくのだろうか。
 T君はこう語る。
 「なるようになるだろう。その場、その場で思ったとおりに生きてゆく。赤軍のハイジャックにしても、なりゆきでそうなっていたら一緒にやっていたかもしれない。主体性なんかないと思う。すべて状況が設定されて、その中で人間はその状況にあった過去のデータのもとに生きてゆくのだと思う。」
 またN君も「闘争をへて未来への展望がなくなったのは事実だ。これからは、できる限り平凡に、めだたないように生きてゆきたい。僕たちの闘争は正しかったとは信じているけど。」と語っている。
 青高闘争は、いろいろなものを奪い去り、いろいろなものを残した。
 それをどういかすかは、闘争を体験したひとりひとりに課せられた今後の課題だろう。青高闘争とは何であったのか。その問いに対する答えは、何年かのちにでてくるものかもしれない。
 全精力をだしきってしまった彼らは、今年も“何かに夢中になろうとして”どこかをさまよっているのかもしれない。

【高校生戦線 70】
●3月21、22日、全国反帝高評結成大会が東京で開かれ、全国から400名あまりの高校生が集まった。
 大会では、68年9月市岡高校始業式粉砕闘争以後の、昨年秋の全国高校闘争、北高処分粉砕闘争などの総括を中心とした基調報告が行われ、全国中央執行委員会が確立された。
 また、4月―6月闘争を圧倒的に闘うことを確認して2日間の大会を終えた。
●3月25、26日、反戦高協全国大会が、32都道府県、1,600名の高校生を集めて東京の法政大学で開かれた。
 大会では、70年代闘争における高校生の任務、特に労働者、学生、高校生を3本の柱として、高校生の闘いを位置づけることなどを確認した
 また、4・28沖縄奪還デーを全国高校一斉ゼネストで闘うことを圧倒的に確認し、新議長に木村君(青山高)、副議長に太田君(泉尾高)を選出して大会を終えた。
●3月27、28日、全闘高連活動者会議が、全国から30名あまりの代表者が集まって、大阪で行われた。
 会議では、秋期決戦の総括と4−6月闘争の方針などが話し合われ、特に反帝高校戦線の組織化を進めてゆくことを確認した。
●3月30日、反戦高連全国大会が東京麻布公会堂で、24都道府県、100校、約700名の高校生が集まって開かれた。
 大会では、69年闘争の総括、70年闘争の展望などが討議され、反戦高協などプチブル急進主義者の破産に対する明確な対決、4・28沖縄デー拠点高ストライキなどを確認し、新議長に大高君(戸山高)を選出した。
●昨年秋、全校投票によって1ケ月の全学ストライキを貫徹した、大阪府東淀川高校では、3月の卒業式闘争を100名のボイコットで、演壇占拠などでかちとり、現在また4月以降の闘争をめざして学内闘争を闘っている。
 その他、市岡高、高津高、住吉高、春日丘高、清水谷高、夕陽ケ丘高、茨木高、阪南高、池田高などでも卒業式闘争を闘い抜き、全大阪高共闘を中心として。4・28をめざし、現在各校で学内闘争を闘っている。
(終)

【お知らせ】
今年から、ブログ「野次馬雑記」は隔週(2週間に1回)の更新となりました。
次回は2月3日(金)に更新予定です。

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