クリスティーナ「2」
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クリスティーナは今年からブエノス・アイレス大学の医学部の一年に在学している。医学部は自宅から二十町(アルゼンチンの都市は一角が百メートルの碁盤の目になっており、その一角を一町としている)ほど北に行ったパラグアイ街にあり、大きな公園に隣接した静かな環境の中にあった。
家からはバスで行きあとは歩いていく、途中にそれもほぼ公園に近い所に結構大きめのバーがあって、コーヒーやピザ、エンパナーダなどの軽食を扱っている。歩道に面した部分には大きな窓があって、春の暖かい日やもちろん夏の暑い日には窓は開けてあり、表を通る同級生を招く学生もいた。歩道にも幾つかのテーブルが並んでいて、薄緑や黄色のチェックのテーブルクロスも色を添えていた。
風の強い日には椅子の背の部分をテーブルに斜めに立て掛けてテーブルクロスが飛ばないように工夫してある。春の穏やかな日などは医学生や教授がその歩道に並べられたテーブルでコーヒーやピザで人生論や恋愛について語り合っていた。
春になると木の枝一杯に淡い薄紫のジャカランダの花が咲き誇ってクリスティーナの心を和ませた。大勢の人がごった返するブエノスの市街から公園近くの通りに来ると、ほんの少し入っただけなのに、歩く人たちの表情にもゆったりとしたものを感じた。
公園では若い夫婦が小さい女の子を連れてのんびりとした時間を楽しんでいる。その向かい側のジャカランダの木の下のベンチには六十代であろうか、夫婦が腰をかけマテ茶(ジェルバ・マテの葉や小枝を乾燥させものを、「ひょうたん」の下の部分で作った茶器に入れ、真鍮製のストローを差し込み湯を注いで飲む。ビタミンやミネ
そうして、広い公園では男の子たちがサッカーに夢中だった。未だ歩くのも覚束ない小さい子供までもが大きなサッカーボールを追いかけて楽しんでいる。
ブエノスの街のあちこちにはアイスクリームの専門店があって、殆どの店が自家製で客の注文に応じて色々な味のジェラードをコーンに詰めてくれる。随分と遅くまで開いていて二人連れや家族が、チョコレートやフルーツ味の詰まったコーンを手に店の前の歩道に並べた椅子にかけて、夏の夕暮れを背に歩く人を眺めている。
クリスティーナはいわゆるガリ勉タイプではない、学んだ講義を家に帰って整理する程度で済んだ、講義に集中出来るのである。恐らくこのまま順調にいけば将来は医師として安定した暮らしが保障されているに違いなかった。
家では兄のロベルトの部屋でよく一緒にジャズを聴いたり、ロベルトが父親から買ってもらった紺色のシボレーに同乗して週末はよく日本人会のダンスに出かけた。土曜日の夜十一時頃から始まるダンスは翌朝の五時まで続いて大勢の二世や三世が集まってきた。こうしたダンスや結婚披露宴は若い男女の社交の場になっていて、年頃の娘を持つ親は自分達の娘が夜半から明け方まで家を空けることに不安を抱きだきながらも、行かなければそれはそれで悩みの種だった。
矢野家でも姉のマルセラは口数も少なく社交的ではない。親類や友人の結婚式には仕方なく出席するが日本人会等で開催するダンスには全く興味を示さなかった。
「あんなダンスのどこが良いのよ。しかも眠いのに明け方まで踊る人の気がしれない。家で本を読んでいた方がよっぽど面白いわ」
そう言って母親のマリア・ローサの気をもませた。
「あんたも早くノービオ(恋人)を持ってマーミィ(母さん)を安心させてちょうだい」
マルセラは人並み以上の顔立ちでいながら、そうした社交的な事にはまるで興味を示さなかった。
一方、明るい性格のクリスティーナの周りには常に兄の友人達が寄って来て彼女の気を引くことに夢中で、アルベルトというれっきとした恋人が居ることも知っていながら、彼女の魅力に惹かれていつも何人かは側を離れようとしなかった。クリスティーナは彼らを軽くあしらいながら男達の中で可憐に舞う蝶そのものだった。
六人乗りのシボレーにいつも七〜八人の若者がギュウギュウ詰めで深夜のブエノスの街を走り回り、空腹だとか疲れたとか言ってはレストランやバーでピザやエンパナーダを食べながら明け方まで話し込むこともあった。クリスティーナは何不自由ない生活を謳歌していたのである。
【矢野家の人々】
父親の矢野正夫は、日本が敗戦の痛手から未だ立ち直れていなかった一九五三年十八歳の時に熊本の田舎から家族と共にアルゼンチンにやってきた。ブエノス・アイレスに着いて故郷の田舎町しか知らなかった正夫はそのあまりのきらびやかさに度肝を抜かれる思いだった。
当時のアルゼンチンは第二次世界大戦の影響で小麦などが底をついたヨーロッパ諸国への穀物や畜産物を輸出する事で膨大な外貨を獲得し経済は繁栄していて、多くの移民が一攫千金を夢にヨーロッパやアジアの各地からアルゼンチンを目指してやって来た。
当初家族は日本人の経営する三軒のクリーニング店に別れて住み込んで働き、正夫も港に近い日本人が経営するクリーニング店で働き始めた。ブエノス・アイレスに着いたのが七月で、その年のクリスマスイブには一緒に住み込みで働いている従業員も皆出払って、正夫には訪ねていく知人も無く店の二階にある部屋に一人残って故郷の事などぼんやりと思い浮かべていた。
南半球のクリスマスは真夏で、寒い中に忙しく正月を迎える準備をするのが当たり前になっていた正夫にとって、ブエノス・アイレスの年末は拍子抜けがする程のんびりとしたものだった。丁度真夜中の十二時だった、港に停泊中の船が一斉に霧笛を鳴らし始めた。港のあちこちで物悲しく哀愁を帯びた霧笛が、まるで何かを訴えるかのように鳴り響いた。物悲しく確かに正夫には悲しく聞こえた霧笛に合わせて、あちらこちらから遠くの花火の音とともに、親しい者同士か、或は家族なのか楽しそうにクリスマスを祝う陽気な声が聞こえてきた。
「クリスマスおめでとう」
それがクリスマスを祝う人々の声だと分かった時、正夫の頬を涙が一筋そうしてまた一筋流れ出した。クリスマスイブを祝って港の船が鳴らした霧笛だったと判っても正夫の涙は止まらなかった。苦しい生活から抜け出そうと家族で話し合って日本を後にして南米にアルゼンチンという国が在り、そこでは明るい未来があるそう言われて勇んで移住してきた正夫だがその決心とは裏腹に、取り返しのつかない不安と後悔が彼を襲ったのだった。
「俺はもう日本には帰れない一生この国で暮らすんだ」
もう後戻りはできない、そう思うと正夫の感情は高ぶり心は涙で溢れ、その涙を抑える事は出来なかった。
その港に近いクリーニング店で三年ほど働き、その後知人の世話で同じ熊本出身で大きなクリーニング店を営んでいる矢野竹蔵の所で働き始めた。正夫は腕も確かで他の職人とは違って温厚な性格に周りの受けも良かった。
二五歳になった時に竹蔵は自身に跡取りが居ない事で次女のマリア・ローサと結婚し矢野家の跡取りにならないかと持ちかけた。その話があった時正夫はクリーニング店の仕事の内容も経営も信頼を得ていた竹蔵からほぼ任せられていた。
竹蔵の長女はこれもマリア・イネスという名で姉妹でマリアの名前だったが特別大きな意味はなかった。竹蔵夫婦がアルゼンチンに来た当時は、ある程度金が貯まったら日本に帰国したいという思いが強かったので、娘達のスペイン語の名前にはあまり拘らなかったのである。姉の名を綾子妹を京子と付け、日本語を教えようとしたが姉の綾子は素直に興味を示しながらすぐに上達したが、妹の京子マリア・ローサは小さい頃から全くといって良いほど日本語には興味を示さなかった。
「ここはアルゼンチンだわ、日本語なんか勉強して何になるの」
日本に帰国する事を強く願って故郷を忘れられなかった竹蔵夫婦も、故郷の日本が第二次世界大戦で大変な痛手を受けた事を知ると、その思いも次第に薄れていった。
正夫は竹蔵の次女マリア・ローサと結婚し義父のクリーニング店を引き継いだ。正夫の勤勉と真面目さからアルゼンチン人からも評判を得て、店は竹蔵の時よりも一層繁盛した。従業員は五名ほど居て、蒸気アイロンの専門、洗いの専門、カウンターの接客係り等朝から夜まで忙しく、お洒落なポルテンニョ(港の住民という直訳だが、日本の江戸っ子と同じ様な意味でブエノス・アイレスに生まれ育った人々の事)の衣服を飾り、土曜日ともなるとその夜に外出するポルテンニョ達のスーツやワンピースを受け取りに来る人達で店は賑わった。
順番を待つ間にも話し好きなポルテンニョ達は、今評判の映画の話題や、「今夜は私の従兄弟の家でパーティよ」などと誰それの家を訪問する話を得意げにするのだった。店に持ち込まれる服は半日で一抱えも二抱えにもなって、マリア・ローサともう一人の接客係の女性と二人で受けつけた服に番号を付け、ネームを付けるのだが、それでも間に合わずマルセラやクリスティーナもよく手伝わされていた。ボイラーの蒸気が勢いよく上がり、職人たちが蒸気アイロンでスーツやワンピースの皺をのばしていた。店は繁盛し活気があった。
第二次世界大戦で大きな痛手を受けた日本とは違い、ポルテンニョ達は南米のパリと言われるブエノス・アイレスで華やかな生活を楽しんでいたのである。
KABUKIという名のその店はブエノス・アイレスの中心から少し南へ行った所にサンファンという大通りがあるが、丁度エントレリオス通りとソリス通りの中程にあって間口が十㍍、奥行きは二五㍍もあった。昔風のその建物は壁も厚くしっかりとした造りで建物の中心にはパーティオ(中庭)があって周りに幾つもの部屋が有り、真夏の暑さは充分に凌げる造りになっていた。
店に隣接した広い居間には大きな食卓用のテーブルがあり、周りには食器棚や飾棚が有って中には郷里熊本の置物や、そうかと思うと恐らく友人からの貰い物であろうか北海道アイヌの木彫りの置物などが乱雑に並べてあった。棚の上には竹蔵夫婦お気に入りの日本人形がガラスケースに入って載っているが、何年も経っていてガラスが薄茶けていた。その隣には台所があって吹き抜けから充分とはいえないが光が入るようになっている。居間の奥には例のパーティオがあって、それを囲む様に部屋が続いている。その各部屋に竹蔵、正夫夫婦、子供達三名、残りの一部屋は住み込みの職人、そして少し離れた中二階の小部屋をルシーアという住み込みの女が使っている。
肉屋、八百屋はいずれも近くにあり買い物には不自由しなかった。もっとも、買い物にも調理にもマリア・ローサにはルシーアが一緒に家族や従業員達の食事を手伝い、買出しもマリア・ローサとこのルシーアが直接店に出向いた。
ルシーアは三三歳中肉中背で特に腰の大きな女で、十六歳の時にアルゼンチン北部のサルタ州から首都のブエノス・アイレスに出てきて竹蔵の店で働き始め、そのまま矢野家の一員のような顔をして幅を利かせていた。肌の色やそのインディオっぽい顔つきで地方の出身だという事が一目で判った。性格は明るく周りには正直者に見られたが、受け取る月々の給料の外に女主人から頼まれるちょっとした買い物から少しずつ小銭を彼女の財布に貯めている事を誰も知らなかったので、ルシーアは日本人の店に長く勤める正直な女として通っていた。マリア・ローサはルシーアにとって雇い主の立場だが、もう長年姉妹の様に暮らしてきて仲の良かったマリア・ローサはそうした立場には一切無頓着だったので、二人に主人と使用人という厳しい関係はなく、矢野家の家事を引き受けているという自負心と外目には正直者というイメージから、自分が使用人だとの自覚はあってもオドオドする立場ではなかった。
次回の掲載は11月30日です!
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クリスティーナの話もパート2に入りました。最初の時は1週間はここに展示して見ていただきましたが、このパート2からは3日間の展示で次のパート3を展示いたします。ですから今度は11月30日に展示をします。お楽しみください。
2011/11/27(日) 午後 8:07 [ 神山 真 ]