防衛省市谷ツアーに参加したよ(その17)【ファイルET58】2012.02.08
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その1から読まれる方はこちら。 http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/52534735.html 三島由紀夫事件について最初から読まれる方はこちら。 http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/52963429.html 前回は、三島由紀夫事氏の檄文(全文)を掲載いたしました。 http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53004853.html 今回は、檄文について私なりの解釈を述べてみましょう。 三島由紀夫氏は檄文で、憲法改正と、自衛隊の国軍化を訴えていました。 まず、憲法というのはその国の最高法規です。 ところが、日本国憲法は、日本が聯合国に占領統治されていた時代にGHQがフィリピンに押し付けた憲法を基にやっつけ仕事で作った国際法違反の押し付け憲法です。 英文をむりやり短期間で翻訳したものだから、読みにくいったらありゃしないのに、どういうわけか左翼の人達は『声を出して読みたい名文だ』と言っています。 この人達って本当に日本人なのでしょうか? 日本の敗戦当時、日米共に批准していた国際条約=戦時国際法に『ハーグ陸戦条約』というのがあります。そこには、 ※ ※ ※ 第43条 [占領地の法律の尊重] 国の権力が事実上占領者の手に移りたる上は、占領者は、絶対的の支障なき限、占領地の現行法律を尊重して、成るべく公共の秩序及生活を回復確保する為、施し得べき一切の手段を尽すべし ※ ※ ※ という条文があります。 GHQの押しつけ憲法は国際法違反の重大犯罪です。 この条約を制定し、批准した国々は、まさか『占領地の現行法律を尊重』するどころか、最高法規である『憲法』を改変するような厚顔無恥の無法者国家が出現しようとは夢想だにしなかったに違いないのです。 それについて三島氏はこう述べています。 われわれは今や自衛隊にのみ、真の日本、真の日本人、真の武士の魂が残されてゐるのを夢みた。しかも法理論的には、自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によつてごまかされ、軍の名を用ひない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因を成して来てゐるのを見た。 最高法規である憲法がこのような欺瞞に満ちた存在なのに、誰がそれより下位の法律なんて信用するのでしょうか? 今の憲法自体が、法治国家の否定なのです。 これが国民のモラルの崩壊を招くのは当然のことです。 ※ ※ ※ 第二章 戦争の放棄 第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。 ※ ※ ※ 普通に上記の日本国憲法第9条を読んだら、自衛隊はあきらかに憲法違反(違憲)の存在でしょう。 『国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する』っていうのですからね。 つい先日も、田中直紀防衛大臣が自衛隊の合法性の根拠を答えられなかったといって批判されていましたが、この『根拠』というのが『1946年8月21日:日本国憲法草案に対する芦田小委員会修正案』だというのだから笑わせます。 これは、『前項の目的を達するために、』という文言が2項の冒頭にあるのだから、『前項の目的に含まれていない』自衛のための『陸海空軍その他の戦力は』『これを保持』してもいいし、『自衛行為』は認められているというのです。 しかしながら、『自衛行為も』前項の『武力による威嚇又は武力の行使』であり『国際紛争を解決する手段』に含まれるのですから、明白に憲法違反じゃないですか。 こんなの理屈にも何もなっていないインチキです。 こういうインチキ解釈をやるのが東大法学部と官僚なんですよね。 ところが、三島由紀夫氏自身が、東大法学部卒で官僚中の官僚である大蔵省(現財務省)に入省していたのです。 三島氏はこの日本の代表的な本流中の本流のエリートコースを何の未練もなく捨て去り、辞めてしまったのですが・・・。 そもそも軍隊というのは、命のやりとりをする公務です。 例えば、一般人(非戦闘員)を殺せば『殺人』なのが、正規の戦闘行為に於いて相手の戦闘員を殺せば、それは『戦果』であり、『英雄』として勲章が授与されたりします。 チャップリンの『殺人狂時代』という映画の最後の台詞『一人殺せば犯罪者だが、100万人殺せば英雄』というのは、『反戦平和』とやらをお題目のように唱える日本人もよく引き合いに出しますが、これは全くの出鱈目です。 この人は、左翼の例に漏れず、全く戦闘員と非戦闘員の区別が付いていません。 軍人といえども、国際法上、非戦闘員を一人でも殺せばこれは殺人なのであって、立派な戦争犯罪者です。 アメリカ軍の東京空襲他大都市の非戦闘員の虐殺を目的とした空襲や、来るべき東西冷戦構造を見越したソ連共産主義へのデモンストレーションと、原爆の人体実験を目的とし、非戦闘員の大量虐殺を引き起こした広島長崎の原爆投下で、民間人を100万人以上殺しましたが、これは『国際法違反の戦争犯罪=殺人』以外のなにものでもないのです。 自分が殺されることが敵の名誉になる。 つまり、常に死と隣り合わせである過酷な公務の『軍人』が、戦うとすれば、『命以上の価値=大義』がなければなりません。 当たり前の話です。 なのに、自衛隊の根拠が自衛隊を否定するインチキ憲法だからたまりません。 三島氏はこう述べます。 日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまつた憲法に体をぶつけて死ぬ奴はゐないのか。 命以上の価値。 日本の文化・歴史。日本の国体(国柄)を徹底的に破壊し、日本を二度とアメリカに刃向かえないように7年間に亘って占領し、洗脳し続けてきたのがマッカーサーのアメリカでした。 親米、親ソ、親支那、親北鮮。これらの人達は立場か違うように見えても、いずれも日本の文化・歴史。日本の国体の破壊については同じ穴の狢(むじな)なのです。 楯の会の根本理念は、ひとへに自衛隊が目ざめる時、自衛隊を国軍、名誉ある国軍とするために、命を捨てようといふ決心にあつた。憲法改正がもはや議会制度下ではむづかしければ、治安出動こそその唯一の好機であり、われわれは治安出動の前衛となつて命を捨て、国軍の礎石たらんとした。国体を守るのは軍隊であり、政体を守るのは警察である。政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によつて国体があきらかになり、軍は建軍の本義を回復するであらう。日本の軍隊の建軍の本義とは、「天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る」ことにしか存在しないのである。 三島氏は、議会制度下での憲法改正は不可能だと判断していました。 ですから、安保騒動に於ける争乱の収拾が警察では不可能だとなった時、自衛隊の治安出動がなされ、これによって、「天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る」という日本国軍の建軍の本義が日本国民の目にもあきらかになり、これによってのみ、憲法改正が可能だと考えていたのです。 ところが、三島氏の企図はもろくも崩れ去ります。 しかるに昨昭和四十四年十月二十一日に何が起つたか。総理訪米前の大詰めともいふべきこのデモは圧倒的な警察力の下に不発に終つた。その状況を新宿で見て、私は「これで憲法は変らない」と痛恨した。その日に何が起つたか。政府は極左勢力の限界を見極め、戒厳令にも等しい警察の規制に対する一般民衆の反応を見極め、敢て「憲法改正」といふ火中の栗を拾はずとも、事態を収拾しうる自信を得たのである。治安出動は不用になつた。政府は政体維持のためには、何ら憲法と抵触しない警察力だけで乗り切る自信を得、国の根本精神に対して頬つかぶりをつづける自信を得た。 結局極左暴力集団の煽動によるデモは警察権力のみによって鎮圧されたのです。 この結果、どういうことが起きたのか? これで、左派勢力には憲法護持の飴玉をしやぶらせつづけ、名を捨てて実をとる方策を固め、自ら護憲を標榜することの利点を得たのである。名を捨てて、実をとる!政治家にとつてはそれでよからう。しかし自衛隊にとつては、致命傷であることに、政治家は気づかない筈はない。そこでふたたび、前にもまさる偽善と隠蔽、うれしがらせとごまかしがはじまつた。 『名を捨てて、実をとる』。民主主義が政治的なルールである以上、政治家はこれで安泰なのです。 佐藤栄作首相は、事実これにより長期安定政権を保持し、これがベトナム戦争等で混乱をしていた東南アジアでの最後の秩序の砦となり、後にこれが評価され、佐藤栄作氏はノーベル平和賞を受賞したのです。 ところが、『命のやりとり』を職務とする軍隊にとって、『命以上の価値』がなければ、命がけの戦闘に向かえるわけなどないのです。 特攻により散華された植村大尉は、当然、祖国と残してきた家族に自分の命以上の価値を見いだしていたのです。 日本はいまだにこういった国の存亡にかかわるような重要問題を先送りにし、うやむやにしながら、国体を朽ち果てさせていっているのです。 (中)に続きます。 |