菜食以外の料理を、積極的に選ぶ、お金を払って手に入れる、という行いには、実に自分と周囲への、多大な悪影響、悪循環を含んでいます。
肉食をしなければ生きていけない、不健康である、単なるきれいごとである、といった固定観念によって、菜食への非難が反射的に飛び出し、最後には「肉食は世間の常識だ」となり、あとは思考停止になる、まだそういう日本人は、少なくないと思います。
しかし世界は肉食を常識とは考えてはいません。国連では、何年も前から、肉食の問題を強く認識し、警鐘を鳴らしています。2008年に、デブア気候変動枠組み条約事務局長は「最善の策は、全ての人がベジタリアンになること」とコメントしています。今年(2012)2月には、台湾の学校給食を定期的に菜食にするように働いた、同国の政治家を表彰しています。
先進国をはじめ、健康面、環境面、倫理面への反省から、菜食の推奨、移行が、社会をあげて取り組まれており、菜食者が増え続けています。(肉無し月曜日、肉食税の導入、菜食者の奨学金優遇など・・)
日本は元々菜食中心であったのを、近代に入り、肉食を手放しで崇めるという受け入れ方をしたために、今なお、肉食神話を信じている状態です。
日本における肉食は、文明開化によって、西洋文化を絶対視して真似た結果でした。当時、盲信、追従、思考停止に陥らなかった日本人は、非難されながらも、菜食=医食同源の智恵を守り続けました。その中に、今日、欧米で高く評価され、参考にされている「マクロビオティック料理」があります。
原発神話に関してはどうでしょうか。
福島原発事故後、スイス、ドイツ、イタリアは、原発への批判検討を活発にし、将来的な完全撤退を国に決定させました。日本は当事国であるにも拘らず、そこに名を連ねていません。
石原都知事は、「脱原発に署名した人はサルだ」と言ったそうです。都知事の表現を真似るならば、スイス、ドイツ、イタリアには、「サル」が溢れていたので、国は政権崩壊を防ぐために、大多数の「サル」の意見を切り捨てるわけにはいかず、将来的な完全撤退に舵をきったのでした。
日本は、まだまだ「サル」が少ないということになります。
原発を推進する国際金融資本家の圧力のもと、政治家とマスコミによる、原発を賛美する虚飾発言によって、日本の世論はイデオロギーに染まり、原発神話が信じられて行きました。
イデオロギーに染まることなく、犠牲の回避のために考え動く人々が、逆にイデオロギーであるように、奇怪視されたり、非難される空気もありました。
事故後は、日本のそうした空気も大分変わりました。犠牲を肌で感じることで、考えざるをえなくなったからだと思います。
ただし、犠牲は以前から未解決のままに犠牲としてあり、つねに、次なる犠牲をはらんでいました。「犠牲を肌で感じ、犠牲を容認しない」これはイデオロギーでもなんでもありません。生命を生かそうとする意志にほかなりません。
「犠牲があるのは仕方が無い」。このように、最終的に思い込ませるに至る喧伝こそ、屁理屈というイデオロギーにほかなりません。
地震、天災、人災(原発、放射能、戦争など)、被災者になれば、いかにそれらが、自分のすぐ隣で起きていた問題だったかを、誰しも痛感することと思います。福島の方々はとくに、自身と、日本人、世界の人々の、「脱原発」という声の大事さを、深く理解されていると思います。
老若男女、いつ何時、日々が大変なことになるか、知れません。
サプリメントや買いだめが、一時しのぎでしかないように、動物系の食事の習慣というのも、一時しのぎを積み重ねて、あとは体に無理に頑張らせているようなもので、(「もう頑張りたくない、無理に頑張って過保護にしていると、いつまでもこの人は、医食同源のもとに生きない、この人のためにも、病気になって気づかせよう」と体が考えて、病気症状がでる)、もし、なにかとんでもない災害に見舞われたとき、一時しのぎで繋いできた不利な心身の状態で被災すれば、病体にもなりやすく、飢えも感じやすく、状況の深刻さによっては、修羅場になりかねません。
大地震のあと、東京の商店からは食べ物が消えました。原発事故後、農作物の風評被害が続いています。 私は買いだめもしませんでしたし、産地は気にせずに野菜を買っています。怖いと思うからそうした現象が起こるのでしょうか。私は怖くないので、そうしたことが起こる理由が分かりません。
それよりも一日一日の食事、医食同源の食事を、大事にするほうが、一番、対策としても効果があると思います。不安のある方は、どうか実践されてみて下さい。「大は小を兼ねる」です。産地を怖れて食べなかったところで、重箱の隅の話ではないでしょうか?
一生懸命に育てられた野菜が、疑われて棄てられては、農家の方も辛いです。
菜食は、医食同源です。
植物のお陰である、呼吸を、思い詰めて行う人はいません。植物のお陰である菜食は、呼吸の延長上にありますが、肉食は、血や苦しみを作り出すことなくしては得られません。血と苦しみを作り出すことを可能にする興奮状態(麻痺状態)、攻撃が必要です。
戦場の兵士は、ある臨界を越えると、共通感覚を強く麻痺させてしまうのだろうと思います。
共通感覚の無い人は存在しませんが、一時的、部分的麻痺状態は、大なり小なり個々の人間にあり、その一人ひとりの共通感覚の麻痺状態を回復していくことが、人間の救い、浄化なのだろうと、私は思います。
テレビ番組で、西田敏行さんが、映画のロケ地のそばにあった屠殺場の話をしていました。毎日、早朝の決まった時間に、豚が屠殺されるそうです。そのとき、豚がかなしみ、苦痛のなかであげる泣き声が、周辺に響きわたるそうです。すぐに、その向かいにあるロバの小屋からも、泣き声があがるのだそうです。豚の心、体に起こっていることを、感覚で理解しているロバの嘆きの声です。毎早朝、豚とロバの嘆きの声は、繰り返されているそうです。西田敏行さんが、ロバがどのような泣き声をあげるのか、その真似をしました。スタジオは大爆笑でした。西田敏行さんは、必ずしも笑いをとるために、この話をしようと思ったわけではない様子に見えました。
笑うばかりが能ではないと言ったら、きっと怒る人もいるでしょう。しかし、やはり、「仕方が無い」で済ませないことが、能であると思うし、真のユーモアは、悲惨を解決することを望んでいます。
ロバの共通感覚が、それが生命にとって受け入れがたい辛苦としてとらえ、生命を生かすことを願って、泣いたのです。かなしみとひらがなで表したのは、このロバのかなしみの泣き声は、命を大切に想う愛の泣き声、愛しみ(かなしみ)の嘆きでもあるからです。
共通感覚のはたらきが、悲惨の解決を願う動機、原動力になります。ですから、共通感覚を鈍らせることは、智恵から遠ざかることであり、危険であり、不幸なことです。
共通感覚を鈍らせて、暴力を肯定すればするほど、「暴力に使われる」状態になるので、発想の転換や、智恵を受け入れにくくなり、道を見失ってしまいます。
このような心境では、修羅場の紙一重に平和があるということに、気がつけません。
熊はパンダのことを、自分達とは全く違う生き物のように思っているかも知れません。しかし、そのパンダとは、昔ある地域で、多くの熊が、食べ物がなくて生き延びられないと思い込んで死んでいくなかで、捕食のために、日夜苦しみながら歩き回るのはやめて、周辺にある笹を食べ、笹が自分を生かすことに気づいた「熊」です。
もはや獲物が居なくても、シャドーボクシングをし続ける心境に、自分を閉じ込めなくても、天国に居るように、美味しいものを片手に寝転がりながら、平穏に一生を過ごせることを知った「熊」です。
彼らは、今より楽に生きるために、「動く生き物の血肉を、おいしいと思うことで生きる」と書いてある遺伝子を棄てました。パンダになることによって生き延び、苦しみを与えることもない、地上天国の生活者になることができました。現代人に発見されるまでは。
正当防衛と称する人間の攻撃力は、いつしか地球を何度も焦土にする破壊力となり果てました。このようにも大きな力を持つものが、小動物や、大人しく生存する草食動物の、小さい平和すらも、守ることが出来ず、それを侵害、破壊してしまう。(畜産、毛皮、実験動物、使役動物(今でも、仕事や見世物のために、暴力で調教されて、過酷な一生をおくる動物が存在する)、趣味のハンティングなど・・)このままでは、どこまで行っても、人間は暴力に使われる存在で居続けることになるのではないでしょうか。
((災害対策のための虎の巻 (下)に続く)