週刊 生活の中の洞察 聖書から教え

55にしても迷っています。生活の中でちょっと立ち止まって教えられた

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世界で最高のデボーションの場所

世界で最高のデボーションの場所
 世界で最高の静思の時を持つ場所はどこだと思いますか。それはガリラヤ湖畔だと思います。しかも夜明け時です。その理由は、復活したイエス様が夜明けにガリラヤ湖畔でペテロと会ったからです。
 イエス様がガリラヤ湖で会おうと言われたので、ペテロはガリラヤに戻りました。夜に小舟で漁に出ました。当時、夜に魚を捕っていました。何も連れず夜明けになりました。岸から100メートル離れた弟子達にイエス様が網を下ろしなさいと言われました。大きな魚153匹が捕れました。そこで、ペテロはイエス様だと気づき、うれしさのあまり湖に飛び込んで岸に泳いでいきました。岸には、炭火と魚とパンが用意されていました。
 ガリラヤ湖に行って気づきました。そこにはエルサレムにはない静けさがあります。弟子達* ワヘイエス様との最後の晩餐から、イエス様の十字架、イエス様の埋葬、ユダヤ人を恐れる日々、緊張の連続でした。彼らに必要なのは休養することでした。
 夜明けの朝日は、夕陽とは違った希望の色があります。イエス様は食事を食べ終わるまで特に何も語られませんでした。食事が終わってから、ペテロに「わたしを愛しますか。」三度ペテロに尋ねました。
 ガリラヤ湖畔で祈っているときにもう一つ気づいたことがあります。ペテロがイエス様と会ってから、その後ガリラヤ湖には戻ってこなかったということです。最後はローマで殉教しました。つまり、イエス様はガリラヤ湖にはもう現れなかったのです。だからガリラヤ湖に戻る必要がなくなったのです。ペテロが行くところどこにでもイエス様の臨在と励ましたがありました。私にもここから立ち上がるように語られているような気がしました

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イスラエル研修

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1月に牧師向けのイスラエル研修がありました。イスラエル政府の援助があり半額で行けるツアーです。責任を取られている先生から誘われました。昨年の3月のことです。「あの先生、この先生も行きます。水野先生も行きませんか?」 ついつい「はい、行きます。」と返事をしてしまいました。
 夜、妻に話すと「あなたは何を考えていると、教会が大変なのに行けるわけないでしょう!!!」こてんぱんに叱られました。
 すぐに、申し込みをキャンセルしようと思ったのですが、もし、神様の導きだったら必要も与えられるだろうと思って、キャンセルを先延ばしにしていました。
そして、4月に思いもよらない額の献金が匿名で与えられました。そして、この研修に参加できました。感動の旅になりました。(写真はガリラヤ湖の朝日を見ながらのイエス様とペテロとの出会いを黙想しているところです。)

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変えられることが必要

変えられることが必要
 聖地研修でガイドをしてくださったのはユダヤ人と結婚した日本の女性でした。聖書を読み多くを学んでいる方でしたが、まだクリスチャンにはなっておられませんでした。だから、イエス様が5千人にパンの給食をした奇跡の場所にくると彼女は悩み、復活された場所に来ると悩みました。
 ガリラヤ湖からエルサレムに上る車中、彼女と話す機会が与えられました。彼女は自分の結婚について悩んでいました。結婚の幸いについて受け入れることができない状態でした。
 その日の夜にメシアニックジュー(ユダヤ人キリスト者)の礼拝に出席しました。エレミヤ書から「わたしのしもべヤコブよ。恐れるな、イスラエルよ。おののくな。見よ。ヤコブは帰ってきて、平安に安らかに行き、おびえさせる者は誰もいない。わたしのしもべ、ヤコブよ。私はあなたとともにいるからだ。」私達がイスラエル、ヤコブと聞いてもピンとこないが、まさに彼らはイスラエル、ヤコブなのです。感動しました。
 さて、その日の礼拝説教は「結婚について」でした。まさに彼女の疑問についての答えが語られた。彼女に神が語られたのです。私はさらに感動しました。終わってからどうだったか聞きました。「聞いたけれども特にどうということはありません。」の答えにがっかり。
 説教の中で、結婚においてトランスフォーメーションが必要であると語られました。自己中心で罪人である私達が結婚するとどうなるのか。うまくいかないのが普通です。お互いに従いたくないのです。そこには変革が必要。新しく変えられなければならないという内容でした。夫婦がお互いに従うこと、会社で上司に従うこと、教会で指導者に従うこと、そして、神に従うためには柔和と従順が必要です。それは御霊によって与えられるものです。

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世界一退屈な授業

    世界一退屈な授業
 今日は研修でエルサレムにいます。長い道中で何冊か本を持ってきました。その一冊が「世界一退屈な授業」現代の若者に大人達は何を教えてきたのか、学習指導要領で決められた内容、受験に勝つための技術?誰も本当に大事なことを教えていない、現代はどこにも師が見あたらない。そこで、適菜氏が5人の偉人の講演を紹介しています。
 退屈な授業といえば、中学の技術の授業、高校の水力発電の授業、大学の力学の授業。まったく面白くなかったのですが、何故か印象に残るのは何故でしょう。
 毎週、教会に来て信徒の方々は説教を聞きますが、もしや退屈な説教となっていないかとふと思いました。枚方に来て10年が過ぎ聖書をだいたい説教してきました。そこで、現在ヘブル書を説教していますが、自分だけで喜んで説教して自己満足に陥っていないかと考えてみました。
 藤原導夫師がある神学者の言葉を紹介しています。「清潔な釈義を伴う純粋な講解説教は、死ぬほど正確であるが、死ぬほど退屈でもある。」「説教者は聖書を第一のテキストとして読み、聴衆を第二のテキストとして読むべきである。」聴衆を置き去りにして自己満足の説教をしてはならないと警告しています。
 牧師として気づいたことは、牧師も会衆も共に成長して、説教がなされ説教が受け止められなければならないということです。牧師の成長が止まれば会衆は満足しませんし、会衆が成長していなければ牧師の説教はきちんと受け止められないのではないでしょうか。だから、教会全体が一つのからだのように成長していかなければならないのです。

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『もしも』の信仰と『それでも』の信仰

『もしも』の信仰と『それでも』の信仰
 『もしも』の信仰と、『それでも』の信仰があります。もしも、すべてがうまくいったら、もしも、成功するなら神を信じるという信仰。もう一つは、問題が解決しなくても、苦しみがあってもなお神を信じるという信仰です。エノクもノアもアブラハムも約束のものを得る前に信じたことが称賛されています。『もしも』の信仰ではなく、『それでも』の信仰が称賛されています。
 しかし、見えない神を信じることの中には、どうしても疑いを持つことは避けられません。イエズス会の創設者、イグナチウス・ロヨラは弟子達が成果があがらない時期に、信仰がぐらつき、自分の価値を問い、無能を感じることを見ました。
 天正少年使節がローマを訪問したとき。長崎から天正10年1月に出発して、ポルトガルについたのは天正12年7月です。実に2年半かかりました。その道中では嵐があり重い病気にかかっています。彼らの熱意も失われ疑いを抱くのも無理はありません。
 その時にロヨラは次のアドバイスをしました。「心細くなったときは、決して変化を起こしてはならない。むしろ、心細くなる前の日、自分が決意し決断の中にいた時に戻り変わらずに固く立ちなさい。」ヤンシーはそれにコメントをして『霊の戦いでは神への従順だけが出口を提供する。』と書いています。 
 私達も神の親密さを感じ、いくつもの危機を乗り越え、多くの経験をしてきました。しかし、神が見えない、感じない時も訪れます。これまでの経験を疑い、幻想を信じていたのではないかと思い、信仰を持つことが愚かしく感じるときがあるかもしれません。その時に、『それでも』の信仰がためされています。パウロは「固く立って」と何度も叫んでいます。

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開設日: 2006/1/10(火)


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