残心
|
その十二 残心之事 第一の教え 十のものを八・九まで使い、あと一・二をのこす残す 使い果たし行き過ぎては次の準備ができないから、皆使い果たさず一。二を残し蓄えておいて、その力を継ぎへのつなぎとして使う。 例えば有るお米を残らず食べてしまわずに翌年の栽培のために種子としていくらかのこしておくようなもの。しかし使う分は思いっきり使わないと役には立たないというのである。 第二の教え 十のものを十残らず使え、心を不十分にし、力をの残していては勝てるものも勝てない心気力を十分に働かして、乾坤一擲の勢いで打ち込むと勝つことができるとともに、に心身ともに残り、又太刀の構えも自ら湧いてくるものである。充実した心・気迫がなければ力が抜け、備えが崩れ技が、乱れ隙が生じ、負けとなる。 例えば、茶碗の水をだらだらとこぼすと、後には一滴の水もの残らないが、勢いよく茶碗の水を打ち捨てる茶碗の水が残るようなものである。未練を残さず打ち込み人は勝ち、生き残ることができる。 第三の教え 十のものを十使い果たし、さらに二を足して使えという教えである。一刀流の秘伝である。十しかないものに十つ使って、どうして二を足せるかというと、それは理外の理である。一刀流の一は単数であって又複数だからである。所作において両手で太刀を持った右手をいっぱい伸ばして切って足らなかったら柄頭まで右手を送り十に二を足して十二として、のべしき打ちを出せと割目録で教えている。それでも足りなければ死線を越えて飛び込めという教えである。 渾身の勇気をふるい一刀両断すると太刀の勢いがはしり出、生きて次のは働きの備えがでて、一円の輪となり尽きることがない。葉が木枯らしに散り新芽が生まれ、老樹が倒れその上に若木が芽生え林を成す永遠発展の生命の光景である。 残心についての教えでありますが、前回の「懸中待・待中懸」の教え同様 問題は如何に其れを表現するといいますか、体得するかというところの問題であります 目録とは其れを体現できたときに与えられるものである以上 我々が間違っているのは・・逆からの稽古に明け暮れるからだと解りました いえば・・ 今日・数々の教えを文章なり・話なりで読んだり聞いたり出来ることは幸せ至極でありますが 稽古の出発点といいますか、目標をそこに、目で見たり頭で覚えた極意に文言において稽古してしまうということだと、形振りかまわず稽古して、その域に達しなければならない 其れが稽古であり修行であると・・ 答えの解っているテストほど楽なものはないですが、それで理解できるはすはない 文言として頭に入ってそれに囚われ稽古をすること自体が逆だと・・ 必至の修行で体現できたことを、後に文章にすれば・・こうなりますよってことだと其れが 極意書とか目録といわれるものであって その文言に囚われて稽古するうちは、まず、その域に到達するのは至難なことだと思うに至りました。 ただ幸せなことは・・世が世ならばこのような極意書・目録などが・我々田舎の剣道愛好家 の目に触れることは一生ないはずで・・これらは 一子相伝・門外不出であるものだと思います。 だから尚のこと、そのような文言に囚われた、頭で考えた稽古をしないこと、 評論家的稽古を慎まなければ、思います。 石原範士が常々言われてました 「剣道雑誌は素晴らしい事が一杯記事になったり特集されます。八段の面とか 私の修行とか・・ですがそれはあくまで、読み物として楽しむ事が大切で その記事とか文章に囚われた稽古は慎むべきです」と・・・・・ いまやっとその真意が少し解りかけたような気がします。
|
