伊予西条一色党余話

伊予西条一色党についてあれこれ探索してみます。
 一色右馬三郎重之400年祭が彼の末葉達により愛媛県西条市で計画中である、そこで一色右馬三郎重之公についての云い伝えや史料をまとめてみた。
 
 右馬三郎の御祖は今から約650年位前に清和天皇から出た足利氏の一族(清和源氏)で鎌倉時代に足利泰氏の七男公深(きんぶか)が母方の三河国幡豆郡吉良の庄一色邑で養育され初めて一色姓「一色公深」を名のったのが始りと伝わる。
 
 表舞台にでるのは足利同族の一色党として元弘3年(1333)4月 始祖である公深の長男範氏が弟の頼行、長男直氏、二男範光らを従えて丹波国篠村(現亀岡市)八幡宮で足利高氏(尊氏)の挙兵に参陣して鏑矢を奉献し5月には京の六波羅改めに参戦し勝利してからである。

 
その後、範氏が鎮西総管領に任官し、九州南朝方の菊池氏と戦い戦功を上げる等して室町幕府が発足してからは三管四職の内四職の一つを担い将軍家側近の相伴衆・御供衆等の要職を長らく勤め努め、同時に丹後・若狭・三河・尾張・北伊勢・山城等の守護を兼ねて権勢を誇った。
 
 海の一色」ともよばれて強大な水軍を持ち伊勢湾・若狭湾の海上権確保し経済を保っていました将軍家や管領家の紛争のあおりで同族の違乱、国衆の反乱、隣国との紛争で絶えず戦乱に巻き込まれていき本領は三河であったが近隣諸侯の蚕食を被り、最終領土となる丹後においても隣国の若狭・丹波との争い等が続き緊張が絶えなかった。
 
 (丹後国の事)
 明徳の乱の恩賞として明徳3年申正月14日一色右馬頭満範には丹後国を給わって眉目を施せり。と大乗院日録に記せり。すなわち・・・これが丹後国守護一色氏の始まりです。
 丹後守護は初代満範(ミツノリ) 二代義貫(ヨシツラ) 三代教親(ノリチカ) 四代義直(ヨシタダ) 五代義春(ヨシハル) 六代義秀(ヨシヒデ) 七代義有(ヨシアリ)
八代義清(ヨシキヨ) 九代義員ヨシカズ) 十代義定(ヨシサダ)と天正八年まで180年余り続いた。
 十代五郎義定(ヨシサダ)は織田信長の大名となったが天正十年明智光秀の乱に巻き込まれ切腹した、彼は右馬三郎の兄と伝わる。
 
 天正6年から7年にかけて一色義員が足利義昭に組みしたるを織田信長に嫌疑をかけられ一旦は信長より安堵されていた丹後を長岡藤孝(細川幽斎)と明智光秀に攻められ激しい戦の末敗北し義員は中山城で自刃したと云われる。 
 
 残された一族縁者の長男義定はその後許され信名に2万石を与えられ大名となり弓木城に居て藤孝(幽斎)の娘伊也を娶たが天正十年明智光秀の乱(本能寺の変)に加担した疑いをかけられた、羽柴秀吉に付いた藤孝は類を及ぶのを恐れ娘婿である五郎義定を宮津城内に呼び出し討った。
 
 三男右馬三郎重之は天正八年、母の出里で伊予の外祖父野通泰を頼って、子の重直、重次(6歳の双子)、家臣赤澤某、伊藤嶋之助、佐和小十郎等十余名を連れ、再起をかけて伊予国へ来た。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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成相山展望所より天の橋立・宮津市内風景
 
 一色氏が190有余年守護として統治した丹後・丹波国の末期をタイムハンターしてみると其処にいたのは織田信長の家来達であった、戦国一の知将であり主君信長を本能寺で討った明智光秀。
 
 足利家・信長・秀吉・家康とめまぐるしく移り変わる戦国の世を類い希なる才知でくぐり抜けた近世細川家の祖、細川藤孝(幽斎)。
 
 武将、大名として活躍し、現在まで続く肥後細川家の基礎を築いた、細川忠興、妻ガラシャ。
 
 そして最後まで足利将軍家に忠誠を尽くした丹後守護一色義員と藤長。
 
 彼らは元々足利将軍家の家来であって義昭を次の将軍に擁立するべく奔走した仲間であり親戚関係でもあった。
 
  ガラシャは明智光秀の娘であり 細川忠興妻となった 仲人は織田信長であった。
 
  細川藤孝の娘、伊也は一色五郎の妻で仲人は明智光秀である。
 
 このように姻戚関係であるにもかかわらず義昭と信長の対立等により彼らの立場は微妙になり足利家への恩義と一方では織田信長に気に入られなかったら生き残れないという現実のジレンマで苦労したであろうと想像できる。
 
 「天下布武」の名のもとに天皇家から権威を奪おうとした信長を本能寺で討った明智光秀は天皇家を危機から救い国体を存続させたヒーローといっても過言ではない人物ではあるが・・・・
  
 もし「天下分け目の合戦」に細川家が明智に加担いしていれば、もし毛利家が明智に付いていたら秀吉の天下は無く丹後一色家も断絶しなくてすんだのだろうと考えると一色ファンとしては残念でならない。
 
 京の都に近い丹後国・丹波国は色々な意味でも大きな役割を果たしたのであろう。
 
 
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宮津カトリック協会に寄り添うようなガラシャの像
 
 

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                         一色五郎・一色藤長供養塔・碑
 
 全国一色同族会(現在は解散している)が丹後一色氏の聖地である盛林寺境内に建立した 一色五郎・一色藤長供養塔・碑をご紹介します。
 
碑文
 一色氏は三河国幡豆郡吉良庄一色邑の出で・・・・・明徳三年正月山名氏誅伐の勲功により満範が将軍義満より丹後国を拝領して入国した。
 
  以来義貫・教親・義直・義秀・義春・義秀・義有・義清と続き其の後藤長・義員・義辰・五郎等の名が見える。
 一色五郎左京権大夫。 諱は義俊・義有・義定・満信等と伝えられている。
 天正九年二月織田信長が催した天覧京都馬揃えに出馬、同年五月細川藤孝の長女伊也と婚姻、同年八月因幡国鳥取城攻めに参戦した。
 天正十年二月武田勝頼討伐のため、織田信忠に従い信州高遠城攻めに参陣したが同年九月八日宮津城において悲憤の最後をとげ丹後一色氏は一九〇年で滅亡した。
 開山逍室宗柏大和尚五郎に諡して当山に葬る。
 
 一色藤長。
 晴具息。七郎。従五位下。式部少輔。幕府御供衆。奉公衆。号一遊斎。歌人。
 将軍義輝(義藤)に仕えその諱を賜る。
 永禄十一年十月、織田信長、明智光秀、細川藤孝らと義昭を十五代将軍に擁立する。
 爾後、義昭の側近として仕える。
 天正三年信長よりあらためて丹後国を宛行われる。
 文禄五年四月九日歿。享年六十有五才。葬地未詳。
 ここに丹後一色氏滅亡四〇〇年遠忌にあたり、併せ主家に殉じた諸霊の鎮魂を祈念して供養の碑を建立した。
 平成二年五月吉日 大圓山 盛林寺二十世 正覚信良 謹選
 
 
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◎盛林寺とは
  一色氏重臣五家の一つである上宮津城主小倉播磨守の菩提寺として天正五年(1577)宮津大久保谷に創建された。
 小倉氏は天正六年十月、細川氏に敗れて滅んだ。細川氏は天正八年八月、丹後の大名として入国、宮津城をつくった。盛林寺はその庇護を受けた。
 盛林寺が大久保谷から上宮津に移ったのは、慶長八年(1603)で、場所は現在地の南に接する「寺谷」であった。
 当時、細川氏は九州中津(大分県)に移った後であった。 更に現在地に移ったのは貞享二年(1685)であった。
 寺地は山懐に包まれた景勝の地で、この地方の歴史を語る風物や文化財に恵まれている。
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この景色を見ながらご住職様からお話をお聞きしました。
 
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(この写真はパンフレットから)
 曹洞宗 大圓山 盛林寺 
 京都府宮津市喜多六九六
 心洗われる静かなお寺でした。
 
 
 
 
 
 

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 室町幕府の要職である四職にあり、代々、丹後守護を務めてきた一色家最後の当主一色五郎義定(義俊)は一色義員(義道・重貞)(丹後国9代守護)の嫡男である。
 一色氏は丹後国領主を長岡(細川)、明智に攻め滅ぼされるが信長に反抗した責任をとって自刃した父のお陰で許され信長の2万石大名になった。
 
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「短地地蔵」
 弓木城のすぐ近くに一色五郎義定伝説の「短地地蔵」がある。
 伝説があるので紹介しておきます、昔、弓木の城主一色五郎義俊は田辺(今の舞鶴)の城主細川藤孝の娘と結婚した。三年の後、織田信長に促され上京することになった。途中田辺城に岳父(がくふ)藤孝(幽斎)を訪れるつもりでこの地蔵尊の前を通った。
 突然、地蔵尊は五郎義定を呼び止め、「不吉の相あり、今日の田辺行きは思い止まるように。」と、注意した。短気な五郎義定は振りかえり「何を。」と、いうや否や抜く手も見せず、地蔵尊を袈裟掛けに切った。
 五郎義定は列を正し出発した。田辺城に義父藤孝を訪ねたが、地蔵尊の予言の通りは細川のために謀殺され多数の部下も主人と共に敵刃にたおれた。
 その後、里人等が両断された石地蔵を継ぎ合せて祀ったのが、この短地蔵であるといわれている
 
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           一色稲荷 一色五郎義定(義俊)自刃の地
 明智光秀の仲介で長岡(幽斎)の娘伊也を娶た五郎義定だったが本能寺の変で明智に付いた疑惑をもたれ長岡の城内(宮津)で自刃した。
 自刃の地には細川氏が怨霊をおそれ稲荷神社を祀った
五郎義定は一色右馬三郎の兄とされている。
 
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 宮津の盛林寺に一つの位牌に明智光秀と五郎義定の名が併記されているのを見てきました。
 賞雲源忠大禅門 天正拾壬午9月8日
一色様
※源は一色氏の出である源、忠は信長の子信忠の名をもらったのではないか)
(同一同列)
前一色賞雲源忠大禅門 天正拾壬午9月8日
前日州太守篠鉄光秀大居士 天正壬午6月13日

細川家家譜には義有(五郎)の死骸は菩提所大円山盛林寺に葬り、賞雲と諱すと記されている。

 そして同所にある光秀の首塚は一色五郎の墓ではないかと梅本先生はおっしゃています。

 一緒に写っている即安梅心大禅童子と書かれた位牌は細川藤孝の子「菊童」のものと伝えられている
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           盛林寺 明智光秀首塚 (一色五郎義定の墓と推定する人もいる)
 
天文〜天正時代は丹後欠史の50年と言われ諸説あり確実な事が分からないが伝説は色々と残っている。
 

 

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右馬三郎の父とされる9代丹後守護 一色義員(義道)についてもう少し詳しく調べてみると(梅本政幸氏の丹後守護代々より引用)この頃の丹後の情勢がよくわかる。
 

永禄6年 諸役人付  光源院殿(将軍足利義輝)御代
  御供衆 一色式部少輔  藤長
  外様衆 大名国衆号国人 
  丹州 一色左京大夫(義員)

       
 永禄6年(1563)一色義員(義道) 一色藤長の名前がでてくる。 一色左京大夫(義員)は9代目丹後守護 戦国の世を生き抜いた藤長はこの頃義員の補佐役であった。

  同年7月義輝の弟覚慶(後の足利義昭)は奈良興福寺一乗院より近江の矢島郷へ逃れた。一色藤長らがお供をした。

 永禄9年(1556)8月義昭は越前金ヶ崎城へ動座した。 一色藤長と一色昭光(宇治槇島城主))らがお供した。
 その後義昭は金ヶ崎より越前の朝倉義景を頼り、一乗谷の安養寺は入った。藤長らがずっとお供している。

 同年11月加悦の石川氏が一色を離れて丹波の波多野らと通じ、毛利に味方することを申し入れているが一色氏は既に織田信長に味方する構えを見せていた。

 永禄11年(1568)9月足利水軍義昭は織田信長の援をうけて上洛し10月十五代将軍に任じられ、同年4月、織田信長が丹後の一色義員に、信長に組みしてして国衆を率いて上洛するよう促した。

 永禄12年(1569)正月17日 織田信長より正月の祝賀に義員が信長に贈った献上品に対する礼状が届く、同年、丹後勢は信長の命で、先に焼かれた室町御所の替りに、二条勘解由小路室町館の新築工事に出役した。

 永禄13年(1570)4月20日信長は越前朝倉義景討伐の兵を起こした。 一色藤長が丹後へ帰って出陣の指揮を取ったが、義昭の側近である為自らは出陣を取り止めた。

 同年4月25日、一色義員は藤長に替わり丹後水軍数十艘を率いて越前金ヶ崎を攻めたて所々浦々に放火した。しかしこの時信長は長勢は後詰めの羽柴秀吉に護らせて敗退した。
 8月義員は矢野藤一郎光長(田辺城代)櫻井豊前守左吉郎(佐波賀城主)大島但馬守長光(田中高屋城主)らが加佐水軍を率いて田辺を出帆し、10月下間和泉守・筑前守頼照・松浦法橋ら越前一揆勢を攻めた、これらの功績により義員は信長より改めて丹後を与えられた。
  
 同年9月信長は萩野・波多野の勢力を排除する為に細川藤孝に丹後・丹波の経略を命じた命じた。

 天正4年(1576)2月足利義昭は紀州興国寺より備後鞆は動座し、毛利の援を受けて上洛を図った。お供の一色昭光や藤長がこれがため奔走した。

  8月丹後の一色義辰(竹野郡代)が吉川元春に対し、義昭が丹後をへて上洛する場合にはその通路を確保する旨一色昭辰に申し出ている。

 10月丹後・但馬の国人が波多野に叛して一揆を起こした。 同時に明智光秀と細川藤孝が丹後へ攻め入ったが本願寺光佐が挙兵したので引き返した。

 11月義昭は毛利・萩野らの援を受け、但馬・丹後・丹波より上京して室町幕府の再建を図ろうとしたが「時期尚早」と藤長が同意しなかった為、結局実現しなかった。

 天正5年(1577)10月光秀と藤孝は再び丹後へ入り、賀屋城を攻めた。

 4月この機を失せず光秀と藤孝は丹後へ攻め入って萱城を攻めこれを陥した。この後両人は引き返して上月城を攻めた。
 
 7月上月城が陥ちて尼子勝久・は自刃し山中幸盛も暗殺されて尼子氏は滅んだ。 勝久26才、幸盛39才であった。

 天正6年1578)10月光秀と藤孝は三たび丹後へ攻め入った。11月宮津の小倉一族はこれを阻止して敗死した。

 天正7年(1579)5月波多野宗長の守る丹波の冰上城が陥ちた。

 6月光秀と藤孝は丹波八上城と攻めた。城主波多野秀治は降伏の後磔刑に処せられた。

 7月光秀と藤孝は丹後へ入り嶺山城と弓木城を陥し、沼田氏(若狭熊川城主)をして田辺城を攻めた。義員は田辺城に籠城した。

 8月16日義昭は田辺籠城軍に対してその功を称え褒状を与えた。 義員は義昭の上洛に呼応してその通路を確保したものである。 結局上洛は中止となった。
 一色義員らが上洛の通路を確保してこれを助けようとしたが、ついに果たせなかった。
 
10月信長が明智光秀と細川藤孝に命じた両丹の計略は完了した。信長は丹波を光秀に丹後を藤孝に与える事を約した。

 この両丹の計略は一色義員にとっては、全く心外なものであった。天正3年(1575)信長への協力して度重なる戦功によって、丹後は再度一色領と認められているのに、攻めこまれたのでは面目が立たない。抵抗した加悦の石川氏と宮津の小倉氏は天正6年(1578)攻められ自滅してしまった。 吉原氏は藤孝入国直後の天正8年(1580)8月城を攻められ切腹している。
 田辺城でも、矢野藤一郎ら加佐勢が義員を擁して立て籠もった事が考えられる。 結局時勢には勝てなかった為か、7年9月の頃に開城し、義員が一切の責を負うて切腹し、部下を助けたものと思われる。

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