勤労の聖僧 桃水 #9(2、環境 その四)
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聖僧の誕生地、柳川(或いは柳河と称す)は、筑後国に於いては、『久留米絣』で知らるゝ久留米市に次ぐの大邑で、筑後川の左岸にある。邑中を貫いている川は、矢部川の支流、置端川であり、西南一里近くのところに見ゆるは有明海である。四方、二、三里という間には丘陵らしいものさえなく、水田と溝渠とが縦横に井々としてみゆるばかりである。 それでは、斯かる地理的環境は、人々に如何なる精神的感化を与えることをその特徴としているであろうか? 斯かる自然環境の中に人々が永住する場合は、恐らくは、その何代後かの、或いは何十代後かの子孫の性格のうちには、著しき虚無的性格が加えらるゝに至るであろう。単に人間とは限らず、生物一般の体質または気質または性格は、外在の物質の持つ色だとか形だとかに見る特色の影響も、どの程度にか受けるものであることは、既にしてわれわれの知るところである。 然らば、川及び水の色及び形の持つ特色は如何なるものであろうかとわれわれは考えてみたいのである。 いう迄もなく、孔子は、川のほとりに立って、水の流れを見ていっている。『逝く者は斯くの如きか、昼夜を舎かず』と。素よりこの言葉の底に見ゆるものは、絶大なる虚無感でなければならぬ。詰り、水という物質の、それを見る人々に与える精神的影響の特色は、虚無感である。 そのほかに、水の与える精神的影響を想像せしめらるゝ言葉としては、次のようなのもある。 『智者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ』(孔子) 『上善は水の如く、万物を利して争わず、衆人の悪き所に当る。故に、道に幾かし。それ唯争わず、故に水無し』(孔子) 『大道は譬えば水のごとし。善く世の中を潤沢して滞らざる物なり』(二宮尊徳) 『百川日夜逝き、物々相随つて去る』(蘇東坡) 『河は深ければ水の流るゝこと静かなり』(シェークスピア) 見るからに豊穣なる感を与える肥沃の平野が、この自然環境の中に住むこの地方の人々、聖僧の父母、聖僧などに、如何なる精神的影響を与えたであろうか、または、老子をして、『江海のよく百谷の王たる所以は、その善くこれ下るを以て、故によく百谷の王たり』といはしめている海―聖僧の誕生地の場合に於いては有明海―それが近くにあったこと、或いは、豊、筑、肥六州の四通の交通の交衛に当っていたがために古来より屡々戦場となったところの筑後、三井郡の高良山が余りには遠くはないところにあったことが、如何なる影響を与えたであろうかということに就いての想像は、もはや、私の説明を要しないであろうから、読者に一任する。私は進んで、書き残されているところの影響―聖僧の誕生地々方に於ける歴史的影響に就いて一言したい。 先ず、聖僧の誕生地、柳川の柳河城は、永禄年間、蒲池鑑盛によって築城せられたものと知られている。その後、龍造寺、鍋島の両氏が居城し、次には、天正15年、秀吉にてよって行われた九州征伐の際、秀吉より与えられて、前述の立花宗茂がこの柳河城の主人となったのである。 この立花宗茂は、非常に武勇に誉れの高かりし武将で、早くより秀吉に随身し、天正18年には小田原の役に従うて功あり、文禄より慶長に亙って行われた秀吉の朝鮮征伐の際には、慶長3年、蔚山に於いて加藤清正の急を救ったことが、史実に明らかである。前段説述の如く、立花宗茂は、関ヶ原に於ける敗戦後、柳川城に帰って、鍋島勝茂を相手に戦い、間もなく、黒田孝高、加藤清正の勧告に従って和を講じて兵を収め。続いて、自ら先鋒となって薩摩国に向かったが、島津氏の降伏後であった。徳川家康は、孝高、清正二氏の請いを容れて宗茂の罪を許し、所領を没収して、これを陸奥国、棚倉の城主として移して一万石を与えた。一方、久留米城主たりし、毛利秀包もまた、関ヶ原の戦いに於いては三成に味方していた。そのために、家康は、秀包の所領を没収して、田中吉政に筑後全体を与えて、宗茂の居城たりし柳川城の主人たらしめた。その後、宗茂は、秀忠に随って、大阪冬夏両陣に於て功を顕わし、元和6年、再び本領柳川城の主人として帰って来た。 ―以上は、聖僧の誕生地たる柳川の、柳川城に関する史実である。 筑後川の東岸瀬下には、安徳天皇、建礼門院、二位の尼を合祀した水天宮がある。建礼門院に仕えていた宮女、伊勢子の創建した宮である。この宮のある筑後川は、九州第一の大河で、水害なども免れないために、初めは、水神を祀ったのであったが、後に、安徳天皇の御入水に因んで、宮女、伊勢子が水天宮を創建したものである。毎年5月5日から5日間が大祭で、秋祭りは8月5日から3日間、その期間には、御輿を船に移す川祭りがあり、夜間には河岸に数百の紅灯を点し、花火を挙げて壮観いわん方もなし―と史文に記されている。 また、前述の高良山は、水縄山連峰の西端で、筑後川流域の平野に隆起している。山は左程高くはないが、景行天皇の御征以来、吉野朝時代に於いては、懐良親王、菊池武時、秀吉時代に於ては、島津征伐の古戦場となったところである。例祭は10月13日、3年目に一回だけは、本社から浅妻に渡御の恒例があり、当日は、甲冑を着けた騎馬武者や衣冠を帯した文官が、御輿の前後に供奉して、その列は10数町に及び、これを拝観せんとて集う群衆、その壮観は九州第一だといわれている。 ―それらの歴史的影響の持つ特色は、この地方の人々、聖僧の父母、幼年時代の聖僧に対して、如何なる影響を与えたであろうか?私の観察するところをいうならば、人々の気質乃至は性格を、『無常観』『物の哀れ』の根底の上に育成せしむることである。
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戦国武将、立花宗茂の関連本の紹介
私の一番好きな戦国武将は筑後柳川の立花宗茂である。 戦国時代に一番の奇跡を起し、一番さわやかに人生を生き抜いた 戦国大名は立花宗茂であろう。 山之内一豊とは武将のスケール(器)が違うが(宗茂の方が上)、如何せん現在の 全国的な知名度が低くTV番組やNHK歴史番組で紹介されることは無く 福岡県でも久留米市や柳川市以外の人は知らない人の方が多いだろう。 しかし、多くの方に立花宗茂の関連本を是非読んでいただきたい。 歴史好きな方々、正月休暇にぜひどうでしょうか? 若い方が読めば人生
2009/10/14(水) 午後 6:52 [ 漂泊の日々 ]
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立花宗茂が前では立花宗重になっていた、校正ミス?一応本の通りにしてはいましたが、宗茂が正解なのでしょう。
2009/10/14(水) 午後 4:40 [ 新千暖荘 ]
こんばんは
私も立花宗茂ファンです。
昔海音寺潮五郎氏の短編で知りましたが
もっと全国区で有名になっていただき柳川の観光客
増加に繋がれば、、、と考えます。
2009/10/14(水) 午後 6:48
小説で立花宗茂を書いた「孤闘」というものを最近読みました。上田秀人 中央公論新社。立花宗茂 人物叢書 吉川弘文堂 中野等著というのもありました。当地の図書館にて。
2009/10/14(水) 午後 7:46 [ 新千暖荘 ]
漂泊の日々さん 秀吉の東の本多忠勝、西の立花宗茂という言葉が格好良すぎます。真田幸村とはまた違った魅力を持っている武将ですね。
2009/10/14(水) 午後 10:22 [ 新千暖荘 ]