ひとを礼拝する

どんなに万能な人であっても、一人の力には限りがあります。十人の力、百人の力を借りなくては大きい仕事はできません。それは百も承知でも、人にまかせ、人に頼むのが苦手という人が多いものです。
嫌な顔をされたり、気兼ねしてやってもらうより、自分でやってしまうほうが気が楽だ、と一人で仕事を背負いこんでフウフウ言っている人がいますが、それを見てまわりが同情してくれるかというと、「あの人は、なんでも自分でやらないと気が済まない人だから」といった見方しかしてくれません。
人の力を借りるのは、相手の人に「私は信頼されているんだ。人の役に立てるんだ」という喜びを与えてあげることにもなるのですね。大事なのは、頼み方です。頼み方ひとつで、人を発奮させる材料にもなれば、押しつけられた、とやる気をなくさせることにもなってしまいます。
松下幸之助さんは「私は学校を出ていないから、人がみんな頼もしくみえる。わしはやれんが君ならできるはずだと相談すると、みんな一生懸命になってくれるんですよ」と話されています。信頼して人にまかせるのも礼拝行なのです。

立正佼成会開祖 庭野日敬師 世界宗教者平和会議主導者
 テンプルトン賞 ローマ教皇より「大聖グレゴリウス賞」 1999年92歳示寂。
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教会のご命日の説法会にうかがわせてもらうと、信者さんのすばらしい体験を聞かせてもらえます。ご主人がサラ金に手を出して「もう、ぜったいにやらない」と何度も約束しながら、またしても借金していたことが分かり、愛想が尽き果ててしまった奥さんが離婚を決意された。その奥さんと一緒に教会を訪ねたご主人が、教会長さんの法座の結びで、借金癖がピタリと直ってしまったという説法を聞かせてもらいました。
はたから見ると反省のハの字もない人にみえても、「もう、こういうことはやめなくてはならん」という反省の心が働いているのです。しかし、それと一緒に自分の弱さに引きずられる心も首をもたげて、五分と五分で争っているわけです。そこのところで、「これではいけない」という心のほうがちょっと優勢になっただけで、奇跡のような心の大転換が起こるのです。
ご主人のそうした心の転機のきっかけについて、奥さんは、「それまで私は、なんとかして主人を変えよう変えようとしてきましたが、教会長さんは主人を拝んでくださったんです。それで主人の目が覚めたのです」と説法してくださったのでした。すばらしい悟りではないですか。

立正佼成会開祖 庭野日敬師 世界宗教者平和会議主導者
 テンプルトン賞 ローマ教皇より「大聖グレゴリウス賞」 1999年92歳示寂。
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難信の法

法華経は難信難解(なんしんなんげ)の法といわれます。何が難しいのかというと、説かれている教えをそのまま信じきってしまうことが難しいのです。それを裏返せば、信じることができさえすれば「なるほど」と、だれにもすぐに分かるのが法華経の教えだということになりましょう。
法華経の教義を、初めから終わりまで理屈だけで理解しようとして万巻の書を読み、知識を詰め込んでも、教えの神髄はなかなかつかめないのですが、経典に示されたとおりに一つでもいいから実行してみると、ちゃんと結果が現われてきます。なによりもまず実行です。その実行へ踏みださせてくれるのが、お師匠さんの導き、サンガの見守りなのです。
「師匠のない仏教はない」といいます。自分ではかなり修行したつもりでいても、独りよがりになっていることがよくあるのですね。深く学んだつもりが、逆に知識を鼻にかけて我見を増長させることになっている場合もしばしばあります。自分一人では、そこになかなか気づけません。お師匠さんにいちいち指摘してもらって初めて自分の思い込みを離れて見られるようになり、利害打算を離れた無我の修行ができていくのです。

立正佼成会開祖 庭野日敬師 世界宗教者平和会議主導者
 テンプルトン賞 ローマ教皇より「大聖グレゴリウス賞」 1999年92歳示寂。
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だれしも、自分がほめられることほどうれしいことはないのに、人をほめるのは、あまり好きではないようなのですね。
「どうしたら開祖のように人の欠点を見ず、よいところだけを見られるようになるのですか」と、よく尋ねられるのですが、人の欠点ばかりが見えてしまうというのは、相手と張り合う気持ちが強すぎるからではないかと思うのです。弱みを見せまい、負けてなるものかと、自分を守ることで精いっぱいなのではないでしょうか。
私は、そういう無理ながんばり方をしないのです。自分よりすぐれた人には、すぐにシャッポを脱いで教えを請う。みんなが仏さまの子ども同士なのですから、張り合ってみてもなんの意味もないのですね。そういう考え方で、自分をがんじがらめにしている自己防衛の心から解き放たれると、おのずと心のゆとりが生まれ、相手の美点が見えるようになってくるのです。それが慈悲の眼です。
たとえばお姑さんとお嫁さんが、この心のゆとりを持つことができたら、毎日がガラリと変わってしまいます。人を心からほめられるようになる秘訣は、そこにあると思うのです。

立正佼成会開祖 庭野日敬師 世界宗教者平和会議主導者
 テンプルトン賞 ローマ教皇より「大聖グレゴリウス賞」 1999年92歳示寂。
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法をよりどころに

冷戦構造がくずれて、「こんどこそ世界に平和が実現する」と期待した矢先、世界のあちこちで紛争が噴きだしてきました。大国も政治不信に大きく揺らいでいます。これまで冷戦構造によって、世界ががっちりと締めつけられてきたそのタガがはずれたことで、自分たちの民族、自分たちの国の権威を一挙に回復しようとする意識の高まりともみられますが、うっかりすると、混乱と無秩序が世界を覆いかねません。
お釈迦さまは、「自分をよりどころとし、他人をよりどころとしてはならぬ。法をよりどころとし、他をよりどころとしてはならぬ」という「自灯明・法灯明」の教えを説かれました。
本当の自分をよりどころとするということは、自分一人だけポツンと存在しているのではなく、周囲の社会とのつながりによって生かされている存在である自分に気づくことです。その全体の中で、自分はどういう役割を担っているのか、それを自覚することこそ自己の尊厳を知ることでありましょう。
個人も、国も、そこのところをかみしめなくては、新しい世界は開けないと思うのです。

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 テンプルトン賞 ローマ教皇より「大聖グレゴリウス賞」 1999年92歳示寂。
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頼りになるものは信

「悪をなさず、善行を積んで、心を浄める。それが仏教の要諦だ」と鳥カ禅師(ちょうかぜんじ)に教えられた白楽天という人は、中国・唐代の大詩人で、中央政府の役人でした。地方に左遷され、それを解かれて杭州の長官に赴任したときに、木の上で坐禅を組む高僧のことを聞いて訪ねていったのでした。
白楽天が、樹上の鳥カ禅師に「そんな高い所で危なくはないですか」と問いかけると、鳥カ禅師はすかさず「お前さんのほうこそ危ないだろう」と答えます。その答えは、政治の世界はいつ足をすくわれるか分からない。本当の安心は、どこにいようが教えを求め続けるところにあるのだ、という意味に解釈できるのではないでしょうか。
地位も財産も、人の本当のよりどころとなるものではありません。頼みにできるのは、自分の心、自分の信心です。その「信」さえしっかり持つことができれば、どんな人に対しても、どんな事態に直面しても、心にゆとりを持って、そこに意味を見いだし、それを成長の糧としていくことができます。この心こそが功徳の源泉です。

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新監督のひとり相撲

プロ野球の監督をしてこられた人が、「新任の監督というものは、どうしても早く動きすぎてしまう。私もそれでいくつも試合を落とした苦い経験がある」と、テレビで話されていました。
新監督として早く結果を出したい、一つでもよけい勝ち星が欲しいと考えるのは無理もありません。それで自分の野球をしようとして選手を起用し、交代させるのですが、選手は監督の考えていることが、すぐには理解できない。それで監督の頭の中だけの“独り野球”になってしまうわけです。
監督のほうは「なんと下手くそな選手だ」と選手を責める。選手は「野球を知らない新米監督」と心の中であざける。お互いに違った土俵で不信感をつのらせてしまうのです。監督が考えていることを選手が腹の底から納得してプレーができるようになるには、それだけの熟成期間が必要です。
早く油をとろうとして一気に搾って油を汚してしまう「油を圧(お)す殃(つみ)」の戒めは前にもお話ししましたが、功をあせって「油を圧す殃」をおかし、あたら人材をつぶしてしまったのでは元も子もありません。

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ほめて認める指導を

日本プロサッカーリーグの最高責任者である川淵三郎さんは、かつての東京五輪で日本代表選手として活躍した人です。川淵さんの話をうかがうと、自分の選手時代を含めて、これまでの日本のコーチ法は「何度言ったら分かるんだ」と、いわば否定的指導で選手をしごき上げる方法だったといいます。
しかし、スポーツも勉強も、繰り返し繰り返し練習を続けていかなくては上達は望めません。「それには、積極的支援のコーチのほうが大事だ」というのです。それを川淵さんはクラマーという監督に教わったそうです。クラマー監督のコーチ法は「いまのシュートはすばらしいぞ」とほめて、「でも、こうすると、もっと楽にシュートが打てるんじゃないか。一緒に練習しよう」という教え方だったそうです。
子どもにいきなり、「将来のためにがんばるんだ」と言っても効き目はありません。子どもは将来のことまで順序だてて考えることができないのです。それよりも、自分を認めてくれる人が目の前にいることのほうが大事で、そういう人がいると、ほめられたい一心でがんばる。そうして一つずつ力がついてくると、おもしろくなって本気になっていくのです。

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ドイツの著名なジャーナリストとして活躍されたロルフ・イタリアンダーさんが先ごろ亡くなられましたが、イタリアンダーさんは、来日して全国の佼成会の教会を回って実際に会員さんの話を聞き、「佼成会の仏教は、だれもが『なるほど、なるほど』と納得して救われる教えだ」と言っておられました。
そもそもお釈迦さまの教えは、人間の本質を見通して、人が幸せになるにはこう生きるしかない、という道を示されたものです。人間の本質をつかんだ人の話は、だれもが「なるほど、そのとおりだ」と納得せずにいられないのです。
「人はこうあるべきだ」といった説き方だと、「しかし……」とかわされることもあるのですが、この世の成り立ち、人間の本質をズバリととらえて、これ以外に人の生き方はない、と心の底から納得してもらえば、もう、だれも逃げようがありません。それで、教えのとおりに実行してみると、「なるほど、本当に幸せになるにはこれしかなかったのだ」と、もう一つ納得がいくわけです。
人を行動に踏みださせるのには、心からの「なるほど」が必要なのです。

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本当の自信とは

新横綱の曙関は、横綱に昇進した初土俵で黒星を喫してしまった夜、何度も負ける夢を見て、汗びっしょりになって目が覚めたといいます。同じように、現・北勝海親方も新横綱の土俵で負けて、「このまま連敗したら引退しなければならん」という思いが胸をよぎったというのです。しかし、そのとき先輩横綱の千代の富士関(現・九重親方)に、「力があるから横綱になったんだ。強気でいけ」と言われて、ようやく平常心を取り戻すことができたといわれています。自分の才能への自信、積み重ねてきた努力によって得た自信が、一つのつまずきでガラガラとくずれてしまうことがあるのですね。それに、もう一つのものが加わらないと、本当の自信にならないわけです。
山田恵諦猊下は「自分の努力、まわりの援助、それに神仏のご加護が加わらなくては事は成らぬ」とおっしゃっておられます。背後で自分を見守り、押しだしてくれる力を感じたとき、自分が蓄えてきた力を百パーセント出しきることができて、信じられないようなことが可能になるのです。
自分のすべてをまかせられる帰依の対象を持つことによって、考えられないような不思議が起こるのは、そこなのです。

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