岐阜に来ています。
今週中は、寒く天気も悪そうで、雪が降るかも知れません。
さて、続きです。
戦局が悪化した昭和19年、大学2年生だった常和は、学徒動員に先だって特別に徴用されることになったのです。
常和、幼少の頃から外交官の父和幸に習って、日、英、独の3ヶ国語が操れたのです。
ですから、その会話能力を見込まれ、特殊な任務に就くためにと徴用されたのです。
異例なことでしたが、彼は出征に先立って海軍兵学校に特別に編入され、3ヶ月の短期の教育を受けました。
父から、米独語会話と共に欧米的な考え方を教わっていた常和には、天皇陛下万歳とか、玉砕なんて思想は理解できませんでしたし、3ヶ月の教育は、ひたすら実戦に対処するためのものでしたから、彼の考えを変えるところまでには至りませんでした。
そもそも、自分の任務が何なのか、何のための教育なのかさえ知らされなかったのです。
実際に行けばわかるとしか教えられず、任務を全うできれば、大学に復学させ、学費も免除すると言われ、背に腹は代えられず渋々引き受けたのですが、海軍兵学校での教育が終わるや否や、潜水艦に乗り組んで出発することになりました。
ここでもまた、誰に聞いても行き先は船長しか知らないとの答えで、更に訳がわからなくなりました。
秘密裏に何かを運ぶ任務なのかと思ったのですが、食料と燃料以外のものは積んでいないとの船員の証言もありましたから、どうも違うようでした。
すると、逆に何かを受け取りに行く、それしか考えられませんでした。
常和、英語ドイツ語の能力を見込まれたわけですから、相手はその言語圏と考えられましたが、まさか敵国ではないでしょうから、ドイツに行くと考えるのが最も合理的な答えでした。
しかし、フィリピンを過ぎたあたりで、潜水艦は敵機の魚雷により撃沈されてしまったのです。
当時の潜水艦、現代の原潜と違って、ずっと潜ったままではいられませんでしたから、制空権を失った地域では何時撃沈されても不思議は無い状況でした。
そこで常和は、海軍兵学校の教育にもありましたから、艦長には、艦から緊急退避する際の用意と訓練をすべきと進言していたのです。
ただ一人任務の詳細を知っていたと思われる飯塚雅彦艦長は、普通なら縁起でも無いとぶっ飛ばされても不思議はない彼の進言に、「そうだな。君は、緊急退避できるよう、用意をしておけ。」と笑いながら命じたのです。
そして、潜水艦が沈没する直前に彼は逃げ出したわけですが、元々異常に少なかった乗組員の中で、逃げたのは彼一人だけだったのです。
「早く逃げないと沈んでしまう。何故逃げないんだよう。」
彼は叫びましたが、艦長以下の乗組員たち、生きて帰ることはない覚悟だったらしく、笑顔で艦と共に沈んでいったのです。
狐につままれたようなというか、これは果たして現実なのだろうかとの感覚の中、常和は救命胴衣を着て、船の破片に這い上がって3日間海を漂っていたところ、偶然通りかかった味方の駆逐艦に助けられました。
しかし、たった一人の生存者の上、任務もよくわからないのですから、説明しようにも要領を得ず、仕方なく暗号通信のための通信員として大学生ながら徴用され、潜水艦に乗り組んでいたと答えることにしました。
うさんくさげに見られた常和は、たった一人おめおめと生きて帰った国賊と揶揄され、死んでこいとばかりに、1週間後に小さな水雷艇に乗せられて出撃しました。
この出撃も、確固たる作戦に絡むものでは無く、目標もはっきりしないものだったのですから、無謀であり、結果は更に悲惨でした。
出撃して半日もたたずに敵機の機銃掃射を受けただけで爆発沈没し、彼自身、敵機の弾丸が腹部を貫通する重傷を負いながらも、奇跡的に内蔵には損傷がなかったらしく、他の乗組員が全員死んでしまった中、またまた前回の経験を生かして救命胴衣を着て船の破片の上に這い上がり、波間を3日間漂っていたところを、偶然にも前回と同じ駆逐艦に救助され、今度もたった一人の生還者になったのです。
こうなると、兵士たちの中には、国賊どころか死神と言う人まで出ましたが、今回は名誉の負傷がありましたから、風当たりは前回ほど強くなかったのが面白いところでした。
そして、野戦病院に収容されたときに一緒になった上官が、たまたま神戸商船大学の先輩だったため、まだ大学生なのに、本格的な学徒動員を前に訳ありで徴用されたらしい常和を惜しんだ彼の好意で、終戦前の6月に転進組として本土に戻ることができたのです。
宮崎の飛行場に降り立った常和は、海軍所属の立場のためもあったらしく、特攻隊の訓練を尻目に、待機命令が下りました。
そこで、休日に今は平和台公園と呼ばれている公園まで出かけ、八紘一宇の石碑の前に立って思いました。
本来「八紘一宇」とは、世界の国を一つの家のように支配するとの意味の言葉であり、この石塔は、何と世界中の遺跡から持ち寄った石材で作られていました。
軍部は、世界を天皇陛下の元に独占支配すると解釈して侵略戦争の理論武装に利用していたのも確かですが、当時は朝日新聞あたりも、その思想を積極的に鼓舞していましたから、常和は、実態を知らせない大本営や軍部だけを責めるのは筋違いだと考えていました。
何故人間同士が戦わなくてならないのか。何故殺し合わなくてはならないのか。
悲惨な戦闘を見、周囲で多くの人の命が奪われた経験をした彼は、碑の前に座り込んで考えました。
しかし、所詮答えは出せなかったのです。
彼には、人間の存在意義自体がわからなくなったのです。
出撃させられたら今度こそ死ぬだろうなと思いつつ、彼は短い間でしたが、宮崎で過ごしました。
その頃、青華は晩年を迎えていました。
大野良明と結婚し、西宮の夫の医院を手伝っていた彼女でしたが、空襲で家と病院を焼かれたため、夫婦は広島市内で親戚の病院を手伝い、子供たち二人は津山に疎開させていました。
そして迎えた8月6日、空襲警報が発令された時、青華は自分と夫の運命を悟りました。
ああ、二人一緒に死ぬ時が来たんだと。
そして、夫を誘い、空襲警報を無視して病院の建物から外に出ると、空を見上げながら夫に言いました。
「こんな時代だけど、幸せな人生だったわ。良明さんありがとう。」
妻の言葉に、良明も結婚前に彼女が言った、二人一緒に死ぬという言葉を思い出し、運命を悟りました。
「そうだな。お前と結婚できて幸せだった。子供二人は、安全な所に居るし、何とかなるだろう。ありがとう。」
微笑みあった後、二人で空を見上げると閃光が走りました。
そして、二人は一瞬にして消滅しました。
同じ頃、竹野清十郎の屋敷跡の竹林が一斉に開花しました。
竹野青華の名は、飢饉の前兆とも不吉とも言われる竹の花を想起させるから縁起でも無いと言った人も居ましたが、清十郎は彼女の人生を表すと押し切っていたのです。
彼が言ったとおり、竹林の開花が、彼女の死を告げるものともなったのです。
幸いほどなく戦争は終結し、死を覚悟していた辻野常和は、無事神戸の我が家に戻ることができたのですが、二つの理由で大学を中退せざるを得なくなってしまったのです。
一つは経済的な理由でしたが、もう一つが皮肉なことに、学籍確認の為に提出した書類から、彼は、戸籍上は継母松子の実子となっていて、年齢もアメリカにいた3年の期間がカウントされていなかったため、実際より3歳若いことが明らかになってしまったことでした。
常和は、当時としてはとんでもないできちゃった結婚の子供となってしまっていたわけですが、これは、今は亡き祖父が、よかれと思って瑠璃との婚姻届を提出しなかったためのようでした。
当時は飛び級的なことも認められていたとは言え、それはそれなりの試験を受けた者であり、年齢が3歳も違うと本人であるかどうかも疑われることになったのです。
結局は、経済的な理由が主で大学をやめざるを得なくなったのですが、それまでの成績は優秀でしたから、亡父の伝で一流の商社に就職することができました。
そして、大学の恩師の紹介で、資産家の娘の神坂高子と結婚することになるのですが、この時彼は、大学を卒業したと偽った上に、大学中退後、やることがなくなって実母瑠美の消息をたどっていた際に偶然めぐりあって、経済的にも支えてもらいながら同棲を続けていた、2歳年上の再従姉妹の原田留美子を、冷酷にも捨てたのです。
高子の母の鶴子は、偶然常和が留美子と同棲している事実を知り、彼女と話しまでしたのですが、留美子は、常和のためになるなら自分は身を引き、二度と二人の前には現れないと健気にも誓いましたし、本当は娘のことはどうでもよいと考えている変な母親だったため、高子にも夫にも伝えませんでした。(しかし、後年孫の俊一郎にだけこのことを教えたのです。)
続く。
画像は、岐阜の金華山のお城です。
斎藤道三、織田信長の頃はどんなお城だったのかわかりませんが、今は鉄筋コンクリートの無粋な建物です。
なお、このお話、事実に基づく部分も多いのですが、あくまでフィクションです。