京都の太閤秀吉めぐり。・*☆ vol.1
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京都旅行では、豊臣秀吉ゆかりの地をめぐりました(*^-^*) 百姓の家に生まれ、足軽として織田信長に仕え、数々の手柄をたて、信長亡き後天下を統一し、 関白となった豊臣秀吉は、京都にもたくさんの足跡を残しています。 ゆかりの地をめぐる前に、秀吉公のお墓参りに行きました。 313段登った先に唐門、合計565段の石段を堅い下駄で登るのは大変だと思い、 ウレタン製の柔らかい草履に履き替えましたが、すぐに脚が筋肉痛になりました。。。 京都が見渡せる山頂に、ひっそりと秀吉公が眠っています。。。 地元名古屋出身の武将なのに、京都にお墓があることを知りませんでした。 慶長3年(1598)8月18日、秀吉は63歳で伏見城にて薨じ、遺体は阿弥陀ヶ峰に葬られました。
山頂に立つ五輪塔は、高さ約10メートルの立派な塔です。
豊臣氏の滅亡と共に廟は破壊され、墳墓に訪れる人もなく、風雨にさらされていたそうですが、 明治30年(1897)、秀吉の三百年忌に際し廟宇が再建され、墳上には巨大な五輪石塔が建てられました。 三十三間堂の南門付近に、秀吉公が築造した太閤塀と呼ばれる重要文化財の築地塀があります。 三十三間堂から歩いて5分くらい、豊国神社の西にあたるところに耳塚があります。 秀吉公が「文禄慶長の役」(1592〜98年)の際、朝鮮の人たちを老若男女問わず虐殺し、 戦功の証に首級を持ち帰るかわりに鼻や耳をそぎ落とし、塩漬けにして持ち帰って この地に埋め、供養の儀が行われたところです。 耳塚から歩いて1〜2分のところに豊国神社があります。 豊国神社は秀吉公を祀るために豊臣秀頼が創建しましたが、徳川家康によって取り壊されました。 明治13年に現在の方向寺大仏殿跡に再建されました。 国宝の唐門は伏見城からの移築で、出世開運や勝運のご利益があるといわれています。 豊国神社のすぐ隣にある方広寺は、秀吉公が天正14年(1586)に創建しました。 奈良の大仏より大きな大仏殿も文禄4年(1595)に建立されましたが、焼失倒壊を繰り返し 荘厳だったかつての姿は無く梵鐘だけが残っています。 徳川家康は、鐘にある「国家安康君臣豊楽」の銘文が、家康に対する豊臣の反逆の意志と曲解し、 これにより大阪冬の陣・夏の陣が起き、豊臣家の滅亡のきっかけとなりました。 鐘をつくと淀君の幽霊が現れるなど、大仏七不思議が伝わっています。。。 この鐘は重要文化財に指定されており東大寺、知恩院と共に日本三大名鐘のひとつとされています。 豊国廟から車で2〜3分のところにある豊国神社に駐車場があり、方広寺と耳塚、太閤塀は歩いてまわれます。 この記事の写真の無断使用はお断りさせていただいきます。
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