北京老学生・日本から台湾へ

2013年春、4年半ぶりに日本に帰国。2017年春、今度は台湾・台中へ。

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1月の下旬に、広島と呉の旅行に出かけたが、その最終日(広島に泊まった最後の日)=1月27日に、国立広島原爆被爆者追悼平和祈念館を再び訪ねたことを、まだ書いていなかった。


本日(2日)、新聞に作家・林京子さんの訃報が出ているのを見て、そのことを思い出した(前から折を見て、書こうとは思っていたのだが…)。

林さんは、(作品を読んだ記憶は、あまりないが)1930年生まれで、86歳だったという。
長崎に生まれたが、父親の赴任で上海で育った。45年に母親らと長崎に引き揚げて、14歳だった8月9日、学徒動員で働いていた三菱兵器製作所で被爆。


<75年、原爆投下後の長崎の人々の経験と苦悩を、女子学生を主人公に描いた「祭りの場」を発表。加害者側の視点も冷静に盛り込んだこの作品で芥川賞を受賞した。>
これは、2日付『朝日新聞』の記事からの引用。


これまで何度も書いているが、昨年6月に91歳で亡くなった母(東京都多摩市に住んでいた)も、長崎の生まれ(長崎市ではなく、今の大村?にあたるようだ)、8月9日は、長崎市内の職場(銀行の支店)で迎えたとのこと。
当時、母親は、(大正14年=1925年の生まれだから)昭和の年号と同じ、満『20歳』だったはず。

長い間、『被爆者であること』を隠すような生き方をしてきた(そういう境遇のなかで、生きてきたのだろう)。なお、外見的には何も異常はなかったが、最後は(被爆者にも多いといわれる)血液がんの一種で、白血病の状態になり亡くなった。


その母親の持っていた『原爆手帳』によれば、『被爆した場所』は、長崎市西浜町で『爆心地から 3.4キロメートル』と記されている。
考えてみると、母は、映画『この世界の片隅に』の主人公『すずさん』とほぼ同じ年齢である。また、林京子さんよりは、5つか6つほど年上だったことになる。


林さんの訃報を読んでいると、いずれかの新聞の記事に、彼女が(被爆当時)、長崎県立長崎高等女学校に在籍していたと書かれていた。

実家から持ち出していた母親の遺品というか、所持していた本などのなかに、<くちなし 第2集 還暦記念 昭和60年5月>という赤表紙のものがあった。

変色したそれをめくると、(非売品ではあるが)『奥付』に『発行 長崎県立長崎高等女学校第38回生』と記されている。
やはり、林京子さんというのは、母の後輩にあたる人らしい。


まあ、それだけの話だが、改めて、『広島・呉旅行』の最後に、平和記念館をもう一度訪ねた(というのは、3日前の24日にも一度、訪れていたから…)時のことを書いてみよう。

この日は、呉をたって、広島に戻ってきた形になる。
夜は、映画『この世界の片隅に』を広島市内の映画館を見るのも面白いだろうと思って、広島に到着後、映画館で『チケット』を購入済みだった。


実は、前日は呉市内の映画館で『この世界の片隅に』を見たので、連続して見たことになる。呉市、広島市という映画の舞台である場所で、見るとやはり違った感慨を感じた。
ちなみに、これまで私はこの映画を、5回ほど見ているが、過去において、このような映画の見方をしたことはなかった。

それで、映画は『レイトショー』で夜9時20分にスタートだったので、その前に、平和祈念館を訪ねようと思った。
ホテルは、呉に行く前に2泊していた、(平和公園のそばの)同じビジネスホテルをまた予約していた。


なお、この日(その後)見た映画に関する記事は、次のようにまとめている。


(つづく)







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2017/3/2(木) 午後 6:44 [ 北京老学生 ] 返信する

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