北京老学生・日本から台湾へ

2013年春、4年半ぶりに日本に帰国。2017年春、今度は台湾・台中へ。

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前回、写真がうまくアップできなかったので、まずは写真でもう一度、紹介する。

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これが平和公園のそばにある原爆ドーム。

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そして、これが平和祈念館の案内。

この国立広島原爆死没者追悼平和祈念館は、2002年8月に開館している。
長崎にも同様の施設がある。原爆資料館と異なり、入館料はとっていない。


ここは地下1階、2階が公開されていて(地上部分は、ただの『鎮魂の?』空間になっているのではと思う。どういう建物なのか、ちょっとわかりにくい)、次のようなものがある。

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地下2階の平和祈念・死没追悼空間。
爆心地から360度の様子が再現されている。

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遺影コーナー。遺影と名前が、検索できるようになっている。
私の母も、昨年、(原爆と関連性があるとも思える)血液がんで亡くなったので、若き日の写真など資料を長崎の平和祈念館に送って、登録してもらった。
そのうち、機会をもうけて、長崎の平和祈念館を訪れてみようと思っている。


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こちらは、地下1階の情報展示コーナーと体験記閲覧室。
どこも、来場者はあまり多くない(原爆資料館と比べると雲泥の差である)が、来ている人(外国人がかなり多い感じだ)は皆熱心で、資料や情報を見ている。


私は、この体験記閲覧室で、5人の体験記を端末に表示させて読んだ。
Aさん(女性、当時19歳)、Bさん(男性、当時20歳)、Cさん(男性、当時20歳)、Dさん(女性、当時12歳)、Eさん(男性、当時14歳)の5人である。母が被爆当時20歳だったので、それに近い年齢の人を検索した(つもりだった)。
(なお、いつの時点で書いたものなのかは、その体験記によって異なると思う。)


Aさんは、広島駅の改札で勤務していた。現在、子が3人、孫が7人、ひ孫が10人もいるという。去年は、一番上のひ孫が作文に書くため、原爆の話を何日もかけて聞きに来たという。そして、『ひいおばあさんのことが、よくわかった』と言ってくれた、と書いていた。

Bさんは、子供たちも成人したが、白血病が普通の人の半分くらいしかない、また孫も白血球が少ない、将来、原爆と関係のある病気が出てこないか心配だと書いていた。

Cさんは、『軍人・軍属』と区分されていた。昭和20年2月に福山市から広島市内に配属が変わった。小高い山のてっぺんに高射砲陣地があったからだという。ただし、その後、高射砲に必要な人員以外の『余剰人員』は次々と特攻隊に『志願』させられたとのこと。

また、被爆した人たちが死んでいくときに、どこの誰なのか氏名を聞き取る作業を行った。ところが、どうしても名前を言わずに死んでいく女性たちがいた。あとで聞くと遊郭の女性たちだったという。『非常にあわれであった』とこの人は書いていた。

Dさん(女性、当時12歳)は高等女学校の1年生だった。
『建物疎開作業』に従事するために、学校に出てきていた。
ところが、日ごろから『気象と空襲の関係』を調べておられた校長先生が、『今日は空襲がある』と予感し、大勢の生徒を防空壕もない市内の中心地に連れていくことはできないと、職員たちと協議中に、原爆が落ちた。
このように記していた。

Eさんは、今、平和公園のある元柳町で被爆した。14歳の男性だが、学徒動員(勤労動員)で働いていたらしい(この人の体験記のメモは、ほとんどできていなかった)。

以上、ノートにメモしたものを再録した。
当然だが、被爆した一人一人の人に、『生きてきた道(や事情)』があった。

このあと、ホテルに戻った。










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