北京老学生・浙江省嘉興(ジャーシン)市の日々

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【自殺対策】その真意を誤解していたのかもしれない『GKB47』と『AKB48』

 時々、自分がこのブログに書いた記事の内容について後悔(あるいは疑問)を感じることがある。
 
 今年の2月7日と、2月8日に書いた二つの記事について、今、そのように感じている。
 2月7日の記事が、<【一時帰国】国会中継、GKB47に超党派の批判>
http://blogs.yahoo.co.jp/mochimoma/15198239.html

 というタイトル。2月8日は、その続報で、<【一時帰国】GKB47、ついに撤回>
http://blogs.yahoo.co.jp/mochimoma/15213378.html
 というタイトルである。
 
 内容は、『自殺対策強化月間』である3月(春先は、自殺が多い)のキャッチフレーズとして、『あなたもGKB47宣言』というものが決められていたことに関するもの。
 
 『GKB』とは、『ゲートキーパー・ベーシック』の略。
 
 これについて、国会の質問でとりあげられ、『AKB48』をもじった、興味本位の内容として批判され、その後、撤回されたというのが、その趣旨である。
 
 『GKB47』というのは、自殺を防止するためには、周囲の気づき、あるいはサポートその他の社会的な地域の仕組みが必要ということで、そのような体制、あるいは窓口を全都道府県に構築していこうという意味なのだろうと思う。
 
 この時点で、私は、『AKB48』のパロディのような言葉を使用するのであるから、『不適切』というような発想(ある意味、常識的で『普通』の発想でしかない)でもって、このニュースに対して対応してしまった。
 しかし、今は、ちょっと(というか、『かなり』)違った気持である。
 
 最近、身近なところで、『自殺』を経験した。
 
 そういう『立場』で、このニュースをとらえると、あるいはこのキャッチフレーズを提案した人、採用した人たちには別の思いがあったのかもしれないと感じる。
 
 日本では、『自殺対策基本法』という法律が2006年に施行されている。
 少し長いが、この法律の第1条と第2条を引用してみたい。
****************************************
 第一条 (目的)この法律は、近年、我が国において自殺による死亡者数が高い水準で推移していることにかんがみ、自殺対策に関し、基本理念を定め、及び国、地方公共団体等の責務を明らかにするとともに、自殺対策の基本となる事項を定めること等により、自殺対策を総合的に推進して、自殺の防止を図り、あわせて自殺者の親族等に対する支援の充実を図り、もって国民が健康で生きがいを持って暮らすことのできる社会の実現に寄与することを目的とする。
 
 第二条 (基本理念)自殺対策は、自殺が個人的な問題としてのみとらえられるべきものではなく、その背景に様々な社会的な要因があることを踏まえ、社会的な取組として実施されなければならない。

 2 自殺対策は、自殺が多様かつ複合的な原因及び背景を有するものであることを踏まえ、単に精神保健的観点からのみならず、自殺の実態に即して実施されるようにしなければならない。
 
 3 自殺対策は、自殺の事前予防、自殺発生の危機への対応及び自殺が発生した後又は自殺が未遂に終わった後の事後対応の各段階に応じた効果的な施策として実施されなければならない。
 4 自殺対策は、国、地方公共団体、医療機関、事業主、学校、自殺の防止等に関する活動を行う民間の団体その他の関係する者の相互の密接な連携の下に実施されなければならない。
****************************************
 
 法律であるから、ある意味では、『冷たい感じ』を受ける、整然としたきれいな言葉が並べられている。
 
 しかし、現実はどうであろう。
 ここに書かれているように、『自殺』は社会全体が対処しなければならない問題としてとらえられているのだろうか?
 
 身近に起こった『自殺』について、真剣なとらえ返しがなされているのだろうか?
 逆に、『自殺』が『自殺』ではなかったとして、隠ぺいされているようなこともあるのではなかろうか?
 
 この法律に書かれているのは、ひょっとして、『美しい理想』に過ぎないのではなかろうか?
 このような疑問を、この問題の現場で対応にあたっている人たちが考えたとしても不思議はないような気がする。
 
 仮にそうであるとすれば、あの『GKB47』というのは、むしろ『無関心な世間』に対する、一種の挑戦的なキャッチフレーズなのではなかろうか?
 
 つまり、あのようなキャッチフレーズを投げかけられると、条件反射的に、『何それ、AKB48のパロディじゃないの。そんなの、<不謹慎>よ』
 という言葉しか発することのできない世間(世論)に対する批判をこめたメッセージではなかったのかという気がしないでもない。
 
 このキャッチフレーズを決めたいきさつについては、以前、郵便料金の詐欺の疑い(冤罪)をかけられて、(その後、大変、珍しいことに)復活した村木さんという女性のかたが、答弁に立っていた。
 
 私は、前の記事で、このことを『官僚的な答弁』ということで批判してしまったのだが、あるいは彼女にも、本音では、もっと言いたいことがあったのかもしれない。
 
 たとえば(これは、全くの推測、想像であるが)、『この問題の、世の中全般の無関心を打破するためには、このくらい、インパクトのあるキャッチフレーズのほうが、好ましいと考えました』など…。
 
 もちろん、これらは、私の想像にすぎない。
 
 だが、立場が変わると見えてくるものもあるという気がする。
 今となっては、遅すぎるのだが…。

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【iPod touch】たしかに使い心地は悪くないが…

 一週間くらい前からだろうか、日本で購入(アマゾンで取り寄せた)したiPod touchというのを、ぼちぼち使い始めている。
 
 まず、iPod touchとは何かといえば…(私も、これを購入するまでは、さっぱり知らなかった)。
 まず、写真を二つばかり載せる。

 
イメージ 1

イメージ 2
 
 これは、デジカメを壊してしまったので、iPod touchの写真を撮るためには、それ自体のカメラ機能を使用しなければならない。
 ということで、鏡を使用しながら、妙な撮り方をしている。
 
 サイズは、iPod touchを通常の持ち方をすると、縦長の写真になってしまうが、私はいつもここに、横長の写真を載せているので、それに合わせて調整しようとしたら、妙なものになってしまった。
  あと、ついでに二枚。
 
イメージ 3

イメージ 4
 
 これらは、昨日、家の近所の運河(北京と杭州を結ぶ運河の一部)沿いを散歩した時に撮ったもの。
 ズーム機能など、あるはずだと思うが、使い方がよくわからないので、とりあえず撮ったもの。今回は、縦長の写真のままとした。
 
 このように、iPod touchを使えば、とりあえずデジカメの代わりにはなる(どちらにせよ、日本に一時帰国した時点で、また安いデジカメを購入するつもり)。
 
 そのほかに、何に使用しているかといえば…。
 
 もともとは、音楽プレイヤーらしいので、ネットで一曲だけ有料のをダウンロードした。

 
 バーバラ・ストライサンドの『The way we were』という曲で、映画『追憶』(彼女がロバート・レッドフォードと共演したもの)のテーマミュージックになっているもの。
 
 ネットでは、彼女が2006年のコンサートの際に歌っているのを、一曲200円で購入した。
 臨場感があるのはいいが、拍手とかいろいろ入っていて、あまり曲自体には集中できない。
 
 こういう調子で、購入しようと思えば、あと、例えば映画『ニューヨーク・ニューヨーク』のテーマ・ミュージックでライザ・ミネリが歌っているのも好き(この映画では、ロバート・デニーロとともに出演していた)だが、これは購入していない。
 
 どうせ、カミサンにこのiPod touchをあげることになっていて(デジカメを購入して以降)、その時点では、余分な曲等は全部、データを消去せよなどと言われている。
 もちろん、そうしたとしても、自分のパソコンで聞くことはできるが…。
 
 さらに、昨日、散歩しながら聞いていたのが、NHKラジオの月曜から金曜の、割合、早い時間帯に、放送されている『ビジネス展望』というもの。
 
 これは、主として経済問題について、いろんな評論家が、10分くらいコメントを話す(スタジオのアナウンサーと電話で話すというやりかたのようだ)。
 これは、(このブログに、いつもコメントを頂く)Hiroshiさんというか、big*u*525*さんのブログで知ったものだ。
 
 個人的な悩みにひたってばかりはおられないので、こういうのを聞くと、世界中で問題が起こっているのがわかって、面白いといえば、面白い。
 アメリカの景気の動向とか、ギリシアあるいはEUはどうなるのか、中国経済がどうなるか、電力問題はどうなるのか…、その手の話である。
 
 (だが、もちろん、本当に悩んでいる人は、世界の崩壊が確実に明日にせまっているのならともかく、こういう話はあまり救いにはならないだろうけど…)
 
 
 このように、このiPod touchは、それなりに使用している。

 ただし、ネットに無線でつないで使うというのはできていない。
 本来、日本で無線ルーターを購入していたので、簡単にできると思ったのだが…。
 
 この無線ルーターは日本の電圧の規格にしか、対応していなかった。
 だいたい、ノートパソコン等はすべて、日本の電圧でも中国の電圧でも(150Vくらいあるようだ)OKなので、過信というか安心をしてしまっていた。
 
 コンセントがこげつくようなにおい、音がしてきたので、あわてて電源から引き抜いた。
 この無線ルーターは、もう日本でも使用できないかもしれない。たしか、4000円くらいの値段だったような記憶だ。
 
 中国でも、もちろん、無線ルーターを販売していて、100元(1元13円とすると1300円)くらいで購入できるが、無線ルーターを購入しても、iPod touchはしばらくしたら、カミサンに取られる?し、ネットに無線でつないだところで、何ができるかはほぼ想像(推測)がつくので、あまり無線ルーターを購入する気にはなれない。
 
 ともかく、これでiPod touchの使い心地は、ある程度、わかった。
 
 たしかに、音楽が好きな人にとっては、なじみやすい機械かもしれない。
 また、どことなく生き物のような感覚を与えるデザインになっているので、これに夢中になる人が大勢いたというのも、理解はできる。
 
 でも、この機械、そんなに何年も使い続けることのできるデザインではない、というようなことは、ある本の中に書いてあった。
 電池の関係で、何年か使用すると、新しいものを買わないとならなくなるらしい。
 
 スティーブ・ジョブズの伝記(現在、まだ読んでいる。そのうち、感想でも書く)に書いてあるほど、理想的な機械かどうかは、やや疑問のような気もする。

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【フェイスブック】との不幸な遭遇? その2

 例によって、大ぶろしきを広げるような書き方をし始めてしまったような気がする。
 
 正直に言って、私は、フェイスブックについては、ほんとど知らない。
 先日、急死をした娘のフェイスブックの記事を読んだだけである。
 
 今書いている記事も、『その1』『その2』などというタイトルをつけてしまったが、そんなに長く、書くつもりはない。あるいは、これでおしまいになるかもしれない。
 (もっとも、人間のやっていることは、ほとんどすべて、その死によって完結してしまうはずなので、いつでもどこで、『これでおしまいになるかもしれない』という可能性をはらんでいるはずだ。)
 
 『フェイスブック』について、その株式公開を直前にひかえていたために、日本の新聞等は、それをはやし立てるような記事を書いていた。
 それは、新聞業界も『フェイスブック』に関心を寄せれば、得をするかもしれないと、思い込んでいるからだ。
 だから、『フェイスブック』に関する新聞記事(ネットのニュースも含め)は、決して客観的な記事などではない(もともと、客観的な記事などほとんどありえないが)。
 簡単にいえば、『フェイスブック』の利害関係者(あるいは、利益のおこぼれにあずかりたいと考える人々)の書いているものに過ぎない。
 
 『フェイスブック』には、いろいろ良いことがある(すばらしいことがある)ように書かれているが、はるか昔、立花隆がインターネットについて書いた『すばらしい』『すばらしい』という(礼賛の)文章が極めて、一面的なものにすぎなかったように、この話を、眉唾ものである。
 (私は、立花隆がインターネットについて、いい加減なことを自信をもって書いているのを読んだあと、この人の、『田中角栄』や『ロッキード問題』についての文章も、鵜呑みにはできない、と感じたものだ。
 だいたい、立花隆について、うさんくさいものを感じたのは、彼が『中核VS革マル』という表題で、過激派について書いたものを読んだ時もそうであった。やはり、自分がある程度、知っている事柄についてであれば、その人の知識・体験がどの程度のものかは、把握しやすい。)
 
 話が脱線してしまった。面倒なので、『フェイスブック』のうさんくさいことだけを列挙してみたい。
 
1.『フェイスブック』は実名登録をうたっているが、実名でなくても登録できる。
 (これは、私自身、娘のフェイスブックの内容を読むために、やってみたので確信をもっていえる。)
 実名でなく登録した(もちろん、性別など、最小限のデータしか入力していない。こういうデータでも、嘘でないという保証はないが)のに、『友達』になってくれとリクエストをしてくる者がいるのには驚いた。
 たまたま、私が使った名前に知り合いがいたのかもしれないが、あるいは、こういうリクエストをしてくる者自体も何か、おかしな動機(企業のマーケティング、その他の理由でやっている人。もちろん、マーケティング自体はおかしくも何ともないが)でフェイスブックを利用しているのかもしれない。
 
2.『フェイスブック』が、アメリカでそもそも流行ったのは、アメリカに有名な少数の大学を頂点とする、(日本以上にハードな)学歴社会が存在しているからではないかと思う。そういう有名大学の同窓生を結ぶものとして、開発されたツールが『フェイスブック』である。
 
 そうすれば、『フェイスブック』というのは、ある一定の社会のありようの影響を受けて存在しているツールであり、そのような社会を超えて、一般的に有用(よいもの)とは必ずしもいえないと思う。
 
 日本では、(今の所、低年齢のものには使用を認めていないようだが、それだって規制抜けはありそうなので)いつの間にか、小学生、中学生、高校生等々のいじめのための道具として使用されるおそれはある。
 
 日本の会社の中で、実名登録で使用するのもよいが、それが派閥争い、パワハラ、不倫、企業秘密の漏えい、異端分子の排除等、さまざまな問題に結びつく可能性があることは、容易に想像ができることである。
 
3.『フェイスブック』は、個人のデータ(それが嘘を含んだものであるかどうかを問わず)を絶えず、分析・収集して企業の広告・宣伝のために提供するという機能を伴ったシステムであるようだ。
 これは、『週刊東洋経済』(3月31日号)の記事などによると、EUではプライバシー侵害の疑いがかけられ(厳格にプライバシーを定義する裁判所では、友達検索機能すら法に抵触するという判決が出されているという)、またアメリカでは、利用者の個人情報の保護をなおざりにしているということで、昨年11月、今後20年間にわたりFTC(米国連邦取引委員会)の監視下に置かれるという和解の受け入れを余儀なくされている。
 
 つまり、見方によっては、『ブラック企業』(この言葉、定義がよくわからないが)と呼んでもさしつかえないかもしれない、と思えるような企業であり、サービスであるのだ。
 
 そのようなものに対して、(ついこの間まで)『原発万歳』を叫び続けてきたマスコミが、すぐ飛びつくのは、不思議なことではないのかもしれないが、ともかく、『気をつけたほうがよい』と思う。
 
 人間は、よくわからないものに対しては、『警戒心』を解除しないで接するようにしたほうがよい。
 所詮、人間というある意味で、『不完全な存在』(別に、神が完全な存在だといっているのではない)の作り上げたものだ。
 
(続くかどうか、不明)

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【フェイスブック】との不幸な遭遇? その1

 昨日、村上春樹と『1Q84』について、かなり乱暴なことを書いてしまった。

 そもそも、現在までに単行本の形で刊行されているもの(Book1〜Book3)のうち、その半分にあたる分量しか読んでいないのに、乱暴な話である。
 
 だが、これは娘の死(4月29日)以来、抱きつつある感情の延長戦上のものだから、ある意味ではしようがない。時間が、ある程度、解決してくれるだろう。
 
 その感情とは、『この世は、商業主義で毒されつつある』というものである。
 こういう考え方自体は、さほど珍しいものではないだろう。
 だが、私には、『村上春樹』自体が商業主義で毒されているようにも思えた。
 下手をすれば、『原発』だけでなく、『反原発』も、『反・小沢一郎』だけでなく、『小沢一郎』もすべて、商業主義に毒されているように感じてしまう。
 
 これには、本来、説明が必要であろうが、ただ感情を記しているだけなので、ここでは書かない。
 
 『商業主義』のもう一つの事例、を見てみよう。
 これは、4月29日以降、日本であるいは中国でもお目にかかった、現象である。
 
 『フェイスブック』について、私が娘の死をきっかけにして、詳しい内容を知るようになったことは、前にここに書いた(5月10日の記事だ)。
 
 その後、『フェイスブック』の株式の公開があって、その結果、(通常は)公開価格よりも大きく株価が上昇してぼろ儲けする人間が多数、出るはずなのが、そうならなかったのは、周知のとおりだ(もちろん、現状でもぼろ儲けしている人間は、いる。創業者はこれに合わせてタイミングよく、結婚式をあげたという)。
 
 はっきりいって、私は、『やっぱり』『案の定』と思った(もっと、ストレートな表現をしてもいいが、そういう表現をし始めると、このブログが劣化していくので、そういうことはしない)。
 
 なぜなら、先日、日本に帰って新聞記事などを見ると、『フェイスブック』のサービスの宣伝のような記事ばかりである。
 これは、新聞の傾向とほど関係がない。原発が好きな新聞も嫌いな新聞も、小沢一郎が好きな新聞も嫌いな新聞を、申し合わせたように、『フェイスブック』について、たたえている。
 
 まるで、『フェイスブックをほめないと、バスに乗り遅れてしまう』といわんばかりの論調である。これこそ、真の大政翼賛会的状況であろう。
 
 このような記事を新聞が書くのも、ある意味では無理がない。
 今の新聞は(そしてメディアは、といってもいい)、『フェイスブック』に象徴されるような時代の風潮に乗らないと、自分たちの企業は破滅してしまうと、思い込んでいる。
 
 それは、ある意味では正しいだろう。
 しかし、物事を考えるときは、多少、冷静になってほしい(いろんな見方があることを知ってほしい)という気がするのも事実だ。
 
 『フェイスブック』というのは、万能のものなのか?
 すべての社会に共通に有益なものなのか?
 『フェイスブック』に、マイナスな点、デメリットはないのか?
 また、企業の力として、はたして『フェイスブック』はどれほどの力があるのか?
 
 そういうことを、もう少しきちんと報道するのが、そもそもメディアの役割ではないかと思うのだが…。
 
(続く)

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【村上春樹・1Q84】この作家についての疑問も浮かんできた

 この記事、かなり長くなってしまったので、ご注意願いたい。
 
 昨日、日本のアマゾン・ドット・コムから、次の本が送られてきた(自分で注文した本だ)。
 
イメージ 1
 
 いかにも、中国らしいのは、梱包を開封した形跡があること。
 中国で『発行禁止』の本は、外国からも取り寄せることを認めないということだろうか?
 
 村上春樹の小説、『1Q84』を文庫本化したものである。
 この『1Q84』というのは、未完の小説(Book4まで書く予定のようだが、そのうちBook3まで刊行されている)である。
 
 先日、日本に帰ったときに、これまでに刊行された分が、文庫本化されて出版されていることを知った。
 Book1から3までをそれぞれ、前篇・後篇にわけて、3月末から毎月、2冊(前篇・後篇)ずつ出版されている。新潮文庫から出ている。
 
 先日、日本に帰ったときに、とりあえずBook1の前篇だけを買った。
 面白いと感じるかどうか、わからなかったからだ。
(村上春樹の小説は、過去に読んだことがあるが、面白いと思ったものと、そうでもなかったものと両方があった。)
 
 結局、中国に戻ってから、それを読んで、面白いと思った(ただし、他方、不快に感じる部分もたしかにある)。
 それで、来月になれば、確実に日本に(短期間)一時帰国することになるが、それが待てない気がしたので、アマゾンで本を取り寄せることにした。
 
 前にも何度か、やったことがあるが、運送費がひどくかかる。
 今回、本代自体は、2冊で1180円だったが、運送費が2500円かかった。合計で3680円である。
 その代わり、あっという間に届く。3日くらいで届いてしまった。
 
 それで、昨日届いたこれらの本を、当初の予定では、ゆっくり読むつもりだったが、結局、昨日一日で読んでしまった。
 
 この後は、来月に一時帰国したときに、文庫本で出版されているはずの、残り3冊を購入する。
 これでは、この本は完結しないが、このような出版の仕方を選択したからには、最後のBook4は、通常、半年か1年以内には刊行されると考えるのが、常識だろう。
 だから、それが出るのを待つ。
 
 このように、ある意味では、この『1Q84』にはまってしまっているようにも見える私だが、他方では、『1Q84』というか、『村上春樹』に対して疑問も感じている。
 
 
 以下、『村上春樹』のコアなファンが読んだら、おそらく怒るようなことを書くので、お許し願いたい。
 そういう文章を許せないと思う人は、読まないほうが、(精神衛生上)良いかもしれない。
 
1. この小説は、宗教団体と文学賞をテーマとしている小説である。
 気になるのは、セックスシーンが多いのはともかくとして、人の死がやたらに出てくることである。それも、他殺やら自殺やら、いろいろ出てくる。
 自身が、精神不安定な状況にあると思っている人は、この本はあまり読まないほうがよいかもしれない。
 おそらく、『小説』というものの、普通の構成の仕方からすれば、最後には何らかの救済と再生の物語が、待ち受けているのであろうが、それまでの『死の誘惑?』が中途半端なものではない。
 
2. この小説は、外国人(読者)の眼を強く意識している作品であると、あらためて思った。
 村上春樹の作品は、外国で多く訳されていて、たとえば中国でも書店などに多数並んでいる(もっとも、東野圭吾の作品も多く訳されているが)。
 韓国、台湾、中国等、アジア各地で読まれている作家だと知られている。
 
 それだけでなく、ノーベル文学賞候補というキャッチフレーズが、村上春樹にはつきまとう。
 (私は、これまで川端康成と大江健三郎とがノーベル文学賞を受賞していると聞くと、ノーベル文学賞はさほど、魅力的なものにも思えないのだが…。)
 
 この本を読むと、ノーベル文学賞受賞はともかくとして、村上春樹が国際的な作家であることはわかる。
 少し、いやらしい書き方をすると、非常に国際的なマーケットを意識した作家である。
 
3.いよいよ、村上春樹ファンが読んだら怒りそうなことを書く。
 村上春樹の小説は、日本語で読んでも、あるいは他の言語に翻訳されたものを読んでも、それほど読後感は、変わらないのではと思う。
 
 というのは、もともと本人の書いている日本語が翻訳調の文体である。
 日本語の響き、リズムなどをそれほど気にしないで(あるいは、意識的にそれを破壊しながら)文章を書いているような気がする。
 もともとが、日本語として違和感の残る文章である。
 
 だから、このような翻訳調の文体を外国語に翻訳したとしても、それほど違和感はないのではと思う。
 
4.もともと、村上春樹の小説の道具立ては、国際的なものである。
 本人が、若いころ、ジャズ喫茶を経営していたというだけあって、彼は音楽が好きである。
 この本でも、ヤナーチェッタの『シンフォニエッタ』という曲が小道具として出てくる(これは、ジャズではない)。
 私は、音楽について無知だから、思ったことをそのまま書くと、この曲ならびに作曲家は、村上春樹がでっちあげた作品ではなくて、真実、そういう曲があるらしい(おそらく、ネットで購入する人が多いのではなかろうか)。
 
 つまり、ここでは(ある種)国際的な存在である音楽に頼りながら、この小説は書かれている。
 音楽ということであれば、日本の歌謡曲とか、グループサウンズを小道具に使ってもよさそうなものだが、村上春樹はそのようなことをしない。
 
 それから、いうまでもなく、彼のジャズについての薀蓄もこの作品の中では披露される。
 
 つまり、この小説は、かなり国際的な小道具を使いながら展開されていく。
 主人公の一人は、スポーツ・インストラクターである。
 その関係で、村上春樹のもう一つの趣味であるらしい、スポーツとか健康にからんだ用語、言葉も多い。
 あるいは、ファッションに関する用語など…。
 
 これらは、韓国、台湾、中国その他、国際的にそのようなライフスタイルを共通にする人々がかなり存在するであろう、そういうジャンルである。
 村上春樹は、どのようなファンに自分が支えられているかを忘れずに、小説を書いているように思う。
 
5.他方、違和感を感じる部分もある。
 彼の小説の主人公は、30代くらいの人物が多いような気がする。
 しかし、村上春樹本人は、私とそれほど年齢が違わないはずだ。
 
 60歳になっているくらいの歳であろう。
 (ネットで調べれば、簡単にわかるが、今は確認をしないでおく。)
 
 若い人が主人公である小説を、(多分)若い人が多いであろう読者を想定しながら、書いていって、(年寄りである)ご本人はストレスを感じないものかどうか、少し疑問に思うが、これはおせっかいというべきことだろう。
 
6.もう一つ、感じたこと。
 小説というのは、作家が、一種の『神様』のような存在として書かれる。
 つまり、小説の書き手は何でも知っているというような、前提を置く。
 
 この小説でも、いろんな道具が(これまで述べた音楽、ファッション以外にも)でてくる。
 その中に、『過激派』というのが出てくる。
 『過激派』が転じて、その一部が宗教団体になったという話だからだ。
 
 しかし、その『過激派』に関する記述の部分を読むと、村上春樹という人がいわゆる『過激派』について、ほとんど何にも知らない人だということもわかる。
 あるいは、知識として知っていても、体験・経験に通じるようなことは何も知っていないと言ってもよい。
 まるで、『漫画以下』(このように書くと、漫画に対して申し訳ないが)のことが記述されている。
 つまり、村上春樹という人は、自分が知らないことについても、平然と書いてしまうことのできる人のようだ。
 
 さらには、この小説の中で『会社づくり』の部分が出てくる。
 これは文学賞を獲得する話とからんだ部分だ。
 
 ここに書かれていることは、日本の会社法(ここ何年かの間に法律が改正されてはいるが)についての、無知を暴露してしまっているような記述である。
 そもそも、何のために会社を作らなければならないのか全くわからないし、その会社づくりの要件もおかしい。
 (これは、この小説を担当した編集者も、こういうことをよく知らないので、チェックしきれなかったのだろう。あるいは、『ノーベル賞』級になると、作家も『神聖不可侵』の存在になってしまうのかもしれない。)
 
 これは、おそらく中途半端にしか知らない人から聞いたことをもとにした知識で書いたせいだろう。
 
 このように書いたからといって、この『1Q84』という小説の続きに、私が関心がないわけではない。また、『1Q84』という小説は、私にとっては、面白く読める部分のある小説である。
 
 しかし、『村上春樹』自体が、今や商業主義の中心にいる、一つのブランドと化している。
 
 そのことを忘れて、あまり過度に『村上春樹』に期待するとしたら、それは裏切られることになるだろう。
 
 そのような気がしてならない。

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