北京老学生・浙江省嘉興(ジャーシン)市の日々

地震・原発等あらゆることについて見直しをしつつ、真の復興を!

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2012年2月14日

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【一時帰国】山形からの新幹線は雪で一部、不通 

  これは、日曜日の山形最後の日の話の続き。

 12時半に山形駅の西口で待ち合わせをしていたが、そこで、娘夫婦、娘のだんなの両親、それにカミサンと合流してそば屋に向かった。
 
 娘のだんなの運転する、バンというのだろうか、大型の車に乗ってである。
 
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 山形はそばが有名だ。
 
 これは、二人前のもの(カミサンと二人で食べた)。

 二種類のそばにてんぷらがつく。
 
 そばは、おいしいことはおいしかったが、実は、今回日本に帰ってすぐ、友人につれられて神田のそば屋に行っているので、それほど久しぶりではない(もっとも、舌触りはこちらのほうが、ずっと素朴というか、ごつごつとした感じがした)。
 
 おまけに畳の座敷で食べたので、久しぶりに畳にすわって、足が少々、しびれてしまった(もともと、昔から股関節がおかしいのか、うまくあぐらがかけない)。
 
 そばを食べ終えてから、山形駅に再び、車で行く。
 考えてみると、だれも帰りの新幹線の切符を買っていなかった。
 
 あわてて、切符の状況を調べると、本日、これからの列車は軒並み、指定券が売り切れているようだ。
 結局、山形始発の列車の自由席をねらうことにする。
 山形新幹線の東京行きの列車は、この時間帯は1時間に1、2本しか出ていないらしい。
 そのうち、隣駅の新庄駅始発の列車と、ここ山形始発の列車が交互に出ている。
 どちらも自由席はある(ただし、2両くらいしかない)が、座れる確率の高い山形駅始発に並ぶのが、一番、座れる確度の高い方法のようであった。
 
 そこで、この時は、2時過ぎであったが3時6分の山形始発の自由席に並ぶことに決めた。
(飛行機で大阪に帰る予定の新郎のご両親等と別れて)新幹線のホームは吹きさらしで寒いかもしれないので、私が先に行列に並んで、順番をとることにする。
 
イメージ 2

 これが、自由席に並んでいる人々の様子。
 ホームで並ぶ場所は寒いが、ホームには、別に暖房のきいた待合室もある。
 
 行列に並ぶ人の数は次第に多くなる。

 私は、この列の数人目くらいに並んでいたので、絶対に座れることは間違いない。
 ただ、カミサンも早く来たほうがいいなと思っていたら、私が30分くらい並んだところで、やってきた。
 そして、構内放送は聞いたかという。
 (こちらでは、まだその放送はやっていなかった。)
 それによれば、新庄と山形の駅の間は雪のため不通になり、新庄発の列車は運休になったという。
 つまり、その分の指定席の券をもっていた乗客は、すべて山形駅発の列車の自由席にひりかえることにならざるを得ない。
 だから、すごく大勢の人が、列に並ぶことになるだろうということで、カミサンはあわててやってきたようである。
 
 この話を、彼女は比較的大きな声で私に話した。
 中国であれば、周りの人が直接、彼女に確認するくらいのところだろう。
 日本であるから、それはしないが、
 「今の話だと、……ということになりますね」
 などと交互に話しながら、ざわめき出した。
 
 その直後、このホームでも、同じ内容の話があった。
 
 その結果、3時6分発の列車は、予定を柔軟に変更したのか、予想よりも早い時間に車両がホームに滑り込んだ。
 だから、思っていたよりも早い時間に、あたたかい車内の席にすわることができた。
 ただし、自由席は当然、満員になり席がなくて通路に立っている人の数も半端ではなかった。
 これほど混んでいる、日本の列車に乗るのも久しぶりだった。
 
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 車内で、飲もうと酒類とつまみは買い込んであった。
 ただし、すぐ横に人がぎっしり立っているので、車内でパソコンで使用して(どっちにしても公衆無線サービスは、山形新幹線の車内では使用できないが)記事を書く気分にはあまりなれなかった。
 
イメージ 4
 これは、米沢駅で停車したときの様子。
 ともかく、この列車、ちゃんと東京まで行けるのか、少し不安であった。
 
 ところが、雪が深いのは、米沢と福島の間までで、福島駅の近くになると、うそみたいに雪が消えてしまう。
 そして、福島以降は東京まで、何事もなかったかのように順調に列車は走った。
 
 
  最後に、山形駅で買った河北新報の記事を紹介しておきたい。
 この日は、日曜日だったせいか、本紙に別刷りのものが付いていた。
 
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 宮城県石巻市の小学生が、震災の被災者で仮設住宅に住んでいる人たち向けに、昨年の12月に創刊した、手作りの新聞のことが報じられていた。
 
 
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 これは、「父の仕事に学ぶ」と題して、新聞の配達店を営んでいる父親の職業について、息子が書いた作文。
 どうせ、新聞社が新聞の意義について、子供を使って自画自賛しているのだろうとクールに見ることも可能だが、ここには、一定のリアリティが感じられる。
 
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 さらに、これは、仙台の英雄である伊達政宗の漫画。
 これも、郷土の歴史を学ぶ上で、必須の知識だという気がする。
 
 
 地方は、単なる中央のローカル版ではない。
 それぞれの地域の歴史、あるいは文化が存在している。
 それは一つの国家のなかの地方についても言えることだと感じた。
 
 東京などでは、3・11の震災、あるいは福島の事故について記憶がうすれつつあるような印象も受ける。
 例えば、ある雑誌(週刊誌)の今週号の、編集後記には、次のような文章が載っていた。
 
 <▲東京を歩いていると、あまりに早く「普通」の生活が戻ってきたことに驚くことがあります。…>
 これは、単にその文章の冒頭部分にすぎないが、少なくとも大きな傷を受けた現地の人々の感情とは、異なっているということなのだろうか。
 
 

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【一時帰国】山形散歩、霞城公園 下

 それでは、 山形県立博物館の展示内容を紹介したい。
 
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 これは、そこに置いてあったパンフ。博物館の正面の写真を撮りそこなったので、かわりに載せておく。
 県立博物館は、入場料が大人100円。
 
 ついでに県立博物館教育資料館のパンフも一緒に掲載した。
 こちらは、場所も別のところにあり、行きそこなったのだが、旧山形師範学校の建物を資料館にしたもので、江戸、明治、昭和、戦時下の寺子屋とか学校の様子を再現しているらしい。
 面白そうな場所のようだった。
 
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 これもパンフからだが、県立博物館のほうは、大きく3つの展示室に分けられ、山形の自然と歴史、生活について紹介している。
 
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 最初、いきなりびっくりしたのは、このような恐竜の姿があったこと。
 ヤマガタダイカイジュウというものらしい。山の中から、その化石が出てきたという。
 こういうびっくりさせるような展示の仕方は、子供などにとっては、もっと強く印象に残るだろうから、うまい展示の仕方だと感じた。
 
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 うれしかったのは、こういう表示が館内にあったこと。
 フラッシュをたいた撮影が禁止だということは、フラッシュを使用しなければ撮影をしてもよいということだった(ただし、企画展というのが、一部あって、それは普通の撮影も駄目だったらしい。何枚か撮ったあとに気がついた)。
 
 私は、(中国に来る前、つまり)日本にいた頃から、ブログを実験的に始めていたが、その頃は写真を載せていなかった。
 そのため、どこかに出かけても、積極的に写真を撮るようなことはあまりなかった。おそらく、そのせいであろうが、いろんな博物館、美術館で写真撮影が可能かどうかなど、あまり考えなかった。
 その後、中国に来て、中国では撮影が比較的自由にできる(歴史的な事柄で特に興味を持つ内容については、撮影禁止もあるが)のに対して、日本では美術館等、(著作権法等の理由で)撮影禁止ということを知っていた。
 それで、てっきりこの博物館も撮影禁止かと思っていたのだが、OKということであった。
 
 私自身は、こういった展示などはできるだけ撮影を認めたほうが、教育上いいと思う。
 著作権法によっては、著作物の撮影について禁止する余地があることを知っているが、日本は著作権法を厳密に運用しすぎだと思う(中国は、多少、ゆるすぎる部分もあるけど)。
 
 著作権法などというのは、アメリカ等に見られるように、それ自体、ビジネスの利益のために制定、運用されているものである。
 それをただ、むやみに狭く解釈することは、自分で自分の首を絞めているようなものである。
 
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 この説明によれば、現在のアジアのもとになった陸地は昔(古生代というらしい)、地球の南半球にあったものが、移動してきてできたと書かれている。
 こういう話は、3・11の地震以降、地震等に関して興味がわいてきているので、面白い。
 このほか、昔は、今の山形県にそうとうする場所の多くが海であったことなど、やがてそれらが隆起して現在の山形県の自然が形成されていることが別の展示で説明されていた。
 
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 これは、今の山形県の山とか谷などが、どのようになっているのか、立体的に表したもの。
 山形市内から周囲を見ても、四方に山があることがわかる。
 東京などでは、なかなか見られない光景(もちろん、場所によっては富士山などは遠くに見えることもあるが)で、人間が自然とともに生きていることを感じさせられる。
 
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 これは、山形では一種の英雄的存在である、最上義光(よしあき)の書いた文書。彼は1614(慶長19)年に69歳で亡くなっているらしいが、彼の時代に出羽の国(山形)は56万石と、全国で第5位の大名になった。
 ただし、娘の夫が、運転しながら話していたのによれば、晩年には血肉の争い(息子を殺した)となるお家騒動となり、「改易(かいえき)」(精確な意味はよくわからなかったが、あとで調べたことによれば、所領の没収等のことらしい)という処分にあったらしい。
 いかにも劇的な生涯だったようだ。
 山形市内には、最上義光歴史館というものもあるようだが、こちらにも行きそびれてしまった。
 
 こういう文書を見ると、内容が読めれば面白いだろうにと感じることもある。
 この博物館のパンフをよく見ていると、「古文書講座」というものをやっているらしい(入門編と中級編があり、それぞれ5回コースになっている)。
 
 日本は、国レベルではほとんどまともな、歴史教育がなされていないと感じることが多いが、少なくとも郷土史や地方史というものは(地域による温度差はあるだろうが)さまざまな取組が行われているようだ。
 
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 これは、時代が大きく経過して、明治のころの薬屋の看板。
 
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 泊まったホテルのそばに七日町という地名があったが、これはその七日町付近の明治頃の様子。
 
イメージ 3
 そして、こちらは昭和13年、酒田市内における、出兵兵士の見送りの様子とのこと。山形県から戦争に狩り出され、再び故郷を見ることのできなかった人々も多いのだろう。
 こういう、明治以降の歴史は、私にとって特に興味のある事柄だが、展示はそれほどされていなかった。
 
イメージ 4
 通常の展示以外に、特別の企画展ということで「あかり物語」というものをやっていた。これは、その中の展示物のひとつ。
 おそらく、江戸時代のものだったのではと思う。
 「長話無用」とあり、何となくユーモアを感じる。
 そのほか、有機ELの展示などもされていて、じっくり見たりすれば勉強になったかもしれないのだが、12時半に駅で待ち合わせているのに、すでに12時近くになっているのに、気がついてこの博物館をあとにした。
 
 この「あかり物語」はようするに「あかり」、「照明」についての話で、それを見ると電気であかりをとるようになったのは、人類史のほんの一時期にすぎないことがわかる。
 この企画は、原発事故の反省なども含めて、取り組まれたものなのかもしれないと思った。
 なお、有機ELというのも新たな技術のようだが、たしか山形大学などで以前から技術開発に取り組んできたという経過もあるもののようだ。
 しかし、最近のニュースなどによれば、日本ではなかなか実用化が進んでいないのに対して、例えば韓国などではサムスン(三星)がスピーディーな展開を行っているらしい。
 

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