茂木大輔:もぎ議録

クラシック音楽は理解して聴けば感動100倍!が活動のモットー。まずは自分が理解しよう・・・(笑)

もぎぎの日常雑感

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アメリカのドボルジャーク(りゅーとぴあ6月12日)パンフレット先読み!

プログラム ごあいさつ 昔は、「ドボルザーク」と呼び、交響曲第5番「新世界」といい、「家路」と言ったものでした。 高校の入学式で、この曲の第4楽章を吹奏楽部が演奏したことが、自分をブラス少年としての高校時代、ひいては音楽大学、プロの道へと導きました。最初に入団したオーケストラであった新星日響(現在東フィルと合併)では、中高の音楽教室でおびただしい回数、この「新世界」を演奏してきました。その不思議な和音やダイナミックな金管楽器が咆哮する響きのあちこちには、理屈抜きの音楽へのゾクゾクする感動の記憶が染み込んでおり、音大3年で徒弟のように入団したオーケストラの本番でやらかした数々の失敗、体育館でヒザを抱えて聞いている少年少女の光景や、亡くなってしまった佐藤功太郎先生(当時の常任指揮者)の思い出とともに、蘇ります。 そうした、どこか懐かしい、少し汗臭いような心の温かさを感じるのは、ドボルジャークという作曲家の個性であり、最大の魅力でもあるでしょう。 おそらく地球上で最も愛され、演奏回数が多い交響曲である「新世界から(新世界より)」(ドボルジャーク;交響曲第9番ホ短調作品95)、そして、チェロという魅力的な楽器のための最も有名な協奏曲=ドボルジャークの「第10交響曲」でもある「チェロ協奏曲ロ短調作品104」を中心に、今日は皆さんと一緒にじっくり楽しんで行こうと思います。 いつものように、演奏と解説演奏に協力してくれるのはコンサートマスター大宮臨太郎さん以下、N響の同僚を中心に実力派の若手奏者の集まった「もぎオケ交響団」、その精鋭によるカルテット(弦楽4重奏)、そして今回、チェロのソリストとしてスイス在住でトップレベルの活躍中である新倉瞳さんをお迎えしています。どうぞ、最後までごゆっくりお楽しみ下さい。 茂木大輔


演奏曲目ページ ドボルジャーク:交響曲第9番ホ短調「新世界から」
解説演奏
・「望郷」の響き ・黒人霊歌とそっくりな主題
・練習してから付け足した2小節(第1楽章)
・「家路」の名旋律は音が違っていた?
・5つしか音が無い音階は懐かしい。(「アメリカ」4重奏曲も)
・チューバ、トロンボーンは葬儀の象徴
・オペラになるはずだった「新世界」(第2楽章)
・結婚式に道化が踊り、鳩が啼く?(第3楽章)
・汽車が大好きドボルジャーク
・ワグナー大好きドボルジャーク(第4楽章) ほか


全曲演奏
演奏:もぎオケ交響団
イングリッシュホルン:和久井仁
指揮:茂木大輔

休憩

ドボルジャーク: 弦楽4重奏曲第12番へ長調「アメリカ」より 第1楽章

N響メンバーによる弦楽4重奏 宇根京子(第1ヴァイオリン) 大宮臨太郎(第2ヴァイオリン) 飛澤浩人(ヴィオラ) 藤村俊介(チェロ)


ドボルジャーク: チェロ協奏曲 ロ短調作品104
全曲演奏

チェロ:新倉瞳 管弦楽:
もぎオケ交響団

指揮:茂木大輔 *



*************************** 出演者写真、パンフレットページ 茂木大輔 ミュンヘン国立音楽大学大学院修了(オーボエ専攻)バンベルク交響楽団、バイエルン放送交響楽団などで首席オーボエ奏者に客演するほか、ヘルムート・リリンクのもとバッハ演奏を集中的に学び、録音、世界各地への演奏旅行などに参加。86年からシュトウットガルト・ フィルハーモニー管弦楽団の第1オーボエ奏者を経て、1990年からNHK交響楽団首席オーボエ奏者。ソロ、協奏曲、音楽祭への出演など多方面で活躍するほか、独自の企画による多数のCDをリリースして注目を集める。 96年から指揮活動に入り、オーケストラの楽器や、バッハの教会音楽、ベートーヴェンのシンフォニーなどの解説コンサートで全国的に活躍。現在までに仙台フィル、山形交響楽団、アンサンブル金沢、東京フィル、名古屋フィル、兵庫PAC、広島交響楽団、九州交響楽団など多数の団体を指揮している。 山下洋輔・筒井康隆をはじめジャズ、文学とのコラボレーション、作曲、即興、「N響アワー」「ららら・クラシック」「DJクラシック」「たけしの誰でもピカソ」「NMBとまなぶくん」などテレビ・ラジオへの出演、NHKカルチャーを始めとするレクチャー、音楽史研究、楽譜研究など活動は硬軟含めて極めて多岐に渡っている。 二ノ宮知子「のだめカンタービレ」原作に取材協力、ドラマ、アニメ、映画では「クラシック監修」と俳優の演奏演技指導などを担当した。自ら企画・指揮する「生で聴くのだめカンタービレの音楽会」を全国展開。一流オーケストラとソリストを起用して本格的演奏で高い評価を得ている。 2009年より、4年間にわたって東京音楽大学および大学院にて指揮実技、音楽理論、スコアリーデイングなどを学び、2013年優秀な成績をもって大学院を卒業。指揮を故:岩城宏之、および外山雄三、広上淳一、田代俊文、三河正典の各氏に師事。 執筆でも知られ、「オーケストラ楽器別人間学(新潮文庫)」など多数の著書がある。 **************************** 以下解説
・ドボルジャーク ドボルザーク?ドボルジャーク? この作曲家の名前は、チェコ語でDVORAK(複雑な記号がついてます。タイプできないので、印刷では再現して下さい。)です。 Rの上にVのような記号、Aの上にはアクソンのような斜線/記号が付いています。このR(記号付き)は、どうやら、Rzh、のように(一音として)発音されるべきもののようで、ムリに片仮名で書くと「ルズ」、母音aを伴うと「ルジャ」に近いもののようです。 「ようです」ばかりで要領を得ないのですが、実はシュトゥットガルト・フィルに在籍していたとき、第2ヴァイオリンの首席奏者がチェコ人(指揮者ラファエル・クーベリックの甥で、やはりラドファン・クーベリック氏)で、演奏旅行の途中、汽車のコンパートメントの中で向かい合って、この発音を教えてもらったことがあるのです。しかし、30分間もトライしても、(片仮名では「ルジャ」にしか聴こえないのに)どうしてもオッケーを貰えませんでした。おそらく世界中の人にとっても難しい発音なのではないかと思います。 スペルから見ても、せめて「ドボラーク」ならそれらしいが、「ドボルザーク」ではあまりにも間違い過ぎ、という事で、せめてもの処置として最近は「ドボルジャク」または「ドボルジャーク」と表記しているようです。 「新世界」?「新世界から」? ドボルジャーク自身のつけたチェコ語の標題(「Z NOVEHO SVETA」)(編集注!2つの「E」の上にアクソン記号アリ)があり、英語に訳すと、「フロム・ザ・ニュー・ワールド」となるもののようです。ようです、ばかりですみませんが、チェコ語が全く解らない物で・・・・。「新世界」とはアメリカ大陸のことを当時広くこう呼んだようで、それを指していますが、「新世界交響曲」だけでは、「アメリカを描写した交響曲」となってしまい、本来の、「アメリカからの(故郷チェコへの)便り(今アメリカにいて、故郷を思う、アメリカの印象を伝える)」というニュアンスが消えてしまいます。日本の場合、人(出身地)によっては「通天閣」などを連想してしまうかも・・・笑。 この交響曲は、ドボルジャークの故郷であるチェコではなく、アメリカで作曲されました。ドボルジャークは51歳であった1892年の10月から、途中一度の帰国をはさんで1895年の4月まで、約3年半のあいだ、ニューヨークに創立された「国民(National)音楽院」の院長(教授)としてアメリカに滞在していました。この期間のドボルジャークは非常に多忙であって、作品の数は決して多くなく、この交響曲第9番、弦楽4重奏曲第12番「アメリカ」、および、アメリカを引き揚げてくる直前に書かれた「チェロ協奏曲」以外には、ほとんど大きな作品は書いていません*。そして、不思議なことには、この3曲は、それだけでドボルジャークの名声、人気を数倍にも引き揚げたのではないかと思える魅力を放っており、もし、この3曲が無かったら、おそらくドボルジャークは現在よりもはるかに低い評価、演奏回数しか得られていなかったのではないかと思います。「新世界」での生活が、この大作曲家の創造力を、さらに高めて音楽史上最高の作品を生み出させる事になったと言ってもよいでしょう。 *ほかに、カンタータ「アメリカの旗」、弦楽5重奏曲、ヴァイオリンのためのソナティーナ、ピアノのための組曲、「聖書の歌」、「ユーモレスク」がある。 アメリカに到着したドボルジャークと家族 交響曲第5番?第9番? 最近、というよりぼくが子供の頃にはすでにこの曲は第9番でしたが、かつて第5番と呼ばれたことがある、という情報は知っていました。シューベルトの交響曲も番号が何回も変動しましたが、実は21世紀の今、このことを書くのは少し理由があります。 つまり、この曲が第5番であったのは、初期の4曲が黙殺されて出版されず、現在の第5、6、7、8、9番のみが出版されて、それぞれ3(5番の出版が遅れたため)、1、2、4、5番と呼ばれていた、という事情によるものです。(一番遅い「第2番」は1961年の出版。) このことは、死後発見された現在の第1番は別としても、ドボルジャークの初期作品が今から考えるよりは人気がなかったという事実と、さらに重要な問題として、チェコという当時文化的には後進国と考えられた国の作曲家であるドボルジャークが、自作の出版、ひいては全ヨーロッパからアメリカに至る名声を獲得する上で超えて行かなくてはならなかったハードルがあったことが解るのです。 ドボルジャークはチェコのプラハで国民劇場のヴィオラ奏者として生計を立てながら、先輩スメタナの(チェコ音楽史最初の大作曲家:「モルダウ」などで知られる。)協力で交響曲が初演されるなど才能を次第に認められて行きましたが、生活は苦しく、希望していたオペラの作曲のために時間を取る事が出来ずにいました。 こうした状況を打開したのは、オーストリア(歴史的にチェコの支配国家であった)の奨学金に応募してそれを獲得したことであり、その審査員であったブラームスに認められて、ドイツの出版社ジムロックを紹介された事でした。 つまり、チェコの国民楽派は、自国内の需要・評価だけではまだ自立してゆくことができず、ドイツ語圏、またのちにイギリス、やがてはアメリカといった外国で成功することが、新しい歴史のために必要なプロセスだったと言えるでしょう。 このジムロックとの出版をめぐるやり取りからは、ドイツの出版社ジムロックがチェコ人ドボルジャークに求めていた物が、出来る限り民族的な、しかもピアノ曲(「スラブ舞曲」など)や歌曲のような通俗的な小品であり、作曲家の名前さえチェコ語ではなく、ドイツ語で表記するという屈辱的な取り扱いを続けていたことが解ります。この状況を打開出来たのは、10年も経ってからのことでした。それでもなお、交響曲は売れ行きが悪い、と「第8番」を買い叩いたことで、ドボルジャークは出版社と決裂、この作品はイギリス(ノヴェロ社)から出版され、「イギリス交響曲」と呼ばれることになりました。 なお、「新世界より」の第9番は1893年12月のカーネギー・ホールにおける初演も空前の大成功を収めており、再びジムロックから、ブラームスの校訂によってドボルジャークのアメリカ滞在中である初演の翌年、1894年に素早く出版されました。 ドボルジャークと出版社を巡る関係の変化は、ドイツ、フランス、イタリアだけが独占してきた音楽文化の生産が、ロシア、チェコ、ポーランドなどの民族主義運動と連動して力強くなってゆく歴史そのものであったと言えると思います。
アメリカのドボルジャーク ドボルジャーク(1841−1904)が50歳となった1891年に、大富豪の夫人であったアメリカ人、ジャネット・サーバー女史から、新しく設立する「ニューヨーク国民音楽院」の院長としてニューヨークに来て欲しいという依頼を受けました。 この時期までにドボルジャークはチェコ国民楽派を確立した大作曲家としての国際的評価を得ており、たびたびイギリスを訪問して大成功するなど、充実した活動期にありました。 自然と故郷を愛するドボルジャークにとって「新世界」アメリカへの移住は気が重く、一度は断ったのですが、提示された報酬は非常に高い物で、子だくさんでもあったドボルジャークは就任したばかりのプラハ音楽院教授を休職して、夫人と二人の子供(6人の子供がいた)だけを伴ってアメリカに渡る決意をしました。 なぜ、アメリカに新しく専門の音楽学校を創立するという高い志をいだいたサーバー女史がドボルジャークを選んだのか、という点は興味のあるところです。 フランスはパリ音楽院(「コンセルヴァトワール」)を筆頭に、音楽理論、演奏実践の教育機関としては世界一の国で、多数の優れた教師を輩出していましたし、ドイツにもブラームスを始め多くの音楽史に名を残す作曲家や演奏家がおりました。 それにも関わらず、あえてチェコ人のドボルジャークに白羽の矢を立てた理由として考えられる事は、サーバー女史が目指していたのが、ドイツやフランスのコピーとしての音楽(と、その作り方、演奏法)を「輸入」することではなく、まさにチェコやロシアのように、国民の独自性に基づいた「アメリカ音楽」を創始することであったから、という事実があります。 その一つの素晴らしい現れは、サーバー女史の音楽院には、人種差別の厳しかった時代にも関わらず、黒人や先住民族の若者にも門戸を開いて学ばせる開放的な制度があったことでした。 この制度を通じて院長就任後のドボルジャークは、(実際には住居と学校、そして趣味の鉄道や船を見るための駅や港への往復しか行動範囲が無かったにもかかわらず)黒人や先住民族の歌や音楽を多数集める事ができ、それに基づいて論文も発表しているほどでした。この成果が、「新世界より」の交響曲には結実しているという見方もあり、多くの学者がそれを分析して来ましたが、確固たる結論には至りませんでした。 のちほど御説明する「ペンタトニック」(5音音階)など、民俗的なムードを持つ旋律は、黒人霊歌などに共通するものでもありますが、スラブ風の音楽にも感じられ、事実、ドボルジャークのヨーロッパ時代の創作にも、多く観察されるものだからです。 ドボルジャーク自身は書簡にこのように記しています。 “私がインディアンやアメリカの主題を使ったというのはナンセンスです。嘘です。私はただ、これらの国民的なアメリカの旋律の精神をもって書こうとしたのです”
1900年頃のニューヨーク ドボルジャークの作風 先ほども書いたように、ドボルジャークの作品は作品番号のつけられているものだけでも115曲もあり、それが11曲ものオペラ、3つの大きなオラトリオ、9曲の交響曲、複数の交響詩、14曲の弦楽4重奏を含んでいるなど、ほぼベートーヴェンの全創作と釣り合う分量があります。 しかし、初期の「スラブ舞曲」、「スターバト・マーテル」や「レクイエム」、交響曲では7、8、9番、チェロ協奏曲など、日常演奏される曲目は人気が集中する傾向にあります。逆に言えば、作品の大半は、これほどの人気作曲家の割には顧みられていないとも言えますね。 というわけで、ぼくも全作品を知っているわけではなく、(交響曲でさえ)こうした人気作品からの印象でしかないのですが、その作風はまずなによりも非常に豊かな旋律にあります。 ブラームスが「私は彼がくずかごに捨てたスケッチから交響曲を書けるだろう」と言ったという逸話は有名ですが、「アメリカ」4重奏曲の第1楽章を一晩で書き上げてしまうほどの早書きでもあったドボルジャークは、一つの楽想を丹念に練り上げて、緻密に構成してゆくというよりは、心に浮かび上がってくる旋律を次々に作品に盛り込んで行くだけで充分魅力的な作品になってしまうという作曲法を取っていたように感じられます。 スコアを調べても、伴奏形や旋律の発展(展開)には凝り過ぎたようなところはなく、むしろ単調な反復などが多く、それがポップスなどにもつながって行く、自然に聞いて楽しめる音楽としての側面につながっているのかもしれません。 皮肉な事に、「新世界から」と「アメリカ」は、こうした「単純だが旋律満載」の作風の究極とも言える物で、例えば交響曲6、7、8番などは、旋律にも魅力はありますが、全体の知的な構成や微細な変化の工夫等において、「新世界から」よりも精密、ことに7番のたたえている情感の深さや8番のかっちりした構成は本当の名曲であると感じられるのに、人気は9番が圧倒的。「旋律は曲の顔である」と良く言いますが、「顔のいい、気難しくない人(元気な人)はモテる!」なのかも知れないですね。笑。 その、旋律美と深みという一見矛盾するような2つの原理ですが、その双方を頂点において結実させたのではないかと感じられるのが「チェロ協奏曲」です。あまりにも豊かな、つぎつぎと湧き出る名旋律の泉と、丹念に筆の先を巡らせて塗られた水彩画のような緻密な音響の結合がこの作品にはあります。独奏チェロの活躍を伴った「交響曲第10番」、と呼びたくなるほどの管弦楽の活躍もまた、この曲の演奏の喜びを数倍にもしてくれています。今回、作曲順に従って「チェロ協奏曲」を演奏会の最後に持って来たのも、そうした理由からでもあるのです。 「ペンタトニック」と「シンコペーション」 ドボルジャークの、「国民楽派的」な、民族性を感じさせる音楽の要素として重要なのは、なんといっても民族舞踊のリズムを強力に取り入れた事と、民族衣装のように色彩的な音色(管楽器など)の用い方でしょう。2拍子と3拍子が衝突しながらダイナミックに開始される「スラブ舞曲集」(第1番)に、その精神は漲っています。 ロシアのチャイコフスキー、ボロジンなどが民謡風の、悲しくセンチメンタルな旋律を多用したのに対し、チェコのドボルジャークは、どちらかといえば明るい、明快な旋律を得意としています。(むろん、短調での情熱的な爆発もありますし、短調と長調が一瞬で交代するのも民族的に響きます。)この明快さの秘密は、「ペンタトニック」(5音音階)と呼ばれる、旋律の音の用い方にあります。 普通音階は、長調ならドレミファソラシド、と7つの音が一オクターブを構成していますね。ピアノの白鍵の音がそれに当たります。 これ以外にも黒鍵の音(合計12)があるのですから、7音だけでもシンプルなほうなのですが、ペンタトニックではさらに、「ファ・シ」(4、7番目の音)を抜いて ドレミソラ、と5つの音だけを用います。 (ノイズは消す事) 日本の演歌でも「ヨナ抜き」と言ったりして同じ音階を使いますし、そもそも民俗的な音階を調査するとその多くは(配列には相違があっても)オクターブに5個の音階であることが多いそうです。人間古来の本能なのかもしれません。 ちょっと専門的になりますが、4、7の音は、その組み合わせだけで「ドミナント」(属7;ハ長調ならG7)の和音を構成することができる「増4度」の音程を作ります。この音程は、その和音を強制的にトニカ(主和音)であるドミソの和音(C)に進行させる機能があり、それが西洋音楽の根本を作って来ました。 音階から、あえてこの4、7の音を抜いて旋律を作れば、それは非常に安定した、どこまでも歌い続けられるようなシンプルなものにすることができるのです。 しかし、それだけでは交響曲は作れませんでしたから、国民楽派の作曲家たちは、ペンタトニックと、普通の和声法に基づく音の配合(ドミナント進行)を共存させるように様々な工夫をしていました。新世界交響曲の第2楽章のテーマが初稿で持っていた音の動きは、まさにそうした折衷的な方法の名残であったと思われます。(作品が完成したのちに推敲してペンタトニックのみで主題を作った。) もう一つ、「シンコペーション」は、リズムの力点(アクセント)をあえてずらしていく方法で、新世界の第1主題が典型的にそれに当たります。これは旋律にがくがくとしたショッキングなエネルギーを与え、ちょっと「不良」のような、ワルなイメージにすることができます。 貴族、王侯(ひいてはキリスト教教会)の安全な生活や権威を、清潔、正確に規則正しく守られて行く(「メヌエット」など)小節冒頭のみの強拍・弱拍の交代とするならば、シンコペーションは、理屈抜きの民族のエネルギーを象徴するものと言えるでしょう。新世界の第1主題、第3主題との類似が指摘される黒人霊歌「揺れろ、幌馬車」(スイング・ロウ、スイート・チャリオット)には、典型的な逆付点シンコペーションがあり、非常にアメリカ的に響きます。 余談ですが、差別され続けた黒人の精神力の音楽であるモダン・ジャズが、そのシンコペーション力をすべての根源に発展してきたこと、そして、ジョン・コルトレーンやマッコイ・タイナー、チック・コリア等によって「モード・ジャズ(まさに旋法音階のジャズ)へと昇華して行った事は、国民楽派音楽史の再体験とも言える歴史的現象だったと思います。 それぞれの作品 交響曲第9番ホ短調作品95「新世界から」 ・「ハイアワサの歌」問題 この作品は、サーバー女史によって、「アメリカ最初の国民的交響曲」として激しく期待されていた事実があり、カーネギー・ホールでの初演に至るまで、相当の注文、催促があったと思われます。 そのことはニューヨーク滞在初期の、落ち着かない、忙しい生活のなかでドボルジャークが創作するには一定の制約をもたらしたのではないでしょうか。 ドボルジャークは、チェコ時代から、アメリカ先住民の生活・習慣・情緒を描いたロングフェロー(H.W.Longfellow)の長編叙事詩「ハイアワサの歌(The Song of Hiawatha:実質上の小説)」を愛読していましたが、この叙事詩は当時ヨーロッパで非常に幅広く読まれていた物でした。ドボルジャーク自身も、アメリカ滞在以前にもこの叙事詩を交響詩などの形で作曲を試みていましたし、サーバー女史はこのオペラ化を強く推薦していたようです。 結果としてこれらの試みの素材は、主人公ハイアワサの結婚の宴(「インディアンの踊り」;第3楽章)飢饉で死ぬハイアワサの妻ミネハハの音楽(葬儀の音楽、飢饉の音楽:第2楽章)として、「新世界から」の交響曲に用いられることになりました。「新大陸=新世界」アメリカに対してドボルジャークが抱いていたイメージと、実際にその目で見た新しいエネルギッシュな近代国家アメリカとの印象が、「ハイアワサの歌」の素材によって音楽化されたということでしょうね。 具体的には、第2楽章の「家路」として知られる名旋律は、ミネハハの葬儀の音楽が元になっていると思われます。 「ギッチェ・マトニー、全能の神! 父よ、子供らに食べ物を! どうか食べ物を、でないと死にます! ミネハハに食べるものを 危篤のミネハハに食べ物を!」 「いとしいミネハハが目の前に 死んで冷たく寝ているのが見え 心の臓が張り裂けて 苦悶の叫びを上げたので 森も嘆いて打ち震え 点にある星までが 苦しみに揺れてまたたき震えた」 (中略) やがて一同はミネハハを葬った 雪の中に墓を作った 奥深い暗い森のなか なげきそよぐ栂(つが)の木の下に。 一番立派な晴れ着を着せ 白貂の毛皮でつつみ 白貂のように雪をかぶせて 一同はミネハハを埋葬した。」 「夜になると火を焚いた 墓の上で四度も燃やした 死出の旅路の魂が 極楽の島へ行けるように。」 (「ハイアワサの歌」ロングフェロー、三宅一郎訳:作品社刊より) トロンボーン、のちに付加されたチューバ(葬儀の象徴)による荘厳なコラール、イングリッシュホルン(バッハ時代から狩りのオーボエと言われ、狩りが動物を殺すことから死の象徴とされてきた楽器)が主旋律を担当するなど、濃厚に死を扱った音楽と理解することができます。もっとも、この音楽は「望郷」や「家庭」を強く連想させる温かみにも満ちており、そうした理解で受容されてきた度合いのほうが強いというのは、皆様の実感でもあろうと思います。 注:むろん、これは「素材」を過去のスケッチを転用したということであって、交響曲「新世界から」が、この物語を表現した音楽でないことは、後に述べる第3楽章(結婚の宴)が、第2楽章の葬儀のあとに来ているということからも明白です。 「お聞きなされよ、どのように やくざなポプクキーイスが エナジッジ、伊達男が ハイアワサの婚礼で踊ったか 楽師の中で名人チビアボスが あこがれと恋の歌を歌ったか 大ボラ吹きのイアグーが 世にも珍しい語り部が ふしぎな話を語ったか 祝いの席をにぎやかにし たのしく時がすぎるように お客が満足するように。」 (「ハイアワサの歌」〜「第11の歌:ハイアワサの婚礼宴」より) このように、様々な別目的で発想した主題、旋律から交響曲を作ってしまうようなやり方を「捏ね合わせ(パスティッチョ)」と呼びますが、パスティッチョ交響曲の特徴は、旋律と雰囲気に富み、しかし統一感や緊張感が少ない、ということです。「新世界から」には、まさにこの特徴が宿っていると思われます。 ・楽器法の贅沢 「新世界から」第2楽章冒頭の自筆楽譜。 この葬儀の音楽(第2楽章冒頭のみ。第2楽章最終場面にも追加するのは類推。)にのみ登場するチューバ、全曲で一発しか打たれないシンバル、第3楽章のみに登場するトライアングル、わずか4小節のみのピッコロ、家路主題のみのイングリッシュホルンなど、従来の交響曲に比べて楽器法の贅沢が目立っています。この交響曲がカーネギー・ホールで初演された段階(初演指揮者はワグナーの盟友ザイドル)までに、アメリカの管弦楽が充分に成熟して、楽器や奏者にも余裕があったこと、こうした追加の楽器を加える事で、第8番までの自らの交響曲とは異なる音響に進出して行こうとするドボルジャークの好奇心、意欲が感じられます。 ちなみに、この交響曲の全ての主題は管楽器の、多くは独奏(ソロ、またはソリ:一種類の楽器複数)によって提示されています。第1楽章 1;ホルン(2人) 2:フルート+オーボエ 3:フルート 第2楽章 1:イングリッシュホルン 2:フルート+オーボエ 第3楽章 1;オーボエ+フルート(2番) 2:フルート+オーボエ 3(中間部)木管合奏 第4楽章 1:トランペット(2人)+ホルン(2人) 2;クラリネット このことは音色の強い表出、変化を意味していて、また演奏もtuttiよりも鮮やかで印象深い、独立感の強いものになります。 ことに印象深いのが第2楽章のイングリッシュホルン(大型のオーボエ)独奏ですが、それについては次項でも触れます。 ・いくつかのオマージュ(敬意をこめて模倣すること) ベートーヴェン「田園」 第1楽章の第1主題、第3主題が黒人霊歌と類似していることはすでに述べましたが、第3楽章の第2部分(「ハイアワサの歌」の結婚式の踊り)における、リズム感の狂った管楽器(バグパイプ等?)の描写は、直接的にベートーヴェンの交響曲「田園」を想像させます。ドボルジャークは、交響曲第8番を様々な意味でベートーヴェンの「エロイカ」(英雄;交響曲第3番)に似せて作りましたが、「民俗的」な素材を扱う上で、ベートーヴェンが「田舎の人々の愉快な集い」と書き加えた「田園」第3楽章が、ひとつのモデルとなっていたことは間違いないでしょう。 チャイコフスキーの作品 第2楽章の主題がイングリッシュホルンによる長いソロで提示されることは、この交響曲作曲より少し前の時点で交流が始まったチャイコフスキーの交響曲第5番(第2楽章が長いホルン・ソロで開始)からの影響が考えられます。 二人はお互いに自作交響曲のスコアを交換したことがあり、それはドボルジャークが「第7番」(1888年のプラハ)を贈り、その返礼としてチャイコフスキーが「第5番」、であったそうです。話は飛びますが、ドボルジャークの「チェロ協奏曲」の冒頭はこの「第5番」の冒頭にそっくりですし、チャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲」第2楽章の冒頭は木管楽器の静かなアンサンブルで開始されますが、このやり方を、ドボルジャークは「チェロ協奏曲」で真似ています。 ワグナー 重要なオマージュのひとつは、ドボルジャークが作曲家として出発する時点であまりにも強大な影響力を持っていたワグナーとの関係を示しています。「新世界から」の第2楽章、第2主題(クラリネット・ソロとチェロによる応答)は、ワグナーの楽劇「タンホイザー」とあまりにも良く似ており、まごうことなきオマージュ(尊敬して、自作に取り入れる事)を形成しています。 ドボルジャークは初期の交響曲などではワグナーそっくりの音楽をいくつも書いているという事ですし、「パクり」というよりは尊敬のあまり似ている音楽をあえて書く、「オマージュ」という分類が正しいと思われます。 ほかにも、ペンタトニックを離れた部分での半音階的な旋律形成や、各楽章の旋律があちこちに顔を出す「循環形式」も、ワグナーの、それぞれの人物や対象を現す旋律が度々回帰する「指導動機(ライトモティーフ)」の効果と類似していると考えられ、これもワグナーへのオマージュかもしれません。 ・鉄道、鳩 ドボルジャークは家庭人であると同時に趣味人であり、その究極は鉄道マニアと伝書鳩の飼育でした。 この交響曲に限らず、ドボルジャークの作品には鉄道を思わせる、規則正しい無骨なリズムや、連結器のぶつかるような音、汽笛、ブレーキなどを連想させる一種のノイズが聞かれます。ただ、これらがどの程度具体的に鉄道と関連しているのかは不明で、もともとの作風にそうした雰囲気があって、後世の人々がそれを個人的趣味と結びつけて語るようになったという部分も否定できないと考えています。鳩の声は、第3楽章の結婚式の場面で啼く声としてクラリネットなどのトリルで表現されており、これはかなり似ています。ドボルジャークがお金欲しさに(?)アメリカでの仕事を引き受けた理由の一つが、「伝書鳩の小屋を建てたかったから」という逸話がありますが、この真偽も自分には不明です。なお、今日、ウィーンとプラハを結ぶ特急列車には「アントニン・ドボルジャーク号」と命名されたものがあるそうです。 鳩に餌を上げるドボルジャーク ・弦楽4重奏曲第12番ヘ長調「アメリカ」作品96より第1楽章 ドボルジャークは、「新世界から」交響曲を完成したあと、ニューヨークでの多忙な生活を離れて、チェコ人のアメリカ入植地であった「スピルヴィル」という田舎で最初の休暇を過ごすことにし、チェコに残っていた子供たちも呼び寄せて、久しぶりにチェコ語で会話出来る喜びに安心しながら過ごしました。このスピルヴィルで、ドボルジャークは強い作曲上の霊感に捕われ、驚異的な短時間のうちに弦楽4重奏曲「アメリカ」を完成しました。この曲はパスティッチョでもなく、何か強い外的な要請や責任から離れたところで作曲されており、「新世界から」に比べても、自由でのびのびとした創作であると感じられます。 弦楽4重奏曲というジャンルの特徴である複雑な緊張感のある曲ではないのですが、すべての主題がペンタトニック的素朴な民族性を持っており、遠い距離感から強い望郷の念を感じさせます。ヴィオラ奏者であったドボルジャークの名人芸的な弦楽器の扱いも、この作品を弦楽4重奏曲というジャンルでもっともポピュラーなものにしています。今日は、N響メンバー4人で、それぞれに室内楽、ことに弦楽4重奏の分野で素晴らしい業績を重ねている宇根京子さん(第1ヴァイオリン)今回のコンサートマスターでもある大宮臨太郎さん(第2ヴァイオリン)飛澤浩人さん(ヴィオラ)藤村俊介さん(チェロ)によって、この第1楽章を聴いて頂きます。お楽しみに! 当時のスピルヴィル ・チェロ協奏曲ロ短調作品104 チェロが協奏曲を演奏できる楽器である、ということを多くの作曲家が意識していたことは間違いないでしょう。モーツアルトには未完の「協奏交響曲(ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロのための)」がありますし、ハイドンの名作「チェロ協奏曲(第2番:1760頃?)」を書かせたアントン・クラフトはベートーヴェンと親密な関係にあったシュパンツィヒ弦楽四重奏団の初期メンでもありました。しかし、ベートーヴェンからは「3重協奏曲(ピアノ、ヴァイオリン、チェオのための):チェロの比重が極端に大きい」以外にはチェロ協奏曲は書かれませんでした。 ハイドン以降、音楽史に意味深いチェロ単独のための協奏曲が現れたのはシューマンの傑作(1850)が久しぶりのもので、サン・サーンスにも佳曲(1872,1902)があります。そのあと、本日演奏するドボルジャークの大傑作(1895)まで、ほとんど名作は生まれませんでした。 チャイコフスキーの「ロココの主題による変奏曲(1877)」は実質的なチェロ協奏曲ですが、規模は小さく、また、初演者による大胆なカットと改定が問題を残しています。独奏とは違いますが、チェロが重要な協奏曲としてはブラームスの「ヴァイオリンとチェロのための2重協奏曲(1887)」があります。 このように、チェロを管弦楽と共演させるという素晴しいアイデアは、なにかの事情によって、大きく流行することなく19世紀は終わろうとしていたことになります。 ドボルジャークのアメリカ滞在の終わり頃、むしろ帰国直前になって、突如としてこのチェロ協奏曲の創作が開始されました。それは「チェロ協奏曲」というジャンルの不動の最高傑作となったのでした。 この曲の中で、チェロの持たされている役割が、必ずしも重要旋律を常に歌い続けている、前面にいて活躍する、といった協奏曲ソリストの普通の立場ではなく、管楽器の長いソロや重奏を繊細に伴奏し、あるいはその一パートとなって一緒にアンサンブルし、また弦楽器への対旋律を作り、といった、多様なものに設定されていることは決定的に新しく、興味を惹きます。 それまでの時代に、ヴァイオリン協奏曲やピアノ協奏曲と同じ発想でチェロ協奏曲を作ろうとして成功しなかった理由の一つに、音域が存分に広いが、高音域の音量や透徹力が弱いという問題があり、ドボルジャークはそのやや鼻にかかったか細い声を、逆に存分に利用して、変化に富んだこの傑作を編み上げたのでした。前述のように管弦楽(ことに管楽器)にも単なる伴奏に留まらない極めて重要な役割が与えられていて、第1楽章の冒頭やホルンの美し過ぎる旋律など、オーケストラの演奏には大きな喜びとやりがい、緊張感が伴います。 ・なお、20世紀に入って、名手の活躍が増えて来たこともあるのか、「チェロ協奏曲」には立て続けに素晴らしい作品が生まれています。本日の独奏者、新倉瞳さんの新しいCDにも収録されたエルガー(1919)、ショスターコービチ(1959、1966)現代音楽にもかかわらず人気曲となったデュティユー(1970)等多数があります。 チェルマーコヴァ問題 ドボルジャークは、まだ24歳の若き頃、生活のためにチェルマークという家の姉妹の音楽の家庭教師となりました。姉のヨゼフィーナ・チェルマーコヴァにドボルジャークは熱烈な恋心を抱いて、たくさんの歌曲を捧げましたが、この恋は実りませんでした。のちにドボルジャークが結婚したのは、妹のアンナのほうでした。 「チェロ協奏曲」の作曲中、ドボルジャークはその初恋の人(いまは義理の姉にあたる)ヨゼフィーナが重病であるという知らせを受け、かつて作曲し、彼女に捧げた歌曲「1人にして(Lass mich allein)」を第2楽章の中に引用しています。 姉:ヨゼフィーナ・チェルマーコヴァ 作品の完成後、ヨゼフィーナの死を知らされたドボルジャークは、第3楽章の最終場面をさらに描き直しました。この旋律を改めて静かに引用してそれが祈りの音楽(教会の鐘やコラール)とともに清らかに昇天してゆく部分を作ったのです。 この部分を非常に重要と考えていたドボルジャークは、「カデンツアを入れて欲しい」という、予定されていた独奏者ハンス・ヴィハン(本作品の成立にも助言し、かなり親しい信頼していた演奏者でした。)からの希望に激怒して、初演者をレオ・スターンに変更してしまったほどでした。 情熱的なチェロ協奏曲の最後、故郷と青春を回想して高音域で静かに歌うチェロは、それを知って聞くものに必ず涙を誘うでしょう。 ・ドヴォルジャーク:かつての恋人(姉)のための歌曲「1人にして」冒頭 ・「チェロ協奏曲」最終場面での引用(ヴァイオリン独奏:前後に死の暗示と昇天の暗示) 茂木大輔(2016) http://www.ryutopia.or.jp/schedule/16/0612c.html

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