江戸時代の東海大地震では何が起こったのか
|
江戸時代に起きた安政東海地震で何が起こったのか考察したい。 この安政東海地震は、1854年12月23日、日本時間8 - 9時ごろ) 江戸時代後期に起きた地震だ。 震央は、北緯34度00分0秒、東経137度48分0秒で現在の静岡県の 下にあたる。 M8.4この大地震は、海溝型地震で地震直後に突き上げるような衝撃が あったとされる。約2分間大きな揺れが続いた。 揺れは、北は福島県あたり南は博多あたりまで伝わった。 甲斐甲西、駿河相良、遠江袋井(静岡県の海岸線と伊豆半島の西側) で最大震度7を記録した。また名古屋、三重県、和歌山県の海岸線 で震度6を記録している。 前震 余震(wikipedia参照) 前震とされる地震は、5ヶ月前の1854年7月9日に伊賀上野地震(伊賀・伊勢・大和地震、M 7.6)が発生。
安政2年9月28日(1855年11月7日)には遠州灘沖を震源とする最大の余震(M7 - 7.5)が起き、駿河湾沿いで潰家、地割れ、泥水の噴出および津波もあった[8]。安政江戸地震の4日前のことである。
また、本震に影響を受け、震源域及び余震域から離れた地域でも規模の大きな誘発地震が発生している。
本震の約75日後の安政2年2月1日(1855年3月18日)富山県城端・保木脇で推定M6後半の地震(飛騨地震)。
津波約11ヶ月後の安政江戸地震(M7.0〜7.1)。 4年半後の安政5年2月26日(1858年4月9日)に飛越地震(M7.0〜7.1)。その14日後の旧暦3月10日(4月23日)にはM5.7の信濃大町地震(信濃北西部)。 房総半島から四国沿岸の広い範囲で津波が襲った。 津波の記録、波高は甲賀で 10 m 、鳥羽で 5 - 6 m 、錦浦で 6 m 余、二木島で 9 m 、尾鷲で 6 m に達したとされている。伊豆半島には、昼過ぎまで何十回となく津波が押し寄せた。 志摩半島の国崎では、津波が最大22.7mに達したとされる。 過去の東海地震による集落の高所移転 前の文章でも書いているが最大の津波が襲った国崎では、中世に一度集落ごと高所に移転している。 さらに時代をさかのぼると平安時代末期に国崎集落は平野部の集落と丘の上の集落にわかれている。 しかしこの平野部の集落(伊勢神宮の直轄領)は明応東海地震(1498)の地震により壊滅している。 残った平野部の人間は寺ごと丘の上の集落と合併した。 この時代、平野部の集落は伊勢神宮の直轄領だった。 海も近く海の祥が豊富で、これらを伊勢神宮の貢献物としていたが津波により集落が流されたため 海から離れた場所(丘)から日々を過ごすことになり不便となった。 明応東海地震から209年後に宝永地震が起きて再び国崎は津波に襲われた。 しかし被害は船や田畑で留まり、人的被害はなかった。 江戸時代に起きた東海地震では非常に大きな津波となりその高さは22,7mに達した。 常福寺の碑文にその時の被害が記されている「家4軒、宮2軒、溺死者6名」 20mを超す津波が襲ったが高所に集落があったこともあり被害は最小限になっている。 明応地震から500年間国崎集落では海に近い平野部には家を作っていない。 東日本大震災と明治三陸津波 昨年、3月11日に起きた未曾有の大地震によりおこった大津波はまだ記憶に新しい。 この大津波で壊滅した地域は、過去にも大津波に何度も襲われている。 80年前の昭和三陸地震での津波や110年前の明治三陸津波がそうだ。 この時も上の国崎地区と同様に集落は高台に移転している。しかし漁業を生業とする ため不便さからもとの海に近い場所に再移転した例が多いという。 今回も集落を高台に移転するという話が出ているが難しい問題だ。 江戸時代の東海大地震 大阪での被害 あまり知られていないが安政東海大地震では地震発生から2時間後に大阪でも津波による 被害が出ている。 記録では、安治川 木津川 道頓堀川 長堀川の河口から堀川に沿って逆上してきた津波により大阪の市街地でも大きな被害が出たとされている。 江戸末期当時、川には千石船など大型の船が数百浮かんでいたが全て流され橋や川沿いの家屋や土蔵にも被害を及ぼした。 運悪く船を使って海にでようと多くの人たちが避難していたがこの津波により多くの人が溺死した。 地震後の大阪町奉行の対応 大阪町奉行は、地震直後に町町に火の元の注意を命じた。単に防火目的ではなく防犯目的が主だったとしている。 津波の逆上により大きな被害を受けた船や橋などは地震発生から約半月後には撤去され運搬は行えるようにまで回復している。 避難する際に高台に逃げる人と船にのり避難しようとする二手に別れた。これが命運を分けた。 大阪市の津波の石碑 大阪市大正区のJR大正駅近くに津波により被害がここまであったことを記す石碑があります。
|
