全体表示

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全19ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]

◆有馬晴信公没後400年記念祭◆が行われました.。o○。

「有馬晴信公没後400年記念祭」 が行われました。

日 時:平成24年5月6日(日)
場 所:「有馬晴信謫居の跡」記念碑前(山梨県甲州市大和町初鹿野1924)

● 式 典 (有馬晴信謫居跡にて)

交流会出席者80名余のほか、地域内外より30名余が集まりました。

イメージ 1

11:00 開会
 聖歌「今日こそ神が造られた日」

イメージ 2

イメージ 3

 司会が開会を告げて、これから記念祭が始まろうというとき、とつぜん空から大粒の雨が降ってきました。

イメージ 4

イメージ 5

 南の山の空に黒雲がわき起こり、雷鳴がとどろき、雨は霰と変わって地面に叩きつけます。参列者は傘をさし、テントの中に身を寄せ合い、あるいは濡れながら、記念祭は始められました。

イメージ 6

 どしゃ降りの中、電子オルガンの演奏が流れます。人々が開会の歌「今日こそ神が造られた日」を歌います。そして神父が記念碑前で祈りをささげると、…

イメージ 7

 すると不思議なことに、雨は急にやんで、あたりには陽の光さえ差してきました。
 この激しい雨と急激な空の変化…参列者たちは口々に、有馬晴信公が記念祭を喜んで流した涙なのではないか、と言います。晴信公がこの地で斬首されたときも、激しい雨が降ったと言われています。
(さながら400年前、そのときの天候を再現しているようです。驚きました!)

イメージ 8

11:10 祈り 聖パウロ修道会・山内神父
 献香、潅水

イメージ 9

 焼香 有馬家27代当主・有馬匡澄さんとお姉様ご夫妻 ジュスタ夫人菊亭家ご子孫・志賀賢子さんとお二人のお嬢様 有馬家の位牌を守ってきた有賀家ご夫妻 研究者・清水紘一先生 甲州市教育長 丸林区区長 千々石ミゲルご子孫・宮崎栄一さん 中浦ジュリアンご子孫・小佐々学さん

イメージ 10

イメージ 11

11:20 晴信公事績紹介 司会
 晴信公は永禄年間・1560年代に生まれました。九州肥前国(現在の長崎県)有馬の日野江城主であった天正8年(1580年)、キリシタンの洗礼を受けました。キリシタン宗門を保護し、領内にはセミナリオを設立するなど西洋文化、学問が花開きました。また、南蛮貿易にも力を注ぎ、領内の繁栄をもたらしました。天正10年には大村純忠、大友宗麟と共に「天正少年使節団」をローマに派遣。武将としては、文禄・慶長の役での活躍、関が原での活躍など大きな足跡を残しましたが、慶長17年(1612年)、謎の多い岡本大八事件によって甲斐の国に流罪となり、この地で処刑されました。
 晴信公は歴史上の人物として特にキリシタン史の中では欠かせない人物です。そして幕府の宗教弾圧の激化と軌を一にして歴史の表舞台から去ることになった、まさに栄光と悲劇の大名であったと思います。

イメージ 12

 四百年前の今日、晴信公がこの初鹿野でどのような最期を迎えられたのか。海外に送られたイエズス会の日本報告の中に詳しい記載がございます。その部分を朗読して頂きたいと思います。

晴信公最期の場面朗読

イメージ 13

(有馬晴信の最後の様子については、
 マテウス・デ・コウロスの『1612年の年報書簡』に詳細に描写されている。)

 供花と供物
 供花、丸林区長。供物、有賀家お孫さん

イメージ 14

11:35 贈答式
 終焉の地を四百年守られた有賀家には、1800年頃から、丸岡藩の使者がご命日の頃に裃に袴の正装で献上品を携え、毎年有賀家に参上していたという事でございます。まだキリシタン禁教の時代でした。このならわしは、明治時代にこの地域に大洪水がおき、被災した有賀家にご遠慮され、それ以来途絶えたそうです。本日は四百年目のご命日ということで、そのならわしを再現していただきたいと思います。
 (贈呈)有馬家 から 有賀家 へ  菊亭家 から 有賀家 へ
 (返礼)有賀家 から 有馬家 へ  有賀家 から 菊亭家 へ

イメージ 15

11:40 植樹
 福井県坂井市(旧丸岡藩)の有馬家の菩提寺・高岳寺さまからご寄付がありました。
 有馬様にはカイドウを植樹していただきます。
 その後京都で亡くなられた菊亭ジュスタ夫人は京都の廬山寺に埋葬されております。廬山寺はキキョウで有名なことから、菊亭家様にはキキョウの苗を植えていただきます。

イメージ 16

イメージ 17

参加者の紹介 …

イメージ 18

11:50 閉会の歌
 聖歌「ガリラヤの風かおる丘で」

12:00 記念祭終了


記念撮影 (記念碑前で)

とてもなごやかです♪

イメージ 19

シスターたちも(^^)v

イメージ 20


展示品コーナーと謫居跡周辺の見学

(展示コーナー)

南島原市位置図
口之津港、原城、セミナリオ趾、日野江城 の写真
廬山寺参拝のときの写真

イメージ 21

虚空蔵菩薩(栖雲寺・蔵)、晴信木像(台雲寺・蔵)、中浦ジュリアン、紙位牌 の写真
紙位牌(実物)

イメージ 22

(謫居跡周辺の見学)

道祖神場の白供養塔と六地蔵(六十六部が晴信供養のため建てたと言う謂れがある。)

イメージ 23

謫居屋敷跡といわれる今宮大明神は、国道の地下深くに埋没している。

イメージ 24

12:50〜13:00 交流会参加者は自然学校へ移動



● 交流会 (甲州市大和自然学校にて)

イメージ 25

イメージ 26

(参加者80名余)

午後1:30 開会のことば 甲州市教育長・保坂氏
      乾杯     東海林さん

〜昼 食〜
食事は、郷土料理の「ほうとう」

イメージ 27


2:00 ゲストのスピーチ 1

有馬匡澄さん……「有馬家の宗教変遷」

イメージ 28

 本日は有馬晴信の没後400年祭にお招きいただきありがとうございました。私・匡澄は昨年12月18日に、有馬家本家の27代目を襲名したばかりです。これを機会に有馬晴信の歴史を研究していきたいと思います。
 晴信は天正少年使節をヨーロッパに送ったことで有名ですが、かつて有馬家の菩提寺は曹洞宗の台雲寺でした。晴信の父・義貞は心のよりどころを求めてキリスト教に入信しましたが、晴信は有馬家の存続のため南蛮貿易を進めることにあったようです。その後菩提寺として、白道寺は浄土宗、高岳寺は天台宗。曽祖父と祖父は神道に改宗して東京谷中に墓をつくりました。そして晴信はキリスト教と、たくさんの宗派を持つめずらしい家です。…
 最後に、この記念祭と交流会を企画された方々には心よりお礼申し上げます。


志賀賢子さん……「菊亭ジュスタと私」

イメージ 29

 私は大学までミッションスクールで教育を受けました。菊亭家は古い家系なので、京都には何ヶ所も墓所がありまして、有馬さまのようにそれぞれに宗派が違いました。…50歳を迎えるころ、すべては神様に計られていていることに気づき受洗しました。
 主人の親戚筋から「聖母の騎士」2004年5月号が届きました。これがジュスタ菊亭との出会いでございます。
「処刑の日、すべての希望を失った晴信だったが、ずっとそばにいた夫人ジュスタの助けを得て、深い信仰を持ってイエスの御受難の朗読を聞き、一生涯の罪の許しを願いながら首を刀にあずけた。夕方にはキリスト教徒として葬ることの許しを得、葬式を得た。静かな雨の中、みんなが尊敬のしるしとして傘も差さず、雨音をパウロやイルマンたちの歌声として聴いていた」
 このことを聞いて、私が洗礼を受けた意味も深いのだと感じました。記念祭に私がキリスト教の信徒として参加できましたのも、ほんとうに幸運で、そして感謝と感動でいっぱいでございます。本日は多くの方にご参加いただき、素晴らしい会となりましたことを心よりお礼申し上げます。


小佐々学さん(中浦家)…「殉教者中浦ジュリアンの列福と、ローマ法王に謁見して」

宮崎栄一さん(千々石家)……「晴信公の正使であった千々石ミゲル」

〜コーヒータイム〜

2:50 ゲストのスピーチ 2

示車右甫さん(研究者)…「私の晴信像」
宗任雅子さん(研究者)…「岡本大八について」
有賀町子さん(現地家来筋の末裔)…「有賀家の言い伝え」
清水紘一さん(研究者)…「終焉地特定の経緯」
国見登さん(全国かくれキリシタン研究会)…「島原半島を歩いて」
五野井隆史さん(研究者)…「マテウス・デ・コウロス「1612年の年報書簡」」

〜歓 談〜

「次回は、500年記念祭をぜひしましょう。でも、今日の出席者はだれも参加できませんね」という話で盛り上がりました(;^_^A

イメージ 30

 式典の初めに400年前の天候を再現するように激しい雨が降ったことは、この日のことを強い印象とともにみなさんが記憶することでしょう。

イメージ 31

 栖雲寺(晴信謫居跡より4kmほど上流)蔵の虚空蔵菩薩像は、これまで有馬晴信の肖像画ではないかといわれていましたが、数年前の研究により、最近では景教(ネストリウス教)、あるいはマニ教の聖人画ではないかともいわれています。ただしこの絵画がこの地に存在するゆえんについては、有馬晴信が南蛮貿易で手に入れて、イエスへの信仰の対象としてこの配流地まで持参したという説がもっとも有力です。あるいは栖雲寺開山の業海本浄が帰国時に持ち帰ったものかもしれませんが根拠はありません。
 昭和54年当時の栖雲寺の話によると、有馬晴信の家臣が遺品としてこの寺に託したとのことで、長く秘仏のままでおかれていたといいます。400年前の状況、またこれらの言い伝えなどから、やはりこの仏画は有馬晴信が斬首されるまでたいせつに所持していたと考えられます。栖雲寺は室町期よりこの地の名刹で、家臣衆が晴信の遺品をひそかに収めておくにはふさわしい場所です。

 その他、有馬晴信の埋葬地の特定など、史跡にまつわる今後の研究課題は多くあります。

3:40 山内神父のお話

〜歌 「ふるさと」〜

イメージ 32

4:00 閉会のことば

 これですべてのプログラムが終わりました。参加者のどなたもが「今日の記念祭に参加して、ほんとうによかった」とおっしゃっていました。

※ それでは、100年後にまたお会いしましょう !(^_-)v




翌日の、記念碑前です。

イメージ 33

また、来年 !(^^)!

.

閉じる コメント(6)

閉じる トラックバック(0)

有馬晴信没後400年記念祭

私の在所に、有馬晴信謫居跡 という史跡があり、この5月6日で彼が亡くなってからちょうど400年が経つので、謫居(たっきょ 罪を受けて配流されること)跡で記念祭が行われます。

史跡の看板です。

イメージ 1

こんなことが書かれています。



有馬晴信謫居跡
 有馬晴信はキリシタン大名で知られています。肥前有馬(現在の長崎県)の日野江城主であつた晴信は、天正8年(1580)に洗礼を受けて以降、熱心なキリスト教徒となりました。天正10年(1582)には「天正遣欧少年使節」として少年四名を、九州戦国大名大村純忠・大友宗麟らと共にローマ法王のもとへ送っています。
 晴信は関ケ原の戦で徳川方に加わりましたが、慶長14年(1609)長崎港外ポルトガル船焼き討ち事件で功をおさめた見返りとして、かつての領地を戻してくれるよう持ちかけたために家康を激怒させてしまいます。これは岡本大八(徳川幕臣本多正純の家臣)が晴信を悪巧みによってそそのかしたせいなのですが、大八は火炙りに、晴信は甲斐国初鹿野の地に幽閉され謫居の身となりました。晴信は慶長17年(1812)5月6日に切腹を命じられましたが、キリスト教では自殺を禁じられていたため切腹を拒んで家臣の手で斬首されたといわれています。晴信の死後、有馬家は嗣子直純によって継承されています。
 初鹿野には晴信の仏霊名「晴信院殿迷誉宗転大禅定門」の紙位牌が伝来しています。晴信が謫居していた館の位置は正確には伝えられていませんが、丸林橋の西端、日川に沿ったところとされています。現在の史跡の案内板は、この場所より南に位置しています。



ずいぶん田舎です(;^_^A

イメージ 3

イメージ 2

イメージ 6


先日、NHKでテロップが流れました。

イメージ 4

5月1日付の地方紙に、記念祭についての記事が載りました。

イメージ 5


どのような記念式典になるのか、楽しみです!(^^)!

.

閉じる コメント(2)

閉じる トラックバック(0)

武田勝頼公まつり その2

甲斐大和駅ロータリーの武田勝頼公銅像。
イメージ 1

すぐそばの小高い台地にある大和中学校。
イメージ 2

ここが ふるさと武田勝頼公祭り のメイン会場
イメージ 3

武者行列は終わっており、軍団は屋外舞台に集結しています。
総大将は、田辺市長
イメージ 4

巫女の舞(大和中学女生徒)が披露されました。
イメージ 5

いよいよ勝頼公軍団出陣絵巻がはじまります!!
出陣前の 三献の儀 です。
イメージ 6

忍者との戦い??(どのような設定かよく聞いていませんでした〜('_'))
イメージ 7

戦いに勝利して、耳をつんざくばかりの大砲の轟音!(鼓膜が破れそうだったょ(*_*))
勝どき!!
イメージ 8

信玄公が湖衣姫さまとなにやら言葉を交わしている(+o+)
イメージ 9

軍団解散して、真田幸隆殿の雄姿です
イメージ 10

会場にはたくさんの出店が…
イメージ 11

甲州青年会議所のブース
男の子ならわくわくすると思う!(^^)!
イメージ 12

弓矢をつくって
イメージ 13

試射します!!
イメージ 14

雨が降ってきました〜
イメージ 15

このあと原田直之さんの民謡ショーがありますが、約束があったので残念ながら会場を後にします。
小径を下ると、桜がきれいです
イメージ 16

天正十年三月、織田・徳川連合軍と武田勝頼軍の激戦のため、この先の渓谷を流れる川は三日間血に染まったと言います。
川は 三日血川 と呼ばれ、その後現在の 日川 となりました。
イメージ 17

川沿いの桜を見るたびに あわれ を想います
イメージ 18


それではまた来年(^.^)b

閉じる コメント(4)

閉じる トラックバック(0)

武田勝頼公まつり その1

4月22日、第47回ふるさと武田勝頼公まつり が甲州市大和町で開催。
今年は甲斐武田家が天目山の戦いで滅びてから430年です。

大和町田野地区、桜が満開です。
イメージ 1

祭りの幟と軍旗がはためいている。
イメージ 2   イメージ 3

景徳院の山門、数日前は桜がまだつぼみだったのですが…
イメージ 4

巫女姿の中学生たち、男武者、女武者、武将たちの姿…
イメージ 5

11:00 甲将殿の裏にある勝頼公、信勝、北条夫人の墓の前で供養の読経。
イメージ 6

イメージ 7

僧侶は本堂へ向かいます。
イメージ 8

本堂前には軍団が勢ぞろい。
イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

市長による祭開始のあいさつ。
イメージ 12

設楽が原、大和市からも関係者がかけつけました。
イメージ 13

儀式が終わり、軍団は一時の休憩。
イメージ 14

楽しそうです(^o^)
イメージ 15

イメージ 16

女武者は華やかですね。
イメージ 17

信玄公真田幸隆殿
(このお二方は、恵林寺で行われた信玄公忌にも来ておられました)
イメージ 18

北条氏政殿(北条夫人の兄)
イメージ 19

湖衣姫さま はさすがに美しくあられる(#^_^#) イメージ 20

ただ春の夜の夢のごとし…
イメージ 21


12:00 軍団は甲斐大和駅近くの会場へ移動します。

つづく

閉じる コメント(2)

閉じる トラックバック(0)

桃源郷ですヽ(^。^)ノ

あたしんちでは毎年、桃の花見に行きます。
今年は冬が寒かったので桜の開花が遅れている、桃の花ももちろん遅いわ('_')
いつもは4月10日とか12日とかに行くんだけれど、今日は19日でしょ、一週間は遅いのよね。

いつものように一宮の見晴らし園の横の駐車場から、北の方角の盆地を見下ろします。畑がピンク色でいっぱいです、こういうのを 桃源郷 って言うみたい(^^)v

イメージ 1

それから、いつものように畑のあいだの道を通って南の丘を目指します。
坂道の途中に、スイセンやチューリップがいっぱいのお家があります。

イメージ 2

やっと 花見台 に着きました〜
(このポイントは標高が高くて山の影にもなっているので開花は遅いのですが、山裾の咲き誇る桃畑を俯瞰できます。)

イメージ 3

展望台前の桜が満開です。「今年は桃と桜の花見が同じになる」と言ってたけど、ほんとうになりました。

イメージ 4

モモはリードを付けて、パパとたくさん遊んだわ♪

眼下には、桃の花の絨毯 が広がっています。

イメージ 5

花見台は遠くから見ると砦みたいです(^。^)y-.。o○

イメージ 6

下界の畑も桃の花でいっぱいなのです。
(桃の花見では、あたしんちの秘密のコースがあるのよ(^_-))

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イツモアでお買いものをして、初鹿野に戻ってきました。

ここのJR駅の桜は有名なのよ(^<^)
(盆地の桜は終わりだけど、ここの桜は今が満開です!)

イメージ 12

イメージ 13

勝頼公の銅像の前で モモのお写真 を撮りました〜

イメージ 14

イメージ 15


おうちに帰りました。ここがあたしんちのお庭で〜す!(^^)!

イメージ 16

おしまい(^-^)

閉じる コメント(6)

閉じる トラックバック(0)

全19ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]


.

momochan
人気度

ヘルプ

Yahoo Image

  今日 全体
訪問者 2 5813
ブログリンク 0 23
コメント 0 716
トラックバック 0 0
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31
検索 検索

ブログバナー

ケータイで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

URLをケータイに送信
(Yahoo! JAPAN IDでのログインが必要です)

開設日: 2006/9/15(金)


プライバシーポリシー -  利用規約 -  ガイドライン -  順守事項 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2012 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.