海鷲よ甦れ

東海の浜に残りし飛行基地 「接敵できず」の文字に涙す *筆者並びに親族は、防衛省・自衛隊関係者ではありません

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「横浜日記」(11)―聖地・比叡山が特攻基地だったとは!

「横浜日記」(11) 05・8・25 梅本浩志

 <聖地・比叡山が特攻基地だったとは!>

 今日のNHKテレビ午後2時半のニュース番組で、日本佛教の聖地・比叡山が太平洋戦争末期に海軍特攻隊の基地となっていて、戦争の最前線だったことを報じていた。私自身、初耳であり、衝撃的であった。
 ニュース報道の内容を書き記しておく。
 敗色が濃厚となり、本土決戦が叫ばれていた1945年4月、日本軍は決戦の基地として、比叡山を特攻隊の拠点にすることを決定し、直ちに工事に取りかかった。山の頂上にロケット特攻機発射のカタパルトを8月15日に完成させるスケジュールを立て、工事に入ったのである。
 ロケット特攻機とは、特攻隊員が操縦する有人ロケット弾のことで、主として飛来する敵爆撃機B29を迎え撃ち、体当たり攻撃して敵機を撃墜することを目的とするいわば人間高射砲弾である。ロケット弾だから離着陸する滑走用車輪はない。自力での離陸は不可能である。そのため離陸するときには、つまり砲撃するときには、滑走できないから離陸用装置を使って撃ちださなければならない。その装置がカタパルトである。水上機を軍艦や陸地から離陸させるときにカタパルトが使われる。現代の人工衛星ロケットを打ち上げる装置もカタパルトの一種である。
 カタパルトから打ち出されたロケット機(弾)は、小さく付いた翼で特攻隊員が操縦しながら敵機に体当たりするよう設計されている。もし体当たりし損なっても、ロケット燃料は片道分しか積まれておらず、また着陸するための車輪はないから、当たり損なった高射砲弾が落下して破損あるいは自爆するように、ロケット特攻機は大地に激突するしかない。カタパルトから発射されれば、生きて帰還することは絶対にあり得ない、そんな特攻機である。その特攻機の名は「桜花」(おうか)と言った。
 この特攻基地を急造するために、比叡山の大津側、京都側双方に付いているケーブルカーを資材や必要物資運搬用に改造した。登山観光客用に作られていたケーブルカーは無蓋の貨物車に改造された。
 カタパルト基地工事が始まった1945年4月、この比叡山に16才、17才と年若い少年中心の海軍特攻隊員40人が連れてこられた。比叡山の総本山・延暦寺はこの特攻計画に全面的に協力した。まず特攻隊員たちを受け入れるために寺は書院などの施設を進んで提供した。戦争勝利のための祈祷を連日続けた。そればかりか、佛教で言う「一殺多生菩薩戒」(いっさつたしょうぼさつかい)を恣意的に解釈して、「悪い一つの敵を殺して、多数を救うから、佛の教えに沿うことだ」と特攻計画を積極的に支持し、合理化して、説教さえした。
 殺生を禁じた佛の教えに背く当時の延暦寺の対応であった。だがそうした特攻計画も、カタパルト完成予定日がちょうど敗戦の日の8月15日だったために、遂に計画倒れに終わった。若い特攻隊員も命を捨てずにすんだ。それどころか、延暦寺の僧侶が語るように「もし本土決戦となり、比叡山が特攻基地で最前線となっていたなら、比叡山は廃墟と化し、今日の比叡山はありません」。かつて戦国時代、比叡山延暦寺は僧兵集団という一大兵力を持って武装していたために、織田信長軍に攻撃されて、全山焼失したという歴史を持っている。危うくその歴史を繰り返すところだった。
 比叡山延暦寺は来年で開山1200年を迎える。天台宗の僧・最澄が開いたこの寺から、浄土宗の法然、臨済宗の栄西、浄土真宗の親鸞、曹洞宗の道元、日蓮宗の日蓮、時宗の一遍といった、現代佛教を築いた名僧を多数輩出している。カトリックの総本山がローマ・バチカンであるなら、日本佛教の総本山は比叡山・延暦寺である。その比叡山が佛の教えを曲解して戦争犯罪に協力し、多数の若者たちを殺そうとしていたのである。延暦寺はこの忌まわしい過去を自己批判して、平和を目指す宗教者として自己再生すべく、開山1200年を前に信者たちに説く日々を送っているのだと言う。

 比叡山が位置する滋賀県・大津は私の生まれ故郷である。その比叡山の向こう側にあるのは京都である。私が大学生活を送り、地方記者活動に従事し、木造アパート暮らしをした地である。
 比叡山は、広い水面を拡げる大きな湖の琵琶湖を見下ろし、大津と京都を遠景できる眺望勝れた山である。小学生時代、幾度か、頂上まで歩いて登ったものである。長じて家族を持ってからは、子供3人を連れて、延暦寺の僧坊に1泊し、精進料理を味わったこともある。緑豊かな山である。
 裾野のほうに古代・天智天皇の首都・皇子山がり、少し離れたところに三井寺(園城寺)がある。日本近代絵画の恩人のフェノロサもここに眠っている。近くの長等山の公園には平家の武将が詠った有名な詠み人知らずの歌「・・・昔ながらの山桜かな」の石碑が建っている。
 少し奥まった昼なお暗き原始林の一角に琵琶湖で水死した、身元不明者の無縁墓地があり、いつでも検視できるようにと浅く埋められているから、その辺りを歩くと、そうした墓土にうっかり足を載せると、棺の上板が薄いため、ズブッと踏み入れることがあり、中から骨などが出てくるので、たいていの者は肝を潰し、顔面蒼白となることもあり、腕白どもたちが肝試しにと恐々としながら強がりぶりを見せに行ったりするところでもあった。
 敗戦を目前にした1945年8月に入ってからのことだと記憶するが、この比叡山を超えた米軍戦闘爆撃機グラマンが突然、低空で襲いかかり、山の麓の大津側のちゃちな飛行場を爆撃したことがあった。その爆撃音の凄かったこと。私の家から3キロ程度の距離があるのだが、耳をつんざく音だった。空襲警報もない突然の急降下爆撃だった。母が慌てて「防空壕!」と叫んだのだが、後の祭り。私は家の前に悠然と立ち、グラマンの急降下から爆撃に至る様をまるで映画を見ているように、観ていた。
 そんな爆撃はともかく、戦争が激化するにつれ、B29が毎晩、何十機と編隊を組んで、頭上を悠々と飛んでいった。いつも真夜中で、小学生時代で眠さに弱かった年頃で、毎晩の空襲にはまいったものである。月光に映えたB29の銀翼と筋を長く引く飛行雲がことのほか美しく、戦争末期には防空壕に入らずに、空を見上げて見とれていたものである。B29は近畿地方を夜間爆撃する際には、紀伊水道から入って、月光で鏡のように映える琵琶湖を目標とし、舞鶴湾に抜けるのだと聞かされていた。万一、機体が損傷を受けても、日本海で着水し、潜水艦が乗員を拾い上げるのだとも聞いた。
 琵琶湖がこうしたB29の爆撃行路になっていることは小学生の私にも分かっていることだったから、確かに比叡山はそんなB29迎撃の格好の山だったにちがいない。標高800メートルはある山だから、それだけ高射砲の届く距離も延び、まして人間ロケット高射砲弾であれば、撃墜の確率も高くなろう。だが小学生でも分かるような、当時の日本軍の思いつき的な思惑どおり、作戦が成功したかどうか、はなはだ疑問である。たとえ最初はうまく命中しても、米軍側は直ちに対応したり、全山基地化している比叡山を爆撃したことは確実で、山は炎に包まれて、特攻隊員たちは命を無駄に捨てさせられたのではないか、そう思えるのである。   

転載元 転載元: 時代状況 横浜日記

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