『ALWAYS三丁目の質屋さん』
ALWAYS三丁目の質屋さん’64 (その10)最終回映画「ALWAYS三丁目の夕日’64」を真似て書き始めた特集を今日でいったん終わりにします。
あの映画は昭和33年から始まり、第三弾は東京オリンピックが開催された1964年が舞台でした。
“古き良き時代”としての昭和の風景はたぶんこの東京オリンピック開催あたりで一段落すると思います
その後、目に見えた経済成長は1970年(昭和45年)あたりまで続くのですが、一方で学園紛争が盛んになり、東大闘争やあさま山荘事件、米ソ冷戦の深刻化とベトナム戦争の激化、ヒッピーやフーテンなど若者風俗の多様化などで戦前から守られてきた家族内の上下関係が崩れ、とても“古き良き時代”とは言えない時代を迎えるからです。
上の写真は、1973年(昭和48年)の写真です。
上列左の次男は、神田にある東京電機大学・機械工学科の一年生でサイクリングクラブに所属して、
夏休みなどには自転車旅行を繰り返していました。あるユースホステルでは女性に間違われたとか?
上列中央の長男は、北里大学衛生学部の3年生で、山登りが好きで丹沢自然保護協会にも入っていたかな?野沢那智や落合恵子さん等ラジオの深夜放送をこよなく愛していました。
で、一番右が私!中学校3年生で、クラブで器械体操を始めたころです。
前列は父と母ですが、“母若いなぁ!”と思ったら、この時はまだ43歳です、
とにかく母のワンピースと、次兄の髪型が時代を感じさせる写真ですね。
この写真の3年後に上の兄が結婚して、翌年子供が出来ているので、母は47歳でおばあちゃんになり、その二年後には女の子の孫も出来ました。兄は2000年に他界しましたが、その女の子(私の姪)が、やはり21歳で結婚・出産し、今は3人の母親になっています。母の曾孫ですね。
次兄も大学卒業後、オーディオ機器メーカーに就職し、三年後に大手電機メーカーにヘッドハンティングされ、現在は一年の半分以上をアジアや東欧など各国を駆け巡っています。
1985年に結婚、数年後一女に恵まれ、一昨年その娘も結婚しています。
で、私ですが、この写真は前回の小学校生活から3年後、市内の私立の中高一貫校に入学し、
体育の先生に運動神経を買われて体操部に入部していました。(だからこの時点で身長は止まったのかな?)その後日本大学を卒業して浜松にある自動車メーカに就職の為に家を出ました。
ちょうどその年に次兄が大手電機メーカーに転職の為、やはり家を出たので、一気にふたりの子供たちが旅立ち、両親には寂しい思いをさせてしまったことを今更ながら後悔しています。
私はその後に自動車メーカーを辞めて家業を継ぐことになり、学生時代から付き合っていた彼女と結婚、二人の子供に恵まれ、今に至っております。
弘明寺の街はだいぶ変わりました。3軒あった映画館は次々と無くなり、市内を循環する市電(路面電車)も廃止になり、代わりに市営地下鉄が開通しました。
子供の頃遊んだ別所・中里の山々は崩され大規模な住宅地に開拓され、川沿いにあった捺染工場もなくなり、そのおかげで川は綺麗に整備され、桜の季節には多くの観光客が訪れます。
弘明寺商店街も綺麗になりましたが、大手の長崎屋が進出し、それもバブル崩壊後に撤退、個人商店は次々と閉められ、最近では八百屋でも惣菜店でも大手のチェーン店が増えてきました。
最盛期には4店舗もあった質屋はうち以外はなくなり、代わりに最近は大手の中古品買取業者が続々と開店しています。
これから、この町はどう変わってゆくのでしょうか?
古き良き時代というのは、その時代だけに通じるものではなく、その時代の良さは現在でも通じるはずです。古い時代の良さを知っている私は、古い奴だと言われようとも、古い時代の良さを守りながら
この三丁目の質屋を続けてゆきたいと思います。
「ALWAYS三丁目の夕日」の映画の真似をして書いてきましたが、
この映画のタイトルに使われた「ALWAYS」という言葉の意味は、中学で習いますが、
もちろん「常に」とか「いつでも」と言う意味ですよね。
時代がどんなに変わっても、家族や近所の人たちが離れ離れになってしまっても
夕日町三丁目で過ごしたあの日々を、みんなで一緒に夕日を眺めたあの時を、
Always=いつまでも、忘れないよ。
そんな意味でしょうか?(勝手な解釈、ごめんなさい。)
もちろん私も忘れません。 大橋町三丁目の質屋で過ごしたあの日々を
そして今のこの日々も・・・・。
・・・・・・「ALWAYS三丁目の質屋さん’64」を終了します。
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