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神罰という解釈
世界の哲学
[ よしあき ]
2012/3/11(日) 午後 10:15
「神は愛であってほしい」とか「神は公平であってほしい」と私がいくら神に対する願望を持ったとしても、神に「私はそのような者ではない」と言われたら、私はそれを受け入れるしかないと思っています。
「セカンド・チャンス」や、それよりも「万人救済」があればいいなと思います。けれども神に「そんなものはない」、「あなたは選ばれていない」と言われたら、それまでだと思います。
人間の願望は神に対して無意味だと諦めています。いや、これも一つの私の神観ですね。神は変化しない存在だという神観ですね。
人と人が交われば、相互変容はあり得ますが、神と人が交わっても、人は変わっても神は変わらないだろうという、私の神観です。これも相対化されなければいけませんね。神は変わらないだろうと諦める必要もないですね。神が存在すればの話ですけど。
神罰という解釈
世界の哲学
[ shalom ]
2012/3/11(日) 午後 7:52
生きているうちは信じている者にとっても神はおぼろですが、いつか神と顔と顔を合わせる時があるなら、その時、人は神をはっきりと知ることができるし、どのような人も遺棄し続けることはできないのではないでしょうか。ペテロもイエスを十字架につけた人々に向かって、あなたがたは知らずにあのようなことをしたのであり…と語っています。またパウロは思うべき限度を超えないように強い調子で注意していますが…どうでしょうね。イエスによる福音が宗教化しキリスト教になったことによって生じている問題のような気もしますが、よくわかりません。
救いのチャンスは死を迎える時までの一回限りであるという考えと死後セカンド・チャンスがあるという考え方があるようですが、聖書にも二つの考えを支持するような言葉があるようです。ただ一回か死後にもチャンスがあるかの違いで伝道に対する緊急性があいまいになることが危惧されているようです。私はそれは神を信頼し、委ねるべきことであって、人の解釈によって決着がつく事柄ではないとしかいうことができません。
神罰という解釈
世界の哲学
[ よしあき ]
2012/3/10(土) 午後 6:11
私の言う地獄とは、最後の審判の後に投げ込まれる永遠に神と切り離された場所のことです。消えることのない火が燃え盛る場所、永遠に苦しみ続ける場所です。マタイにも出てくる地獄のことです。実存的な意味での地獄ではなくて。
キリスト教(改革派神学)には予定論・選びの教理もありますが、この教理は信じていますか?
選びがあれば遺棄もある。予定・選び・恵みの賜物によって神を信じるなら、その逆、遺棄の予定もあり、地獄行きは避けられない。
もし予定・選びがあり、地獄があるならば、神の愛は、人が日常的に使用している意味、国語辞典にある意味での愛とは意味内容が異なると思います。
いや、違わないかもしれません。神は選んだ者しか愛さないのだとしたら、人間の愛と同じになりますね。
予定・選びがあり地獄があると前提しての話ですので、それらの前提がなければまた違う結論になりますが。
神罰という解釈
世界の哲学
[ shalom ]
2012/3/10(土) 午前 7:44
この天地を創造された神は全能の神であり、神は聖、愛、義なる方だとするなら、もはやその御心、みわざは人の解釈を超えてしまうのではないでしょうか。解釈できないとしても信仰によってのみ受け容れることが出来るのだと思いますが、信仰でさえも神の恵みの賜物なのですね。神によって与えられる恵みの賜物である信仰を捨てて、神が食べてはならない、それを食べると死ぬであろうと言われた善悪を知る木の実を食べることによって、人自らの手に善悪の解釈の基準を持つことにより解釈が生まれ、キリスト教という宗教による解釈が神罰という解釈を生み出したのではないでしょうか。
神に対する信仰が失われ、人の解釈が支配するところ、神が否定されるところが地獄と言えるのでしょうか。地獄を生みだすのではないでしょうか。
神は失われた信仰を回復するために、律法を与えられたのですが、その律法をも律法主義にすり替えることによって、神を拒絶したことがイエスの十字架によって明らかにされ、しかも、そのイエスの十字架の血によって神は人の罪をあがなわれたというのは人の解釈を超えた神のみわざだというほかありませんね。ね。




