サテュログ −HybridRainbowへの旅路−

サテュ(筆者:充)が残すログ(記録・情報)。異文化の土地での旅をしつつ心理カウンセリング・人の在り方などついて学んでいます。斑霓

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祈りの力・効能の真実

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世の中の広く一般的な考えでは、“祈り”というものについて、どう捉えられているのでしょうか? 
おそらく、「やるだけ無駄なこと」や、「具体的な効果はない」「気休め程度ならやってみたことはあるが、実際に助けになったかどうかは分からない」、などという意見が多数を占めるのではないのでしょうか。 

1週間前から、世界的に見て宗教色が濃い国・インド(現在は北部ダラムサラ・チベット人亡命地区)に滞在しているせいか、最近は、日々祈りの光景を目の当たりのする日常の中にいます。 
そんな中、ある具体的な祈りの実験結果・事実の話を知ったので、今日はその事について記してみたいと思います。 


これは、アメリカで“祈り”の力を専門に研究している「スピンドリフト」という組織が、ある研究を行った時の話です。 
この団体の研究チームが、植物の種子を使って“祈り”についての実験を行いました。 

一般に売られているライ麦の種子を、それぞれ同数の二つのグループに分け、それを土で満たした浅い容器に入れました。 
その容器の真ん中に紐を張り、種子をサイドAとサイドBとに分け、一方の側についてのみ「良く実ってくれるよう」に祈り、もう一方の側については何も祈りませんでした。 

その後、種子が育った後に、ライ麦の発芽の数を数えてみました。 
すると、何度実験しても、祈った側の種子の方が祈らなかった側の種子よりも、はるかに発芽率が高かったというのです。 

さらに研究者たちは、ライ麦が悪循環に置かれている場合でも、祈りは有効なのかどうかについて実験をしました。 
容器に塩水を加えて、ライ麦の種子に悪影響(ストレス)を与え、それ以外の条件は、良好な環境のもとでの実験と同じ手順で実験を行ってみました。 

その結果、祈りの効果は、前にも増して驚くべきものになったそうです。 
祈られた種子群と、祈られなかった種子群との発芽率はさらに開き、祈りは「生体がストレスを受けている時」の方が、より効果的であることが分かったのだそうです。 

そこで研究者たちは、種子の容器の底にある水に塩を加えていきながら、同じ実験を繰り返してみました。 
すると、塩分の量が増えるにつれて祈りの効果は増し、発芽率は増していったというのです。 

これは、物理的条件が良い時よりも、悪い条件の時のもとにある時の方が、祈りの効果が強くなることを示していました。 

研究者たちは、さらに実験システムを変えてみました。 
今度はライ麦の代わりに大豆を使い、塩水の代わりに温度や湿度を変えて、過酷な環境のもとで試してみたところ、やはり、同様の結果が得られたそうです。 

つまり、生体にストレスがかかっているほど、祈りの効果は大きいことが、重ねて証明されたのです。 
これらの実験結果から分かることは、「祈ってもらう主体が厳しい状況に置かれている時ほど、祈りの効果は大きい」ということです。 

仮にその人が病気であれば、軽い病状の時よりも、深刻な病状で苦しんでいる時ほど、祈りの効果も大きくなるというわけです。 

常識的に考えると、「軽い病気になら効くかもしれないが、重い病気になってしまうと、祈ってみたところで効果などないだろう」と思ってしまいがちです。 
ところが何と、実験結果は逆だったのです。 

相手がつらければつらいほど、“祈る”ということには効果があるのだそうです。 



…この話から、どんな印象を受けたでしょうか? 

実際に、ある特定の医療団体や他の組織においても、祈りの実際効果を得られてケースは、他にも多くあるそうです。 
つまり、一般の世の中の常識として浸透していないだけで、知っている人だけが祈りの効果・効能を分かって実践している というのが今の世の中の現状なのです。 

今の私たちの国において、この祈りの効果を試してみるとしたら、まずひとつは、東北の被災した地域の人たちへ届けれる祈りがあるかと思います。 

人によっては、それぞれ別々のものへの祈り場所があるかもしれませんが、この研究を行っているラリー・ドッシー医学博士の言葉を借りると、「祈りの力」は「人類や地球や宇宙全体にとって正しいこと」のために効果を発揮されるものであり、私たちの個人的な充足のために効果を発揮するのではない、とのことです。 
つまり、個人的な欲に向かって祈るよりも、それよりももっと大きなものに対して「より良い状態」になるよう祈るほうが、祈りの効果が大きいのだそうです。 


目には見えないが、決して無駄な行為ではないと分かった“祈り”。 
形には表れないかわりに、大事な心の所作として、広く多くの人間社会に迎え入れられる日を、心の片隅で待っていたいと思います。 

…もしあなたが祈るとしたら、何に対して祈りを捧げてみますか? 

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フィリピン、海と緑と雨の島々

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フィリピンに向かう前の自分のフィリピンイメージ。
・海外へ行って働くフィリピン人労働数の多さ
・フィリピンパブ
・新井英樹の漫画・愛しのアイリーン
などといったものでした。


ひとつずつ説明していくと、フィリピンは自国の海外労働への経済依存度が世界一の国なのだそうです。
つまり、国内だけの生産では、国の経済が成り立たないということ。
その労働者数は約770万人。フィリピンの全人口が8000万人程度なので、人口の1割弱を占めている数の人が国外に行って仕事をしているそうです。

<参考サイト>
http://www.dir.co.jp/souken/asia/asian_insight/110311.html外部リンク
従来、国内に十分な就業機会がないため海外に職を求め移住し、また生活資金として送金される労働者送金が支えているといわれるフィリピン経済だった。

だが、今やアジアの経済成長に焦点を合わせ、移住労働者の資本フロー、移住先で国際化を果たした帰国人材、国民的特性である語学能力を生かし、新たな成長戦略を明確に描いている。そこには日本も学ぶものがあると思うがどうであろうか。




二つめは、日本もお馴染みのフィリピンパブ。
残念ながら、日本でも現地でもその手の関連店に入った経験がないので、どういう仕組みor状況になっているのか詳しく分かりませんが、検索してみるとこんなページが見つかったので、興味がある方は参考にしてみると良いかと思います。

フィリピンパブ入門 これらか初めてフィリピンパブに行くかたや、初心者のための解説
http://www.sanmateo2.com/contents/pub/biginner/biginner.htm外部リンク



三つ目は、昔ビッグコミックスピリッツに連載されていた漫画です。

内容は、敬虔なクリスチャンであるフィリピン人女性アイリーンが、日本で暮らしていく物語。
その背景には日本人と結婚して裕福になった村人を見たことから国際結婚を希望して日本にやってきた18歳の女の子の視点から描かれる、せつないんだけど、笑みをほどこしてくれるお話です。

<from wikipedia>
農村の少子高齢化、嫁不足、外国人妻、後継者問題、といった社会問題に真っ正面から取り組んだ作品。
特に、国際結婚が内包している種々の問題に対しては丁寧に書かれている。
終盤にかけては夫婦の愛情、母から子への愛情などにテーマが広がっていく。




実際に訪れた後の今の感想は、島の自然・緑の美しさ、子どもの奔放さ、国民英語力の高さなど、自分が持っていたイメージとは違ったものばかりを知ることとなりました。

その中でも特に、コミュニケーション英語の水準の高さには驚かされました。
田舎に行っても、ある程度のお年よりでも英語を理解してくれるので、語学の面では他の国よりかなり融通が利く国でした。

他にもいくつか日本も見習うべきことを知ったフィリピン滞在となりましたが、またいつか訪れる際には、今回仲良くなった瞑想センターのフィリピン人との英語会話力に磨きをかけて戻りたいと思います。





首都・メトロマニラ

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ダイビング リゾートの小島(中国人多し)・ボラカイ島

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天国への階段と呼ばれる世界遺産の棚田・バナウェ

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その他のフィリピン写真(マニラ・ボラカイ海・バナウェ・ボントック)
https://picasaweb.google.com/mitsuru916外部リンク

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宗教に教わる Part2 家庭の中の宗教

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いつかの将来、自分が家庭を持った際には、いくつか「こうしたいなぁ」と望んでいることがあります。 
その中のひとつ、それは宗教に関する話題をタブーとせずに、子供と共有していくことです。 

うちには関係の無いもの・腫れもののように、それを遠ざけるのではなく、子どもの興味とともに、自分の発言・行為も在るがままであることを基本としたい。 
たとえ時代錯誤の懐古主義と呼ばれたとしても、自分としては、今も昔にも通じる定理・行いとして、ハイブリッド(異種混合)を求めてゆきたいと思っています。 

今回は、わが師・日本のユング心理学の第一人者である河合隼雄先生の言葉から、“家庭の中の宗教”というテーマでヒントをもらったので、それについて記してみたいと思います。 



**************************** 
例えば、子どもの問題が起きたとき、「学校が悪い」とか「友達が悪い」と頭から決めつけてしまわず、まず、親は自分の問題として考えてみる。 
仮に母子関係に問題があると思ったとしても、その前の段階には、必ず夫と妻の関係があるわけで、本当の問題はそっちなのかもしれない。 
だから、目に見えている問題だけを言っても駄目。 
しかも、ひとりの子どもの問題が解決したとしても、別の子に問題が出てきたりもする。 
それは、ひとりの問題だけではなく、いつも全体が関わっているもの。 

さらに、親が「それは学校が悪い」と言って逃げようとしても、子どもが親に“対決”を迫ってくることもある。 
それは、ある種の“家庭禅”。 
「本来のお前をここに出せ!」それぐらいのことを子どもは親に突きつけてくる。 
子どもが出してくる問題というのは、時に禅問答のよう。 

それは、近代から現代まで、人間はずっと合理的な考え方を推し進めすぎた結果となって今ここに出てきた問題に思える。 
儀式なんて迷信だ!などと言って、宗教的なものをどんどん否定してきてしまった結果こうなってしまった。 

そこから、子どもが”守り”をなくしてしまった。 
宗教が、人間自身の中にある無意識の深層というものの恐ろしい面から、私たちを守ってくれていた。 
親というものは、そこを知っていないといけない。 

だから、家庭の問題を考えていったら、どうしても宗教的なことになる。 
****************************
 


宗教が担っていてくれた問題を、現代では便利さや勤勉さ・正確さで補おうとしてしまった。 

もし親である自分が宗教について知識がない・関心がない場合、子どもからそれに関する質問をされた時に、その親はどういう答えをするのでしょうか。 
“禅問答の模範解答”など、この世の中には出回っていませんが、他でもない自分の子どもに聞かれたことなら、懸命な回答・答えを相手に届けてあげたいものです。 


聞いた話ですが、小学校に入る前から読み書き数字などを子どもに熱心に教える親がいるそうです。
それを「子どものため」と言って推し進めすぎるのはどうなのでしょうか。 

それはきっと、単に親が早くに安心したいだけなのでしょう。 
「どうしてこんなことを?」と疑問に思う子どもを無理に説き伏せてそれを強いるのは、単なる主従関係です。 
子どもはただ、自由に遊びまわりたいだけなのだと思います。 


ここフィリピンの田舎の子どもをみていて思いますが、天真爛漫とはまさにこの存在なのだろう と、自由を自由に走り回るその姿に、いつも教えをもらっています。 
ある意味、子育ても親が良いと信じ込む窮屈で限定された教育をあてがう必要など、無い気がします。 


宗教から繋がり、無数に散らばる世の中のトピックについて、これからも考えていきたいと思います。 
(トップ写真は、マニラの道ばたで出会った子どもたち) 


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宗教に教わる Part1 ユダヤ道(後編)

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少し話が飛躍してしまったので、伝えたいことのポイントにうつりたいと思います。 

聖書は、とても興味深い書物であるにも関わらず、ほとんどの人が原語版でなく翻訳版を読んでいることに問題がある と、トケイヤー氏は語っています。 
それは、翻訳版と原語版は、必ずしも意味が同じとは限らないからなのだそうです。 

それぞれの国の翻訳で読んでしまうと、それらの多くはそれをひとつの意味にしか捉えることができません。 
しかし、原語である古代ヘブライ語で読むと、時にそれらは5つの意味を持つことがあるのだそうです。 

だとえばそれが語呂合わせであったり、言葉遊びであったり、ユーモアであったりという風に。 
ところが、翻訳で読んでしまうと、真面目くさった変な意味で捉えられてしまうことがある と、トケイヤー氏は嘆いていました。 

だから、ヘブライ語のトーラー(聖書:モーセ五書)の言葉でも、必ずしも字義通りの意味にはとらないのだそうです。 
それをするのは、ファンダメンタリスト(根本主義者。聖書のすべてを字義通りに受け取る人たち)のクリスチャンだけだと言います。 


それぞれのラビの解釈が違ったとしても、その疑問を相手にぶつけていって、やがて自分の解釈が生まれていくのだそうです。 
思えば、ユダヤ人に討論:ディスカッションが得意な人が多いのは、こういった背景があるのかもしれません。 
なのでユダヤ教のラビたちにとっては、様々な解釈や説の存在は混乱ではなく、むしろエキサイティングな知的刺激として捉えられているのだそうです。 
(加えて、ユダヤ教のラビ(宗教的指導者)の仕事のひとつとして、聖書の文学的な部分を適切に解釈し、現代人に分かるように説明することもあるそうです) 

ここで、私たち日本人にとっても共通する大事なことを言っていました。 


***************************** 
『聖書(書物)は読むだけでなく、自分で学んでいく必要がある』 

これは、終わることのない知的発展なのです。 
考古学の成果が加わったり、あらたな遺跡発掘が新しい情報をもたらしてくれるかもしれない。 
学びは生きています。 
読むだけでは死んでいる。 

様々な読み方があり、様々な解釈があります。 
そういったものに多く触れて、最終的に自分の解釈・自分の理解を持ってゆけばよいのです。
*****************************
 


付け加えると、ユダヤ教の経典:タルムードの各巻の最終ページは、いつも白紙になっているのだそうです。 
それは、新しい解釈・新しい発見をあなたが書き込んでいくため とのこと。 
ここに、私たち日本人の方も、ユダヤ教に対して学ぶべき姿勢があると感じました。 


>なぜ、ユダヤ教を取り上げたのかというと、ユダヤの宗教観・聖書に対する゛解釈゛、そして゛考察゛という部分に、旅をする上での重要な繋がりを感じたからです 
↑ 
旅の時間というものは、一般の仕事の時とは違って、゛時間゛というモノ・枠(わく)を売る代わりに、゛対価(金銭)゛を得ることは出来ません。 
ある意味、時間と共にその対価を浪費していく一方なものです。 
ただ、その時間を売らなくて済む代わりに、一日のすべての時間を自分で゛自由゛に左右することが出来ます。 

だからこそ、自分の使う・浪費していく時間というものを、大切に、自分の頭でどう過ごすか考えることが出来るのです。 
親から、先生から、本から、テレビから、人から言われただけを信じて、その通りに信じて生きていくのではなく、゛自分の頭で考える゛ということ。 

それは、他人の解釈・感想ではなく、自分がどう感じたかということ。 
それが、自分の頭で考えて出した結論かどうかということ。 
さらには、その考えに対して強い自信を持てるか・胸をはれるかということ。 


そこから、いつしか自分なりの真理・答えが見出せてくるのだと思います。 


***************************** 
私は、真理はすべての人にあると思います。 
真理の専売特許は、私にはない。 
どの人も、幾分かづつ真理を有しています。 
あなたも、私も。 
だから、お互いに学びあうことが出来る。隣人として。 
そこに問題はありません。
 

あなたにはあなたの言語があり、私には私の言語がある。 
私はあなたに「お前は俺と同じになれ」とは言いません。 
私は宣教師ではありません。もし、キリスト教の宣教師なら、 
「私が伝えている教え以外では救われません」 
と言うでしょう。「この道しかない」と。 
イスラム教もそう言います。 

しかし、ユダヤ教徒は決してそうは言わないのです。 
他の人の信じていることを見下げたり、あざ笑ったりしない。 
ユダヤ教徒はむしろ、あなたのよき隣人になろうとします。 
あなたの信仰を邪魔しようとは思いませんし、その逆もそうです。 

ユダヤ文化は私に合っています。 
同様に、日本文化はあなたに合っているでしょう。 
それでいいんだと思います。 
*****************************
 



自分にフィットするものを、大切にするということ。それを他人にも同様に。 
他の宗教・存在に対して批判的・否定的に捉えるのではなく、極めて寛容であるということ。 
そうすることによって、゛自分がどういうものを持っているのか、初めて理解できてくる゛こともあるのだと思います(この部分に関しては、次回詳しく取り上げてみたいと思います)。 



今回は、ユダヤ教の教えと旅について重なって部分があったのでユダヤ教を取り上げてみましたが、これからも色々な宗教・概念に対してあまり臆病にならず、自分なりの解釈を深めていきたいと思います。 
(トップ写真は、マニラの街中にあったキリスト画) 





「言論の自由」…世界133カ国で韓国87位、日本64位=韓国



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宗教に教わる Part1 ユダヤ道(前編)



前から書いてみたかったテーマのひとつでした。 
この旅の大きなテーマのひとつでもある問題、世界の宗教。 
その土地の宗教観から、その国を見聞していく大きな紐解きとしてゆく。 

旅を出発するにあたって、日本の歴史はもとい、世界の宗教についても盲点となる鋭い視点からの文章を書く井沢元彦さんの著書を数冊持って出かけたことは、今も正解だったと思っています。 


少しおおげさに言ってしまえば、宗教を度外視して、その国を理解するということは、出来ないのではないでしょうか? 
日本のように、無宗教が浸透している人々・国民性からしたら、このことは理解しづらいのかもしれませんが、自分が宗教に対して深く興味を抱き始めたのは、振り返ってみると、インド来訪以後のことだと思っています。 

あの国を知っている人なら分かるかと思いますが、インドの日常において、宗教と生活はとても密着している切っても切り離せないものです。 
まず、人々の服装である民族衣装…サリー・パンジャビ・クルタ。 
そして、街中にどこにいても見られる様々なヒンドゥー教の神様の偶像画や神の証し。 
さらに、お祭り中でなくとも、どこでも鳴り響いている独特の宗教音楽・バジャン等々…。 

最近では、日本のミュージシャンの氣志團が、新曲のプロモーションビデオの撮影をインドで行っていましたが、日本に広く浸透している仏教が生まれた国・インドにおいて、何かしら自分たちの原点回帰をしたかったのだろうか と、邪推していました。 

生まれた時から自然とそれらが身近にあった人たちからすると、それが当たり前なのかもしれませんが、それら雑感をひっくるめて生活している人たちの中へ溶け込んで旅をした時、正直、驚いていない振りをしながらも、その圧倒的な゛インド感゛に、無意識のうちに圧倒されないように努めていたかのように思います。 



さて本題に入ろうと思いますが、現在の世界政治を牽引している多くの国の宗教は、ここフィリピン同様、キリスト教です。 
しかし、今の旅において多くの時間を費やして訪れた宗教の国は、イスラム教の国でした。 
ただ、今回のこのテーマの第一回目の宗教は、それら二つの宗教ではなく、ユダヤ教という宗教を取り上げてみたいと思います。 

なぜ、ユダヤ教を取り上げたのかというと、ユダヤの宗教観・聖書に対する゛解釈゛、そして゛考察゛という部分に、旅をする上での重要な繋がりを感じたからです。 
上記の宗教研究者である井沢さんが、ユダヤ人でユダヤ教のラビ(宗教指導者)であるマーヴィン・トケイヤー氏と対談をした時の対話からたくさんのヒントをもらったので、そこからいつくかの引用をしながら記していきたいと思います。 



まず、ユダヤ教の歴史について。 

現在、世界3大宗教と呼ばれるものは、その信仰人口や政治力のバロメーターから、キリスト教・イスラム教・仏教の3つとされていますが、その3つの宗教よりもユダヤ教は古い歴史を持っています。 
さらに、ユダヤ教は上記のキリスト教とイスラム教と、今現在も多くの問題・いざこざを抱えています。

ここからしばらく、ユダヤ教のラビであるトケイヤー氏の言葉を借りたいと思います。 


***************************** 
ユダヤ教は、同じ一神教であるキリスト教やイスラム教とは違い、他の宗教の違いや文化の多元主義を認めています。 
だから、ユダヤ人の方から他の宗教と衝突していくことはありません。 

例えば、太陽からは様々な光線がやってきます。 
それらの光線を、神道、仏教、ヒンドゥー教、ユダヤ教…などと考えることができます。 
また、ニルヴァーナ(悟り・涅槃)に至る道がいくつもあります。 

あなたの道もあれば、私の道もある。 
だから道は違っても、私はあなたの隣に座れるし、あなたも隣に座ってくれればいい、友人として。 
私はあなたを煩わないし、あなたも私を煩わせない。 

しかし、そこでキリスト教徒は゛自分たちだけだ゛と言いました。 
自分たちだけが真理を持っていて、他には真理はないと。 
(キリスト教では、イエスの教えを信じさえすれば、その瞬間にあなたは救われる。死んでも天国に行けることを約束してもらえる。それはイエスが人類のために十字架の上で罪の贖〈あがな〉いを成し遂げて、死んだ後に復活してくださったから。だからイエスを信じない限り、あなたは救われない と伝えられているとの事。) 

井沢氏: 
だからユダヤ教徒とキリスト教徒は協調できないというわけですね? 

はい、協調するためにはユダヤ教徒の側には問題はありません。 
しかし、キリスト教徒は真理の専売特許を言い立てて、協調しようとはしてくれません。 
*****************************
 


このことについて、トケイヤー氏はイスラム教についても、同じことを話していました。 
この部分から察するに、ユダヤ教は一神教とはいえ、多様性を認める日本の神道のような゛ユダヤ道゛のようなものがある様です。 
現にトケイヤー氏は、日本に数年住んだことがあるそうで、その時にユダヤ教と日本の神道の類似性をいくつも見出したそうです。 


***************************** 
ユダヤ教=ユダヤ道…、 
それは生き方、行動、思考、人生の道です。 
話し方、どういう服を着るか、何をどう食べるかなど、生活そのものなのです。 

神道とユダヤ道は非常によく似ている。 
私は、日本の伝統、文化、日本人の中に、非常に美しい人生観、概念、習慣、宗教を見出しました。 
それは、私たちユダヤ人が学ぶべきものであり、また世界が学ぶべきものです。 
我々は日本人に対して尊敬の念を抱いています。 

この観点から見て、日本が唯一の神を信じようと、二つの神を信じようと、たくさんの神を信じようと、問題ではないのです。 
日本の中に見出されるそれらの尊いものは、尊敬に値します。それで充分なのです。 
*****************************
 


世の中のすべての一神教というものに対して、それ以外の一切を認めない強い排他的な要素があると思い込んでいた自分には、このトケイヤー氏の発言はとても意外でした。 
(他のものに対して排他的になるからこそ、その分自分の側に対しての価値に、プラシーボ効果が生まれるのだとは思っていましたが、。) 

このことが本当だとすれば、多くの問題をはらんでいるこの世界に対して、有効的な舵が打ち出せるのではないでしょうか。 
未だ世界に蔓延っている問題・病に対しても、この考えを適用する余裕や政策がなされれば、ただちに変化が見られるであろうに…。 


後編へ続きます

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開設日: 2008/12/16(火)


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